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私は森の近くに、小さな古い家を買いました。どこへ行こうかと歩いていた時に、ふと目にはいったのです。
屋根の葺き替えとか、ドアや台所の修理などは大工さんに頼みましたが、ペンキ塗りとか小さなことは自分でしました。青い壁に白い窓枠、ドアはピンクにしました。
土間の台所に、花崗岩の石窯を作りました。石窯では、とてもおいしいパンが焼けるのです。そのことも、パンの焼き方も、王宮の料理人から習ったのでした。
まず器に強力粉、砂糖、塩、ドライイースト、ぬるま湯を入れ、心をこめて混ぜます。ひと塊になったら台に出し、手のひらの付け根で体重をのせて、十分以上、強くこねます。
そして、生地を薄く広げても破れなくなったら、バターを練り込み、さらに数分こねます。滑らかになったら丸め、暖かい場所で、大きさが二倍半になるまで発酵させます。
それから、ガスを抜き、丸め直して再び休ませた後、好きな形を作ります。それを天板に並べて、一回り大きくなるまでまた発酵させます。
そして、石窯に入れて、好みの色になるまで焼けば完成です。
朝、早く起きてパンを作るのは楽しくてなりません。最初はうまく発酵させられなかったり、焦がしたりもしましたが、目に見えて、上手になりました。
おもしろすぎて、たくさん作りたいのですが、残ってしまうのももったいないので、一日に十個ほど作り、自分が食べられない分は、お店で売ることにしました。
お店の名前は「森の小さなパン屋」です。
パンが売れたらお店は閉めるので、午前中には売り切れになります。
その後、私は森に出かけて、果物、きのこ、ベリー、ナッツなどを採集しました。それはパンに入れたり、別の料理に使ったりしました。それに、蜂の巣を見つけたし、また薪用の枝を集めたりしなくてはならないので、とても忙しいのです。
忙しいけれど、充実していて、夕食の後には、カーテンを作ったり、冬のための編み物も始めました。それから、詩を詠んだり、小説も書きたいと思うのですが、すぐに眠ってしまいます。
森の家に住んでから、もう三年が経ち、私は二十二歳になりました。
その朝、売り出したのは八個のベリー入りのパンで、すぐになくなりました。私は台所とお店を掃除した後、家の前の小さな丸いテーブルに座りました。
テーブルの上には、自分のために取っておいたパン二個と、自家製のジャムにハーブティー。
至福の時だわ、と私は思いました。
*
ある日、店の近くに栗色のきれいな馬が止まり、男の人が下りてきました。
それは、なんと、ゼノ・カシミン・ベルステン王子でした。
どきんどきん。
私は遠くから、何度も、彼を見たことがあるので、すぐにわかります。
長いこと、私の憧れだった人。
一年間、私の夫だった人。
でも、私にはわかっても、彼は私の顔は知らないはずです。
「ここが有名なパン屋ですか」
と王子が聞きました。
「有名かどうかはわかりませんが、はい、ここがパン屋です」
これが、私たちが交わした最初の会話です。
私は自分の声が震えていることに気がつき、自分で驚きました。
「パンはまだありますか」
「すみません。売り切れました」
「そうですよね。来るのが、遅かったです。今度は早く来ます」
「いつ来られるかわかれば、余分に作っておきます」
「では、明後日の朝に」
「お好みのパンはありますか」
「あなたに、おまかせします。お名前は」
「アイゼリア」
王子はおやっという顔をしました。どこかで聞いたことがあると思ったのでしょう。当然です。かつての、私の夫だったのですから。
でも、彼は思い出せないようでした。
「私は……カシミン」
彼がファーストネームでなくミドルネームを名乗ったことに、私は気づかないふりをしました。そして、ちょっとかわいいと思いました。
「それでは、明後日。おいくつ?」
「ふたつ。来るのを明日に変えてよいですか」
「はい。お待ちしています」
なんだか、ものすごくやる気が湧いてきました。私はさっそく森に出かけて、おいしい木の実を採ってこようと思いました。
*
翌朝、王子がいつ現れるのかな、と私の胸がどきどきしました。でも、彼はなかなか現れませんでした。
時間を聞いておくはずだったわ、と後悔しました。
私が店を閉め、昨日のようにテーブルの前でハーブティーを飲んでいると、彼の馬がやってきました。
手に大きな花束を抱えています。
私のそばまで来ると、美しい笑顔で、
「どうぞ」と花束を差し出しました。
赤いバラとピンクのシャクヤクを中心に、黄色いマリーゴールドと青いデルフィニウムが添えられています。小さな赤いポピーが花束の間から顔をのぞかせています。
私は花束に顔を近づけました。カラフルで香り豊かな花々、私にはこれが王宮の庭のものだとわかりました。
「私が摘みました」
と彼が言いました。「こんなアレンジでよかったですか。ごちゃごちゃしすぎていますか」
