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19話 綻び

「……あいつ、今日に限っていないのか」


 朝から魔王の私室を訪れたものの、返事はない。扉越しに気配を探っても、あの独特な圧はどこにも感じられなかった。

 すれ違った文官の話では、早朝から外務卿、戦軍卿と共に国境付近へ出向いたらしい。他国の大使との会談——つまり、しばらく戻らない。タイミング悪すぎでしょ。


 昨日アルトから聞いた、戴冠式の話。あいつの怒りがどこに向いているのか、今日こそ確かめようと思っていたのに。

 狙ったみたいにいないと、さすがに拍子抜けする。しばらく扉を見つめてから、小さく息を吐いた。


(とりあえず、文句言われないように掃除しとこ)


 ◇ ◇ ◇


 午前中は、いつもより穏やかだった。

 魔王がいないと、あいつの行動圏の掃除はすぐに終わる。手を抜いたわけじゃなく、元々が綺麗すぎるから。刺客を警戒しながらの業務でも、昼前には道具も片付いていた。


 アルトは朝からソーンズ卿の書庫に籠りきりで、シュナさんは例の陣を調べる都合で城を空けているらしい。

 手持ち無沙汰になったところをマーサに捕まって、「リンちゃんがいてくれると助かるわ」と西翼の掃除に回されていた。


(あいつは今、何を話してるんだろう。外交って、どんな顔をして——って、違う違う)


 思考がどこへ向かおうとしているか気付いて、慌てて打ち消した。雑念を振り払って、無心でモップを動かすことにする。

 だいたいアルトの話を信じるなら、魔王も世界を変えたいってことでしょ? 諦めながらチマチマ外交とかやってないで、さっさと全部話して本気出せっての!


「……はぁ」


 少し前までの私が見れば、牙を抜かれたと怒るだろうな。でも、知ったからには納得できないと動けない。

 すっかりこの城に順応している自分に、思わず呆れていた……そんな時だった。


(……っ、これは!)


 ぞわりと、背筋に悪寒が走る。

 壁の向こうから、何か昏いものが滲み出してくるような感覚。制御されていない不規則な魔力が、じわじわと廊下から城内に広がっていく。

 冷たくて重い、地の底から湧き上がるような感触には覚えがあった。


(昨日の朝と、同じ……!)


 発生源は東翼、保護区の方だ。嫌な予感がして、モップを投げ捨てて廊下を駆け出した。

 襲われたばかりの回廊を抜けながら、袂を縛って襷を背に回す。保護区に続く通路の奥から、怒号が響いてくる。


「このっ、下賤なものどもが……ッ! 何故こんな連中のために、エヴァン家が割を食わねばならんのだ!」

(ヒューイ……!)


 角を曲がった先、目の前に飛び込んできた光景に、一瞬足が止まった。

 保護区のある中庭の手前、ヒューイが魔力を全身に纏って立っている。周囲には凍りついたように動けない使用人と、駆けつけた衛兵が数人。

 でも、誰も近づけていない。腐ってもエヴァン家の嫡男、高等教育を受けた貴族としての魔力は本物のようで、遠巻きに囲う程度しかできていないようだった。


「どいつもこいつも……っ、私を敬うこともせず、恩恵にだけ甘えて……父上がどれほどの心血を注いで予算を成立させたか、誰一人として理解していないクセに!」


 その言葉に、いつかの光景が頭を過ぎる。

 アルトに父親の手腕を褒められた時の、重い沈黙。あいつの中で、それだけ親の存在は大きかったんだ。


「落ち着いてください、ヒューイ様! お父上もそのようなことは望んでいません!」

「黙れ! コイツらは、あの女と同じ目で、私を……バカにしたように、見下して!」

(ダメだ、錯乱してる……話が通じる状態じゃない!)


 今のヒューイに言葉は届かない。それだけははっきりと分かる。そして、その視線の先——壁際に身を寄せる子供達の中に、亜麻色の髪が見えた。


(サーシャ!)


 その隣で、小さな男の子がサーシャの袖を握りしめて震えている。ヒューイはその子をしきりに睨み付けているようだった。

 ヒューイの瞳に映る鈍い光は、私が五人の刺客を倒したあの時に見たそれと同じで。あの女という言葉が誰を指しているのか、嫌でも分かってしまった。


(私が……火を付けた?)


 それ以上考える暇は無かった。ヒューイが腕を振り上げると、足元から黒い靄が立ち込めて、石畳の隙間から白い指が這い出てくる。

 骸だ。命を持たない、術者の意思だけで動く、死霊術師の使い魔。一体、二体……数が増えるたびに辺りの温度が下がっていく。禁術のはずなのに、お構い無しといった様子だ。


(まさか、あの刺客はこいつが!)


