17話 歪み
いつもより、早く目が覚めた。
昨日のことがあったせいか、どこか落ち着かない。浅めの眠りを何度か繰り返して、結局朝から動くことにした。
この時間は人の往来が少ない。それでいて妙な緊張感が漂っている。
(あいつの目的が何なのか、いい加減に聞き出さないと)
魔王は何のために勇者を待っていて、私に何をさせたかったのか。殺せれば明らかになる……って、それじゃ答えになってない。
そんなことを考えて、本音を聞く算段を立てながら角を曲がろうとした。その時——視界の隅で、柱の影が不自然に揺れた。
ぬるりと影から現れた黒装束。咄嗟にスカートの内から短刀を抜く。けど、構えたところで手が止まった。
(なに、これ……?)
筋肉の躍動が見えない。呼吸も、殺気すらも感じない。魔力は確かに流れているのに、その始点はずっと地の奥に繋がっていて、そこから力を引き出してるみたいだ。
刺客が音も無く踏み込んでくる。袖のナイフを投げて注意を逸らそうとしたけど、ソレは見向きもしないで突っ込んできた。
(こいつ、なんで!?)
一手無駄にした分、対応が遅れた。突き出された刺客の右手に握られたナイフが、心臓の手前まで迫ったその瞬間——頬の真横を黒い閃光が掠めた。
それは黒き雷となって宙を奔り、刺客を貫いて焼き焦がす。声を上げる間も無く、刺客は一瞬で燃え尽きてしまった。今の雷といい、一体何が……。
「——実に愚かよな。どこまでも業の深いものよ」
背後から、聞き覚えの無い声が落ちてきた。声色は幼く、響きだけは古びて重く感じる。反射的に振り返ると、さっきまで誰もいなかったはずの廊下に人影があった。
背は私より小柄で、頭一つ分は下だろうか。肩ほどの長さで揃っている、艶やかな黒い髪。黒と紫を基調とした、見たことのない意匠の衣を纏っている。
"それ"と目が合った瞬間、息が詰まった。
真紅の瞳。全てを見透かすような眼差しが、私を捉えて離さない。
何より目を引くのは、額から鋭く天を衝く、細長い漆黒の角。一目でわかる異質な存在は、ゆっくりとこっちへ歩きながら口を開いた。
「滑稽なものじゃ。死を忘れた者が、死者を愚弄するとは」
「……今のは、あなたが?」
思わず身構える。こんな姿、聞いたこともないし、見たこともない。魔王とは違う、もっと本能的に逆らえる気がしない圧が、全身の肌を刺すようだった。
少女は目の前まで歩み寄ると、私を意に介さず床に魔力を流し込む。浮かび上がった魔法陣はそのまま解れて消え去っていった。
「魔王の直属には手を出しにくいからのう。一人で通る道に、陣を仕込んでおったのじゃろう……が、其方を見ておったのは余も同じ故な」
「あ、ありがとう。……見てたって、いつから」
「其方が初めてここに来た次の日から、こっそりとな。魔王の城を掃除する勇者なぞ、永く生きてもそうそう見れぬぞ」
悪戯っぽく口の端を上げながら、少女はそう話す。
永く生きてるという言葉も相まって、明らかに人外の類だ。その目を見ると、否定する気にもなれなかった。
やがて、少女の顔から笑みが消える。そのまま私を見上げると、はっきりと口にした。
「あのカリスが認めたのじゃ。どれほどのものかと見ておったが……真ならざる勇者よ。其方、聖剣に触れたな?」
その一言で、思考が止まった。
魔王は私を勇者と認めた。なのに、魔王を名前で呼ぶこの少女は、それを真っ向から否定した。
聖剣って何のこと? 偽物の勇者って、どういう……。少女は執務室の方角に視線を向けながら、言葉を続けた。
「カリスは、何も語らんじゃろう。其方が彼奴の真実に辿り着くには、歪みの起源を知る必要がある」
「歪みの、起源……?」
「左様。勇者という存在も、世界を覆う格差も、全てがそこに繋がっておる」
「あなたは、何者なの? 人間とも、魔族とも違う感じだし……ただの女の子じゃない、よね?」
聞くなり、少女の視線が戻ってくる。一瞬、きょとんとした様子で目を丸くしたかと思ったら、とても愉快そうに口元を押さえて笑い出した。
「くくっ、くふふっ! 余を童女呼ばわりとは……余は、ただの傍観者じゃよ。やり損ねの行く末を見ているだけのな」
「わけわかんないし、それじゃ答えになってない」
「……まあ、良い。今回は特別じゃが、今後は気をつけるのじゃぞ」
彼女は、勝手に納得したように小さく息を吐いた。大笑いして気が済んだと言わんばかりに、踵を返してゆっくり歩き出そうとする。……いや、ちっとも良くないから!
