仕事帰りとかくれんぼ
「助かるわ~」
だるまの街の中で、俺はおばちゃんに両手を合わせて感謝されていた。
目の前にあるのは、小さな木馬のような乗り物だ。
いや、木馬と言っていいのかはわからない。足元にはだるまのような丸い車輪がついていて、前後に揺れるたびに勝手に進む。子どもの遊具と乗り物の中間みたいな代物だった。
ただし今は、揺れるたびに左右が反転する。
右に進もうとすると左へ。
前に行こうとすると後ろへ。
完全にバグっていた。
「昨日からこの調子でねぇ。孫が乗ったら壁に突っ込んじまって」
「それは危ないな」
俺はしゃがみ込み、木馬もどきに手を触れる。
すると、視界の端に赤い文字列のようなものが浮かび上がった。
――やっぱり見える。
俺に見えているあのコードのようなものは、どうやらあそびの概念に対してだけ反応するらしい。
普通の水や火、当然、人間には何も見えない。
けれど、あそびの概念が世界に染み出して生まれた道具や生き物――侵食オブジェクトには、こうして異常な記述のようなものが浮かび上がる。
緋毬が名産だと言っていた反転動石も、その一つだ。
とはいえ、俺はその文字列を正確に理解できているわけじゃない。
前の世界で使っていたプログラム言語みたいに、一行ずつ処理の意味が読めるわけでもないし、好き勝手に書き換えられるわけでもない。
見えるのは、あくまで異常が起きている箇所だ。
赤く滲んだ文字。
途中でねじれた記述。
本来つながっているはずのないルール同士が、無理やり結びついているような違和感。
それが、俺には“バグ”として見える。
だから俺にできるのは、新しい機能を作ることじゃない。
壊れているところを探して、余計なものを取り除く。
絡まっている部分をほどく。
本来の動きに戻るように、ほんの少しだけ整える。
その程度だ。
「……ああ、これか」
俺は木馬もどきに浮かんだ赤い滲みを目で追う。
たぶん、反転のルールが二重に走っている。
右を左にする。
左を右にする。
そこまでは、この街らしい仕組みなのだろう。
けれど、その奥でもう一つ、移動方向そのものを反転させるような歪みが混ざっている。
結果として制御が噛み合わず、乗るたびにめちゃくちゃな挙動になっているわけだ。
「なるほどね」
小さく呟きながら、俺は指先で赤い滲みをなぞる。
見えている文字を読んでいるわけじゃない。
ただ、ここが違うとわかる。
そこだけを摘まみ、絡まった糸を引き抜くように、そっと外す。
途端、木馬もどきがカタカタと震えた。
そして、丸い車輪がころん、と一度だけ転がる。
「……よし。たぶん直った」
おばちゃんが恐る恐る木馬もどきに手を置き、軽く押す。
今度はまっすぐ進んだ。
「おお、直った! 助かるわ~」
そう言って、おばちゃんは本当に嬉しそうに笑った。
衣食住については、ありがたいことに緋毬が面倒を見てくれている。
けれど、それに甘えてニート三昧というのは、心情的にも性格的にも無理だった。
かといって、この世界の文化も常識もろくに知らない俺が、いきなりまともな仕事に就けるはずもない。
なら、俺にできることは一つしかなかった。
デバッグ。
前の世界で、俺はそればかりやってきた。
ゲームを遊ぶ側ではなく、壊れたところを探す側。
華やかな開発でも、表に出る仕事でもない。
けれど、バグを見つけて、原因を突き止めて、直る道筋を探すことだけは、ずっとやってきた。
だからこの世界でも、俺はそれを始めた。
侵食オブジェクトを直す仕事。
あそびの概念が世界に侵食することで生まれた道具や生物。
それらに起きた異常を見つけ、修正する。
俺にとっては、この世界を知るための勉強でもあった。
今はまだ緋毬の街しか見たことがない。
けれど、この世界には他にもいろんなあそびの街や国があるらしい。
そして、そのあそびの力は、このだるまの街にも当たり前のように入り込んでいる。
見たことのない理屈で動くものばかりだ。
俺にとっては、興味深いものだらけだった。
……まあ、バグってさえいなければ、だけどな。
ーーーーーーーーーーー
仕事からの帰り道。
「ん?」
戸だ。
目の前に、戸があった。
家や建物の中ではない。