 衛兵達が剣を抜くけど、腰が引けているのが見える。このままだと、保護区の人達は皆殺しにされるだろう。

 公の場で力を振るうのは、身分を考えると控えたかったけど……これ以上は無理だ、やるしかない! 漆黒の魔力刃を作り出して、私は人混みから飛び出した。

 次の瞬間、私に気付いたのか、ヒューイの目の色が変わる。


「ッッッ!!……お前……、そうだっ、全てお前からだ! 何もかも!」


 私に向けた指先に呼応するように、骸の群れが動き出す。でも、こちらに向かってくるのではなく、無秩序に広がっていく動きだ。

 錯乱した状態で付け焼き刃の禁術を使っているからか、制御しきれていないんだ。私が襲われた時とは違って、放っておけば被害が増える!


(前は不覚を取ったけど、こいつらは命を持たない。なら……全力で、いける!)


 骸には意思が無い。歯止めが利かない。止められなければ、守るべき人達が危ない。

 躊躇う理由なんて無い。意識を逸らす私の戦い方は通用しないけど、こ(・)こ(・)で(・)学(・)ん(・)だ(・)剣(・)なら……!


 深く、重心を崩す。

 ただ一点だけを見つめて、後を顧みず踏み込む。

 それが今、初めて迷いなく体から出てきた。


「っ……はぁ!」


 一気に間合いを潰して潜り込み、逆袈裟に振り抜いた剣が骸の胴を両断した。


「次っ!」


 霧散していく残骸を踏み越えて、二体、三体。余計な事を考えずに動きだけを見て、捌いて、断つ。

 斬る度に感覚が研ぎ澄まされていく。背中にはシュナさんが守ってきた場所と、守りたい人達がいる。それだけで、剣に重さが乗る。


(そうだ。私の剣は……このための剣だ)


 攻めの形を、守るために振る。エルロン卿の問いは、剣の形だけじゃない。何のためにそれを振るか、だったんだ。

 最後の骸を切り捨てて、狼狽えるヒューイにそのまま剣を突きつける。手駒を失った彼は、わなわなと震えながら一歩ずつ距離を取ろうとしていた。


「な……っ、なぜだ! お前ごときが、なぜ!」


 その顔は赤く、目の焦点が定まっていない。限界を超えた魔力の放出で、酸欠に近い状態になっているんだろう。

 正直、怒鳴り返したい。でも、こいつに私の言葉は逆効果だ。今は場を収めることだけを考える。


「やめなさい。これ以上は自分が傷つくだけだよ」

「我々の税で保護されている分際で……ことごとく楯突いて、陛下の側に収まって——」

「いい加減にしなさい!」


 ヒューイの声を遮って、凛とした声が広場に響いた。

 マーサだ。掃除用具を握ったまま、いつの間にか子供達を庇うように立っていた。


「こんな子供達の前で、貴族のお方がなさることですか!」

「うるさい! 使用人如きが、許可もなく口を開くな……ッ! この私に向かって!」


 ヒューイの怒声が走る。突き出された右手から、魔力の塊が形を成してマーサへ飛んだ。


「マーサさんっ!」


 考えるより先に体が動いた。中和術式を組みながら割り込んで、背中で攻撃を受ける。衝撃が背骨を貫くように走った。

 熱い……! じわりと広がる感覚が、着地した瞬間に一気に膨らむ。


「っう……思い切りもらっちゃった」

「リンちゃん、あんた……ッ!」


 眩暈がするような激痛に膝をつく。物理的な破壊力を持つ魔術は、被弾までに分解が間に合わなかった。

 路地裏暮らしで覚えた、気休め程度の治癒魔術を少しずつかける。再生しないことだけは、なんとか隠せているはず……駆け寄ってきたマーサの顔は青ざめていた。


「ひどい怪我だよ! 大丈夫かい!?」

「大丈夫、私は……マーサさんや、子供達こそ——」

「……ふ、ふふふ、ハハハハッ! ざまぁないな!」


 勝ち誇ったようにヒューイが笑い、憎たらしいものを見るように私を見下す。思わず見上げる形になって、視線が合った瞬間——ぎょろりと目を見開いて、その笑みが歪んだ。


「なんだ、その顔は。……これを見ても、まだそんな目ができるか!」


 私の表情が気に食わなかったのか、こっちに向けていた右手が矛先を変えた。ヒューイの視線がサーシャ達の方へ流れて、右手に魔力が集まっていく。


「まっ、待って! その子達は……!」

「動くな! 動けば本当にこいつらから——」


 次の瞬間だった。音もなく、ヒューイの全身を包んでいた魔力が霧散した。

 魔力切れではない。まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えている。


「っ……な、なん、で……」


 ヒューイが自分の手を見て、震えている。魔力を練り直そうとしても、何も出てこない。

 世界から音が消えたような、この感覚……これは、まさか!


「——オレの留守中に、何をしている?」


 その一言と共に、全てを壊してしまいそうな悍ましい圧が場を支配する。保護区の入口、人だかりの後ろ。そこに魔王が立っていた。

 誰もが息を呑んだまま動けない中、あいつはヒューイだけを見据えている。


「へ、陛下は国境に……転移……?」

「城内はオレの領域だ。禁術が行使されて気付かんほど蒙昧ではない。……昨日の陣も、お前だな」


 その一言で、ヒューイの顔が紙のように白くなる。後退り、足をもつれさせて、彼はその場にへたり込んだ。

 魔王はゆっくりと、ヒューイへ向かって歩き出す。その歩みに合わせるように、周囲の石畳が崩れていく。

 一歩、また一歩。確実に距離が縮まっていく。石畳を踏む音がまるでない。まるで止まった時の中を動いているように。


(なんで、歩く音がしないの?)


