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20話 ありのままの世界

 あれから、私は城の医務室に運ばれた。

 背中の傷は魔王が治してくれたのに、それでも念のためと言って聞かないマーサに押し切られて、清潔なシーツに身を沈めている。

 薬草の匂いが鼻をくすぐる。一人きりの部屋で、白い天井をぼんやりと見上げていた。


(痛くない。全然、痛くないけど……)


 あいつの掌が触れた瞬間の熱と、傷が塞がっていく異様な感覚。それだけが、背中に残っている気がする。考えたくもないのに、その温度だけが消えてくれない。


「——リン」


 控えめな声に振り向くと、布袋を小脇に抱えたシュナさんが扉の前に立っていた。

 ベッドの傍まで来るなり、彼女は深く、深く頭を下げる。スカートの裾を握る手が震えていた。


「ごめん。間に合わなくて……自分の領域も守れず、リンに怪我までさせて」

「そんな、シュナさんのせいじゃ……頭を上げてください。誰も予想できなかったんですから」


 慌てて身を起こして言うと、彼女は一瞬だけ目を伏せてから顔を上げた。

 保護区の件で忙しいのに、合間を縫ってここに来て、言い訳の一つもせず頭を下げてくれた。それだけで、この人の本気は伝わってる。


「ありがとう。あの場所を……城のみんなを守ってくれて」


 少しだけ、胸の奥が温かくなる。自分がやった無茶が、誰かの救いになっていると実感できたから。

 シュナさんはベッド脇の丸椅子に腰を下ろすと、切り替えたように口を開いた。


「それと、ヒューイのこと。錯乱してたから、聴取はエヴァン卿の許可をとって記憶を読み取ったよ。感情が強く焼き付いた一部だけ……でも、陣のこともやっぱり彼だった」


 来ると思っていた話だ。しれっと恐ろしいことをすると思ったけど、公務中はそういう人だった。瑠璃色の瞳には、冷徹な内務卿としての光が戻っていた。

 彼女が袋から取り出した鏡の面が、ゆっくりと濁っていく。やがて濁りの奥に、焼き付いた場面が一つずつ浮かび上がり始めた。


 ◇ ◇ ◇


 屋敷内の、父上の管理する書庫。その最奥——何代も前に封じられたまま、父上すら開けたことのない区画。錆びた錠を壊して入った先に、黒い装丁の本が一冊だけ眠っていた。

 頁を捲る指が震える。読み解けたのは、陣の刻み方と、骸の操り方だけ……しかし、十分だ。物言わぬ死体なら、あの女を狙うには丁度いい。


 あの女は、気付けば陛下の直属になっていた。誰にどんな大金を積もうと、陛下の名を聞けば二の足を踏む。私にも、父上ですら手の届かない場所だ。

 二度は無い、と父上は言った。些事に構う暇は無い、とも。ならば……父上の手を煩わせなければいい。顔も名前も残さず、奴だけを消す。


『今度こそ、確実に……!』


 中央棟の回廊。あの女が一人で通る瞬間を狙う。

 石畳に陣を刻み、骸を呼び出して死角に仕込む。握らせたナイフが奴の心臓に滑り込む直前、繋がりが途中で焼き切られた。黒い、何かに。

 その日の昼、あの女は何事もなかったようにモップを握っていた。私は、また失敗した……あの女に、負けた。




 保護区の前を通りかかったのは、偶然だった。

 いつもなら遠回りをして避ける道。昨夜は一睡も出来ず、気付けば足が向いていた。

 広場では子供達が走り回り、長屋の前では女が洗濯物を干しながら笑っている。誰もが、何かを当然のように受け取って生きている。


(穀潰しが、魔族の税で賄われている。陛下の城内に設けられた区画で……ふざけるな)


 保護区の設立には反対派もいる。陛下の命を受けた父上が、どれほどの労力をかけてそれを抑え込んだか、こいつらは知りもしない。

 だから、付け上がらせるべきではないのだ。特に下賤な者は……あの女のような者達は。


 たかが辺境から出てきた小娘が、エヴァン家の嫡子である自分に反発した。しかも陛下の直属だと?

 あの女を引き入れたのは、アルト・ゲーデル。直属に据えたのは陛下だ。逆らうのは得策ではない。

 全部正しい。全部わかってる。だから余計に、腹の底が煮えくり返る。


『……』


 ふと、視線を感じた。

 子供達の輪から少し外れて、小さな少年がこちらを見ていた。大きな瞳がこちらをじっと捉えたまま、動かない。

 怯えているのでも、怒っているのでもない。ただ、見ている。


(……この目だ)


 脳裏に、あの女の顔が重なった。

 生意気に歯向かってきた時。刺客を返り討ちにして、啖呵を切られた時。あなたは間違っていると、言葉にしない分だけ雄弁に告げるあの目。

 気付いた時には、もう歩き出していた。石畳を踏む足音が、自分のものとは思えないほど荒く響いている。


『見下して……!』


 父上の期待には応えてきたつもりだ。いずれは財務卿の席を継ぐのだと疑わずにいた、はずだった。

 だが、今はどうだ? アルト・ゲーデルの笑み。父上の冷たい声。二度目の失敗。そして、あの女……全部、あれからだ。

 これ以上、私から奪うな——!