「好き勝手に言うだけ言って、何も教えてくれないの?」
「過去の存在が、今を生きる者に答えなど……それは押し付けがましいというものじゃろう」
「だったら、なんで助けてくれたの。あなたが手を出さなかったら、私……死んでたよ」
それまで平静を保っていた彼女の肩が、ほんの僅かに上がった。
彼女がくるりと振り返ると、その視線は私の顔、そして頬にかかった髪のあたりを捉えていた。
「老婆心故の、ほんの助力じゃ。それに……其方は、よう似ておる」
雰囲気が変わった。何かを慈しむような、穏やかな表情。似てるって、何に……?
白い左手が持ち上がる。袖から出て、私の髪に触れようとするほんの手前——その指先が行き場を失ったように止まる。数秒、宙に留まったそれは、結局そのまま袖の内へと引っ込められた。
「……何?」
「忘れよ。柄にもないことをした」
ぴしゃりと言い切り、彼女はまた踵を返した。今度は振り返らず、思考を遮るように一言だけを残して。
「心して挑むがよい。カリスの絶望は深いぞ」
瞬きの間に、彼女は消えていた。気配も、余韻も、何も残さず……最初から、そこに存在していなかったかのように。
彼女は何者で、何を知っているの? 聖剣に、歪みの起源。聞き慣れない、けれど心の深い部分を逆撫でするような言葉に、私はしばらくその場から動けなかった。
(……いや、今は魔王が先だ)
わからないことを考えても仕方ない。動かない膝を叩き、呼吸を整えて歩き出す。
私に必要なのは、魔王の答えだ。逃げるようにその場を離れ、あいつの執務室に隣接する私室へと向かった。
◇ ◇ ◇
仕事以外で魔王の私室に入るのはいつ以来だろう。前に入った時は、潔癖症が爆発して浴槽に投げ入れられたんだっけ。
分厚い扉を数度ノックするも、返事は無い。まだ寝てるかと思って耳を澄ますと、奥から微かに水音が聞こえてきた。
(湯浴みか。相変わらず綺麗好きなやつ)
引き下がるわけにもいかない。意を決して鍵をピッキングし、浴室の前に忍び寄る。
不意打ちをする絶好の機会。でも、あいつがそんな隙を見せるはずがない。浴室の周囲を把握する結界が、当然のように張られているはずだ。
「朝から騒がしい。こんな早朝に何の用だ」
案の定、気配を殺しているのに、扉越しに冷たい声が飛んでくる。それに騒がしいって、さっきの……こいつ、どこまで把握してるの?
別にあいつの風呂を覗きたいわけじゃないけど、姿すら拝めないこの現状は、私とあいつの本当の距離にも感じられた。
「聞きたいことがあるんだけど」
「人の私室に侵入するほどの急ぎか」
「いい加減、あんたの目的を教えて」
誤魔化しは効かない。遠回しにしても、どうせまた煙に巻かれる。
返事は無くて、規則的な水音だけが続いていた。黙っていられても困るし、畳み掛けるように問いを投げる。
「殺せれば明らかになる。って言ったけど、もうそれじゃ納得できない。あんたは私に何をさせたくて、わざわざ保護までしてるの?」
「……ヴィンセントの前でも話した。お前は興味深いとな」
「私よりもこの力を知ってるくせに。それに私が"紛い物の勇者"だったら、それも破綻するんじゃないの?」
水音が、ぴたりと止まった。
静寂が続いて、緊張で手が汗ばむ。しばらくして、落ち着いた声が返ってくる。
「何故、そう思った」
「角の生えた女の子が言ってたの、真ならざる勇者って。あんたを知ってる口ぶりだったけど、何者?」
「…………」
今度は、よりあからさまな沈黙だった。……最近わかってきたけど、こいつは話を濁したい時には少し間を置くらしい。
やがて魔王が、浴槽から立ち上がった。その存在感は扉越しでも、まっすぐこっちを向いていると伝わってくる。
水面に波打つ音が響く中、はっきりと、静かな言葉が飛んできた。
「お前はこの歪んだ世界を、どうする」
魔王の口から初めて聞いた"歪み"という言葉。あの少女の言葉を聞くに、こいつも同じものを見ている?