 目を凝らすと、それはようやく見えた。あいつを覆う薄い魔力の膜——世界そのものを押し退けて先行する壁。それを体に合わせて動かしながら進んでいるんだ。まるで世界から存在ごと浮いているように。


(……そういうこと。なんて無茶苦茶な奴)


 今まで何度も、気付けば背後に立っていた。音どころか気配すら感じなかった理由が、初めて分かった。

 暗殺者には間違っても見せないと思っていた技術。あいつは自然にやってるけど……私が真似るなら、それこそ寸分の狂いも無く膜を操り続けるしかない。せいぜい数秒が限界だ。

 ようやく思考が追いついた頃、魔王は腰に携えた剣を引き抜いていた。


「ひ、ひぃ……っ」


 ヒューイが顔を覆って、地面に這いつくばる。もう立つことすらできないまま、小さくなることしかできないようだった。

 それでも魔王は止まらない。引き抜いた剣を上段に構えて、一息に振り抜こうとした。


「——、ダメ!」


 気付いたら走り出していて、二人の間に飛び込んでいた。

 受け止めるよりも先に、魔王の手がぴたりと止まる。目が合った時、あの魔王の瞳には驚きの色が浮かんでいた。


「リン……」

「あんたはこの国の王でしょ!」


 声が震えた。でも、引けない。

 魔族の横暴を許したわけじゃない。それでも、あんたの王としての在り方はかっこいいと思ってしまったから。

 嫌でも認めざるを得なかったあんたの良さを、私の目の前で否定してほしくない。


「示しをつけるのは分かる。あの禁術が、命を踏み躙るものだってことも。……でも、やり過ぎたらただの恐怖になる。感情で殺せば、あんたが守ってきたものが壊れちゃう!」


 魔王は動かないまま、私を見ている。

 正しいかどうかも分からない。でもこの瞬間、これだけは言わなければならなかった。


「——、……」


 沈黙の中で、魔王の視線がゆっくりと動く。

 周囲を囲う使用人達から、ヒューイ。そして私を経て保護区の方へ。目の前の光景じゃない、別な何かを見ているようだった。

 やがてその視線は、今にも崩れ落ちそうなエヴァン家の嫡男へと戻ってくる。魔王の様子が、いつもと違う。


「……オレが、望んでいるのは……こんなものではない」


 低く、独り言のように落とされた言葉。

 私に……いや、何かに向けたものじゃない。

 ただ溢れてしまったような、そんな響きだった。


(……これは、怒り?)


 今朝、確かめたかったものが目の前にある気がした。

 戴冠式の日、表情の下で鬱屈としていたという憤り。きっと今、それが漏れ出している。

 その矛先はヒューイだけじゃない。もっと広く、多くに向けられているようで——。


「ヒューイ! 陛下ッ!」


 沈黙を破るように、廊下の奥から足音が響いてきた。

 息を切らして駆けつけてきたのは、キース・エヴァンだった。状況を把握した瞬間、その顔から血の気が引いていく。

 エヴァン卿は動けない息子を一瞥した後、叱責するよりも先に、魔王の前に膝をついた。


「愚息が、とんでもない不始末を……どうか、慈悲を……!」


 声が乱れている。あの冷徹で余裕に満ちていた男が、今はただひたすらに頭を下げていた。息子のために。


(エヴァン卿でも、こういう顔をするんだ)


 魔王は静かにエヴァン卿を見下ろす。長い沈黙の後、淡々と告げた。


「よく、躾けておけ。今回は裁判にかけるが……次は無い」


 それだけで、十分だった。

 エヴァン卿が一際深く頭を下げ、立ち上がる。ヒューイは呆然としたまま、父親に支えられて去っていく。

 二人の背中を見送りながら、私は魔王の言葉を反芻していた。


『オレが望んでいるのは、こんなものではない』


 何もかもを背負って、何も語らないあいつが、何かを望んでいる……そんなこと、初めて聞いた気がした。

 考えを巡らせていると、魔王が背中の傷に手を当ててきた。光に包まれて、一瞬鋭い痛みを感じた後、それがすっと和らいでいく。


「っ、傷が……治して、くれたの?」


 視界に入った魔王の右手には、傷口から滲んだ血がべっとりと付いていた。

 病を遠ざけて、あれほど汚れを避けてきたこいつが、それも厭わずに治したの……?


「……すまない」


 一言だけ告げて、魔王は瞬きする間に消えてしまった。そこに何もいなかったように、一人分の空白が隣に空く。

 駆け寄ってくるマーサ達に囲まれながら、私は背中に残る温かさを感じていた。

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