 ◇ ◇ ◇


「……ここまで、だね」


 シュナさんが鏡を布袋で包むと、医務室に重い静寂が落ちる。見せられた最後の引き金は、ひどく小さなものだった。

 男の子に、そんなつもりは無かっただろうけど……尊敬する父親にも突き放されて、あいつも限界だったのかもしれない。


「どう思う?」


 責めるでもなく、誘導するでもない。ただ、当事者である私の素直な言葉を待っている。

 それがこの人の寄り添い方なんだろう。少しだけ考えてから、肺に溜まっていた空気を細く吐き出した。


「あいつの常識は……多分、最初からああだったんだと思います」

「うん」

「歴史ある貴族の長男として育って、あの価値観の中だけで生きてきたら、ああなるのも無理はないのかも」


 認めたくはない。あんな傲慢な考え方が許されていいはずがない。でも、それがこの国の特権階級では普通の認識なんだと思う。

 弱者救済のために、富める者が割を食うのは確かだし、誰もそれを普段からは意識しない。あんな奴でも、全てが間違っているわけじゃない。

 被害妄想も甚だしいけど、人間の子供にそれを見下されたと思った結果があれだ。


「その外側から、私が刺激しすぎたのかもしれない。父親への劣等感とか、私への怒りとか……溜め込んだものが今日、最悪な形で爆発した」


 あいつに火を付けたのは私だ。今ならはっきり分かる。

 全部が私のせいだとは思わないし、自分の行動を後悔してるわけでもないけど。あいつの言い分を真正面から否定して、プライドを叩き潰したのは確かだった。


「あいつがやったことは許されない。マーサさんや子供達を巻き込もうとしたことは、絶対に。……でも、あいつだけが悪いとも思えないんです」


 擁護じゃない。ただ、冷静になった今だから見えてしまっただけだ。この世界の歪みに、追い詰められて暴発したあいつの中身が。

 魔王の前にへたり込んだヒューイの顔。あの歪んだ怒りと、父親に縋る惨めな姿の奥にあったもの。あれはきっと——。


「……子供のままだった」


 一方的で、感情的にぶつかるだけ。あれは……前の私と同じだ。

 シュナさんは私の答えを聞くと、微笑みながら頷いて立ち上がった。


「今日はゆっくり休んでね。……本当に、ありがとう」


 シュナさんが医務室の扉を閉めると、部屋には薬草の匂いだけが残った。

 再び白い天井と向き合いながら、この二日間を思い返す。昨日は角の生えたあの子に、今日は魔王に。結局、どちらも助けられてしまった。


(守られに来たんじゃない。そう思ってたのにな)


 背中を焼いたヒューイの一撃。分解が間に合わず、体で受けるしかなくて……マーサは守れたけど、保護区の子供達が人質になった。

 あれが私の限界だとしたら、どうすれば良かったんだろう。考えた結果、脳裏をよぎったのは魔王の魔術だった。


(……試す価値はある、か)


 時間や空間に干渉するあいつの得意技。何度も見てきたから、術の構造は分かってる。光と闇の魔力を束ねて、世界の法則そのものに干渉する離れ技。

 光の素質が無いのは知っている。あいつの拘束も、光だけは断ち切れなかった。それでも、手の届く範囲を一瞬だけなら……!

 誰もいない医務室の中で、静かに魔力を練り上げ始める。相反する二つを、体の中で練り合わせた瞬間——脳の奥で、火花が散った。


「っ……!?」


 視界が白く弾けて、頭蓋の内側を電流が駆け抜ける。額を押さえてベッドに手をつくと、鼻の奥に鉄の味が広がっていた。

 耳鳴りが止まない。流した魔力が内側で逆流しているみたいだ。体が、この術そのものを拒絶しているみたいな感覚で——。


「やめろ」


 それ以上を断つように、低い声が落ちてきた。声の方を見ると、扉の傍に魔王が立っている。

 いつからいたのか、壁に背を預けてこちらを見ていた。右手の血は拭われているけど、いつもの黒い外套は羽織っていない。血が付いたから、だろうか。


「……あんた、いつの間に」

「スランバート卿とすれ違った。よもや起きているとはな」


 あんたが見舞いなんて、どういうつもり? 言葉にする前に、魔王は私の様子を一瞥して続ける。


「オレの術を模倣したのか」

「ちょっとだけ試しただけ。使えれば、今日みたいな時に一人で——」

「お前では無理だ」


 遮るような断言。でも、反論する気力はなかった。少し試しただけでこれだし、無理なのは体が一番よく分かっている。

 魔王は一拍置いて、視線を窓の外へと逸らした。


「お(・)前(・)の(・)体(・)は(・)光(・)に(・)は(・)適(・)応(・)で(・)き(・)ん(・)。外から受ける分には耐性があるだろうが、体内で生成など不可能だ」