「とても素敵です。カシミンさまは、大きな庭をお持ちなのですね」
私がそう言うと、彼がしまった、という表情をしましたので、それも、おもしろかったです。
「いや、あのう、私のものではなくて、親のものです」
「はい。お花がお好きなのですか」
「いや。そういうわけでは」
彼は恥ずかしそうに空を見上げ、私は彼を見上げていました。
「お約束のパンは取ってありますよ」
「あのう、ここで食べてもよいですか」
「もちろんです。では、うちの裏庭で食べるというのはいかがですか。私も少々ですが、庭で花を育てています。私の花は、どれも森に咲いていたものばかりですが」
「ぜひ見たいです」
*
王子は庭の真ん中に立っていました。
庭には白いデイジー、ピンクのコスモス、オレンジ色のヒナゲシ、黄色いキンポウゲ、青紫のブルーベル、青いワスレナグサが咲いていて、青い上着に白いズボンの王子の姿は、まるで絵画のようです。
「全部、森の花なのですか」
「そうです。明るい色の花ばかり集めました。明るい色は、暗い心を、明るくしてくれますから」
「あなたに、悲しいことがありましたか」
「生きていれば、誰にだって、悲しいことがあるでしょう。たとえ、王国の王子さまにだって」
そんなことを言うつもりではなかったのに、余計なことが口からぽろりと出てしまいました。
「そうですよね。でも、王子にだって、悲しいことはあるでしょう。そう見せないのが仕事ですが、……それはわかっていても、無理なことも、……あると思います」
私はナッツ入りパンとベリーのジャム、ハーブティーを裏庭に運びました。
「とてもおいしい。コツは何ですか」
「特別な石窯と、粉以外は、森のものを使っているところかしら」
「アイゼリアさん、明日もうかがっても、よろしいですか」
「もちろんです。パンはふたつでよろしいですか」
「明日は、私をあなたの森に連れて行ってくれませんか。あなたがコスモスやヒナゲシ、キンポウゲやブルーベルを採った森へ」
*
王子はそれから、毎日のように来られました。パンを受け取ってすぐに帰るときもあれば、森に行かれることもあり、時には夕方に来られました。
「あなたは町に流れている王子の噂を知っていますか」
ある日、彼はそう質問されました。
「鳥は飛んでまいりますが、王子様の噂は届きません」
「アイゼリアさん、あなたはおもしろい人ですね」
と彼は楽しそうに笑いました。
「王子について、あなたが知っていることは何ですか」
「王子妃さまのことをとても愛し続けておられる方です。王子妃さまが亡くなられても、愛しておられるそうです」
「そのことをどう思いますか」
「すばらしいと思います。なんて幸せな王子妃さまなのでしょうか。でも」
「でも」
「第二王子妃、第三王子妃になられる方はさみしいのではないでしょうか。愛されないことがわかっていますから」
「そうですね」
王子は暗い顔をされて、ハーブティーを飲みました。
「すっかりティーが冷めてしまいましたね。お湯を沸かしてまいります」
私があたたかいティーを運んで来ると、彼が顔を上げました。夕日が彼の顔をオレンジ色に染めていました。
「アイゼリアさんは、こんなところでひとりで暮らして、寂しくはないのですか」
「寂しいことはあります。でも、寂しいのは好きです」
「どうして」
「寂しいと、生きていると感じます。寂しさから、詩や物語が生まれます」
「こんな場所にひとりで、怖くはないですか」
「生きていくのは、怖いことです。でも、嫌いではないです」
「そんなふうに考えたことがなかった」
「どんなふうに考えていたのですか」
「誰かがそばにいないと、寂しいと思っていました。それにしても美しい庭です」
「カシミンさまのお庭のほうがご立派です。だって、あんな豪華な花束をくださるのですもの。私の庭はかわいいですが、素朴です」
「あの花は私の庭ではないです。私の庭は別にあります。亡くなった母が残した秘密の花園です。母が生きていた頃はそれは美しい庭でしたが、今は暗くて、花も咲いてはいません」
「ああ、そのお庭には、蔦とか、ベリーが這っていませんか」
「そうかもしれません」
「きっとそうです。よそ者の植物がはいってくると、まるで侵略者のように、荒らしてしまいます。でも、それを取り除くと、やがて虫が這い出し、鳥がやってきて、蝶も飛び回るようになります。人が手を入れると、自然は蘇るのです。私は森で経験しています」
私は気がつかないうちに、頬を真っ赤にして、熱っぽく語っていました。
「アイゼリアさん、一度、母の秘密の花園を見てやってくれませんか」
「よろしいのですか。もちろんです」
「では、都合のよい時を教えてください。馬車を送りますから」
「馬車は必要ないです。私にはロバがいますから。私はロバに乗って、どこへでも行くのです」
「では、住所はここです」
そこには「王都の王宮」と書かれていました。私はその住所を知っています。だって、一度、あそこに嫁いだことがあるのですから。