でも、世界の歪みが何を指してるかなんて明らかだ。なら、私の答えは一つしかない。
「魔族に虐げられてる人達が、理不尽に奪われない世界にしたい。変わらないよ」
「……そうか」
肯定も否定もない。聞き流したようにも、自分の奥底に沈めたようにも聞こえる。そんな、静かな響きだった。
再び訪れる沈黙……正直、気まずい。こいつの無言は何か言わないと、って気分にさせられる。
「それにしても、相変わらずの潔癖症だよね。毎日必ず二回は入るじゃん」
話を途切れさせまいと、適当に話題を絞り出す。自分のことながら、なにその話題選びは……普通の日常会話みたいじゃん。
言った後で後悔したけど、少しの間を置いて返ってきた声は、意外にも淡々としていた。
「眠っても汗をかく。それを洗い流しているだけだ」
「前も聞いたけど、なんでそこまで細かく拘るの」
「王が病魔の類で死ぬわけにもいかんだろう」
その一言に、妙な違和感があった。病魔で死ぬって……再生できる魔族がそんな言い方をする?
そもそも、死を忌避する魔族自体見たことがない。まして不意打ちや毒でもなく、病くらいで。
『オレの母もこれで死んでいる』
『必要だからだ。これまでも、そうしてきた』
いや、違うのかもしれない。
傷や死の原因を自覚できなければ、魔族は再生できない。私の考えた理屈で、これは何度も証明はできている。
でも、病や毒は体の内側で起きる異常だ。それは原因を把握することが極めて難しい、未知の死とも言える。思えばシュナさんの父も病死だと言っていた。
こいつの潔癖は、もしかして——。
「じきに朝食の時間になる。持ち場に戻れ」
思考を遮るように、浴室からそんな言葉が飛んでくる。
どうやら話し込んでいるうちに、すっかり時間は進んでいたらしい。確かに朝食の時間だった。
「……まだ何も聞けてないんだけど」
「これ以上、話すことなど無い。それともお前には覗き癖でもあるのか?」
「そんな趣味あるか! 誤魔化そうったってそうは——」
言い返しかけて、言葉が止まった。
これは……書斎の時と同じだ。扉一枚を隔てて、これ以上は踏み込むなという意思が伝わってくる。
この場でこれ以上踏み込んでも、答えが返ってくるとは思えなかった。
「……わかった。また出直す」
そう言って私は、浴室の扉から距離を取った。
聞きたいことは山ほど残っている。でも、進展が無かったわけじゃない。整理する時間も欲しいし、焦らず順番に知っていこう。
私室を出て、人気の増えてきた廊下を歩く。頭の中ではさっきの推論が巡っていた。
(掃除は暗殺。潔癖は病魔。食事は毒殺を防ぐため?)
あれが全部、死を遠ざけるための習慣だとしたら。でも、毒や病はまだしも、通用しない暗殺まで恐れる理由が無いし……。
あいつが人間という線も、正統な王族であることを考えると薄過ぎる。今の時点でわかったのは、あいつが同じ歪みを見ていることくらいだ。
「……同じ、か」
何度も聞いたその言葉が、不思議と頭の中で響き続けている。
まだ魔王の本音は遠いところにある。でもそう呟くだけで、何故か少しだけあいつに近づけたような気がした。
◇ ◇ ◇
夜も深まった、郊外の演習場。
話があるから、とアルトを呼び出したのは私の方からだった。城の中では、どこに耳があるかわからないから。
木々の影。崩れた壁の裏。草の揺れ方。二度確かめて、ようやく警戒を解けた。
「さて、改まって何の用かな?」
「……今朝、変な刺客に襲われた」
思い出しただけで、指先が冷えていく。
ただ、アルトは驚かず、小さく頷くだけだった。
「やっぱり、君だったか」
「知ってたの?」
「夜明けに、中央棟の回廊で灰のようなものと、解体された陣の跡が見つかってね。今はシュナが残滓を調べてる」
アルトは腕を組んで息をつく。この様子だと、私よりも色々と知ってそうだ。
「灰の方からは、色濃い闇の魔力が溢れていた。得体の知れない術の残滓だったけど……解体された陣の方は、死霊魔術の類だったよ」
「じゃあ、あれは死体だったの?」
「恐らくね。禁術指定されてるし、この城で使う者はいないはずだが……カリス直属の者を狙える刺客は見つからず、でも自分も表には出たくないから、こんな方法をとったのかもね」
死霊魔術……だから人や魔族を相手にするのとは感覚が違ったんだ。でも、そんな手段まで使って一体誰が?