「鍛錬を続けても?」

「死ぬぞ。やめておけ」


 死にたいなら好きにしろとか、そんな皮肉すら無い。こいつの断言は、それだけで説得力があった。


「わかったよ。もうしない」

「ああ。そうしておけ」


 それっきり部屋に沈黙が降りる。気まずいけど、居心地が悪いのとは少し違う。うまく名前のつけられない空気の中で、私は膝の上の手を見つめていた。


「……外交だったんでしょ。王様が放り出してきてよかったの?」

「会談は済んだ。後はマグニス卿がやる」


 それ以上は語らない、といった横顔だ。時計が秒針を刻む音だけが、やけに大きく聞こえる。

 言いたいことは山ほどあるのに、何を言えばいいか分からない。口をついて出てきたのは、一つだけだった。


「……傷、治してくれてありがとう」


 今さら過ぎるとは思ったけど、言わないよりはいい。

 魔王はこちらを見ないまま、ひどく短く答えた。


「……すまない」

「勝手に飛び込んだのは私でしょ。あの時といい、何に対しての謝罪よ」

「オレが止める問題だった。あらゆる意味でな」

「神様じゃあるまいし、いくらあんたでも無理でしょ」


 意味を測りきれない言葉。けど、全部背負うつもりなのは分かる。自惚れんなと言ってやりたかったけど、そこまでは声にならなかった。

 それでも魔王は、何か思うところがあったようで。向き直った魔王の瞳には、どこか昏い光が宿っていた。


「——、……リン」

「……魔王?」

「お前は度し難いほどに、勇者そのものだな」


 勇者——その一言に掌が疼く。あの少女には偽物だと言われたばかりなのに、どうしてこいつは……。

 考えがまとまる前に、気付けば目の前まで距離が詰まっていた。不意に伸びてきた魔王の手を避ける間もなく、それはまるで慈しむように、柔らかく私の頭上に置かれ——は?


「っ……! な、なっ……!?」


 はあぁぁぁああっっ!???

 いっ、いやいやいや! 何だよ急に、虫でも止まってた!? いや、こいつ虫嫌いか!

 何も言えずにベッドの上で硬直する。私が正気に戻るよりも早く、魔王は静かに手を引っ込めた。


「公務に戻る。今は休め」


 私の混乱など気にも留めず、いつもの凪いだ横顔のまま踵を返す。

 いつもそうだ。こいつは勝手に現れて、勝手に私を見定めて、勝手に去っていく。

 人の心をこれだけ乱しておいて、自分だけは何も揺らいでいないような背中を向けて。


(また、何も分からないまま?)


 頭に残る微かな熱が、たまらなく苛立たしい。自分だけは全部知っていて、誰にも教えず一人で抱えて……!

 そんな一方的なやり方、私が全部壊してやる。考えるより先に、言葉が飛んでいた。


「あんたが望むものって、何? あれ、ヒューイに対して言ったんじゃないでしょ」


 魔王の足がぴたりと止まる。

 しばらくの沈黙の後、彼は振り返らずに低く答えた。


「ありのままの世界だ」

「ありのままの、世界?」

「全ての前提が崩れ、歪みが正される。オレの望みを成せるのは勇者だけだ」


 歪み。この二日で何度も耳にした言葉だ。

 前提って何の? そう問い返すより先に、魔王がゆっくりと振り返る。その手が、腰の剣を引き抜いた。

 さっき、ヒューイに向けて振り上げた刃だ。


「なっ……何、急に……」

「見ていろ」


 身構える私をよそに、魔王は躊躇いなく、その刃を自らの左の掌へ滑らせた。

 定着した黒のイメージと正反対の白い肌に、一筋の紅が引かれる。


「……っ!? 何してんの!」


 磨かれた石の床に、その血が滴り落ちていく。驚いて声を上げた直後、私は決定的な違和感に気付いた。

 傷が塞がっていない。魔族なら、自分で認知していれば再生して消えているはずの傷が。


「あんた、それ……もしかしてアルトと同じ?」

「そうではない。だが……あの忌まわしい力を、オレが使うことはない」


 混乱する私に、魔王は血の滴る手を見下ろしたまま、淡々と告げる。再生——魔族にとって最大の武器であるそれを、忌まわしいと言い切った。

 なら、あの潔癖も、食事も、本当に全部想像通りってこと? 魔王は剣を鞘に納め、血の滲む手に治癒の光を灯しつつ、踵を返して扉へ向かう。


「手の内は晒した。オレは今、ただの命だ」

「……なんでそれを私に見せるの? あんたの言ってること、全然わかんないよ!」

「お前の牙は、既にオレに届き得る。答えを得て、この世界を変えたければ——」


 扉が開き、廊下の冷たい空気が流れ込む。

 最後に残されたのは、私を試すような、ひどく重い言葉だった。


「オレを殺してみろ、勇者リン」


 扉が静かに閉まった。薬草の匂いに、微かな血の匂いが混ざる。

 床に残る赤い滴から目を離せないまま、心臓だけがうるさく鳴り続けていた。

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