犯人は、私が直属になったことを知ってる誰か。それも、魔王か私と接点のある人だ。五人の刺客に襲われた時のことを考えると、真っ先に思い浮かぶのは……。
「……エヴァン卿?」
「前回はカリスへの堂々とした牽制だけど、今回は夜明けに君だけを狙う徹底ぶりだ。彼は失敗した手を二度使う人じゃないし、あんな術に手を出すリスクは踏まない」
「なら、一体誰が……」
「だとしたら、そうだね。……いや、彼は父親の手綱を振り切ってまでは行動しないか」
それっきり、アルトは口を噤む。独り言を呟いて、自分の見立てを確かめるように口元に手を当てて考えていた。
「とにかく、真相が分かるまでは気をつけて。君の寝室がある西翼の塔と、持ち場の近くは巡回を増やしておくよ」
「ありがと。……でも、あれを倒したの私じゃないんだ」
「と、いうと?」
「助けてくれた人がいたの。見た目は私より小さくて、黒髪で、見慣れない服を着てたけど……永く生きてるみたいな口ぶりで、額に黒い角があった」
ただ、事実だけを並べたつもりだった。なのにそれを聞いた瞬間、アルトの顔からいつもの余裕が消えた。
「今の話、本当かい?」
「ほ、本当だって。嘘つく理由無いし」
「なんだ、それは」
絞り出すような声。この国の中枢で、誰より多くの知識を集めていたアルトが言葉を失っている。
角——昔の魔族にはあったらしいけど、今は誰も持っていないもの。少なくとも私はそう聞いていたし、アルトもそうなんだろう。
「その子は、何か言っていたかい?」
「私のことを"真ならざる勇者"って。あとは……魔王の真実に辿り着くには、歪みの起源を知れって」
「真ならざる、勇者……」
繰り返したきり、アルトは黙り込む。夜風に草がさざめく中、常に何手も先を読んできた男が、今は足元だけを見つめていた。
「……おかしい。私は君を勇者だと思っていたし、カリスもそれを認めた。それが違うとすれば、私の想定と何かが致命的に違う」
勇者という言葉が何を指すのか。私達の中で明確に基準がズレた気がした。
数十秒。いや、一分以上の時間が流れて、黙って考え込んでいたアルトが、ふと思い出したように顔を上げた。
「っ……リンちゃん。その子は確かに歪みと言ったのか?」
「うん。歪みの起源が全てに繋がってるって……今朝、あいつにも言われたよ。この歪んだ世界をどうするのかって」
「……十二年前、私もその言葉を聞いたよ。カリスから」
十二年前。あいつが魔王になった年だ。
問い返そうとして、やめた。アルトの目が、ここではないどこかを見ていたから。
「でも、あいつはそれ以上は喋ってくれなかった。書斎を見ようとした時と一緒で、何を聞いても」
「カリスの書斎か。もし起源と呼べるものが残っているなら、あの場所で間違いないだろう。……ただ、あそこの封印を解けるのはカリスだけだ。大昔から、他の誰も入ることはできないままだ」
どうやら、アルトも存在自体は認知しているらしい。
十年以上そばにいる側近でさえ、入れない場所。あの扉の奥に何があるのか。考えるほど、あいつが遠く感じた。
歴史。起源。バラバラだった欠片が、少しずつ繋がっていく気がする。だったらもう一つ、言うべきか迷ったけど……多分、これが一番大事だと思った。
「あと、あいつの……魔王の絶望は深いって」
アルトの肩が微かに揺れた。
草を撫でていた風が止む。長い沈黙の後、アルトは夜空を仰いで、細く息を吐いた。
その目から、いつもの軽さが消えたように見えた。
「今夜、話そうと思っていたことがある。今の疑問の輪郭くらいは、見えるかもしれないと思ってね。……カリスのこれまでと、戴冠式の記憶だ。私が知っているカリスを話そう」
ここから物語も後半です。