何もない道の真ん中に、一枚の引き戸だけが、ぽつんと立っている。
壁も柱もないのに、戸だけが当たり前のようにそこに存在していた。
(なんだ、これ……)
立ち止まり、戸を見つめる。
どう考えても不自然だ。
それなのに、どこか見覚えがあるような気もする。
いや、違う。
見覚えがあるんじゃない。
この戸の向こうに、何かがいる。
そんな気がした。
(嫌な予感がするな……)
そう思った瞬間、戸がひとりでに開いた。
「――っ」
戸の向こうに、本来見えるはずの帰り道はない。
広がっていたのは、深い海の底を思わせるダークブルー。
光さえ吸い込んでしまいそうな、暗い青の空間だった。
その闇の中から、何かがぬっと姿を現す。
深くフードをかぶり、顔には白い仮面をつけている。
体格も、性別も分からない。
仮面の人物は、戸の向こうからこちらをじっと見つめていた。
「な、んだ……お前?」
返事はない。
代わりに、フードの人物がわずかに身じろぎした。
一瞬、瞬きをする。
その直後。
仮面が、俺の目の前にあった。
「っ!?」
声を上げる暇もなく、反射的に身を引く。
一歩、二歩と後ろへ下がった。
だが、俺は気付いていなかった。
いつの間にか、俺の背後にも戸が現れていたことに。
そして、その戸がすでに開いていたことに。
靴のかかとが、戸の向こうへ踏み外れる。
「な――」
仮面の人物が、こちらに向かって手をひらひらと振った。
まるで、別れの挨拶でもするかのように。
次の瞬間、俺の体はダークブルーの混沌へと飲み込まれた。
◇
視界が遠のいていく。
体が落ちているのか、引っ張られているのかも分からない。
上下の感覚が消え、音も光も薄れていく。
しばらくして、足の裏に硬い感触が戻った。
「――なっ!?」
気付けば、俺は薄暗い場所に立っていた。
反射的に息を吸う。
呼吸はできる。
体も濡れていない。
それでも、全身を包む空気はひんやりと湿っていて、まるで深い水の底にいるような圧迫感があった。
足元を見る。
そこにあるのは、黒く湿った岩の地面。
試しに靴底で軽く踏み鳴らしてみると、乾いた音が何度も反響し、暗闇の奥へと消えていった。
「なんだよ、ここ……」
周囲を見渡す。
そこは、巨大な洞窟のような空間だった。
高い天井は暗闇に沈み、どこまで続いているのか分からない。
岩壁も地面も、全体が深いダークブルーに染まっている。
壁や天井のあちこちには、星のような小さな光が浮かび、洞窟の中を淡く照らしていた。
綺麗ではある。
だが、その光は温かさを感じさせない。
むしろ、暗闇の深さを強調しているように見えた。
そして、その洞窟の中には――戸があった。
一枚や二枚ではない。
無数の戸が存在していた。
岩壁に埋め込まれた引き戸。
何もない地面に、壁もなく立っている木戸。
高い天井近くの岩肌に張り付くように存在する扉。
古びた戸もあれば、真新しい白い扉もある。
豪華な装飾が施された大扉や、小さな押し入れの襖まであった。
形も、大きさも、向きもばらばら。
中には、半分ほど岩の中に埋まっているものすらある。
どこまでも続く薄暗い洞窟の中で、戸だけが不自然なほど大量に並んでいた。
「どこだ、ここ?」
振り返る。
だが、俺が落ちてきたはずの戸はどこにも見当たらない。
目の前にある戸のどれかが出口なのか。
それとも、出口そのものが存在しないのか。
一つずつ開けて確かめるにしても、数が多すぎる。
そもそも、適当に開けていいものなのかも分からない。
「面倒な場所に連れてこられたな……」
どうしたものかと頭をかいていると、
『やっほー』
突然、声が洞窟の中に響いた。
「っ!」
すぐに顔を上げる。
声は上から聞こえたような気がした。
だが、そこには岩肌と、天井に埋め込まれた戸があるだけで、人の姿はない。
周囲を見回す。
右にも左にも、誰もいない。
『ああ、そこにいるわけじゃないから、ボクを探しても見つからないよ』
今度は背後から聞こえた。
振り返る。
やはり、誰もいない。
「誰だ?」
聞いたことのない、中性的な声だった。
男にも女にも聞こえる。
洞窟中に反響しているせいで、声がどこから聞こえてくるのかまったく分からない。
普通に考えれば、さっきの仮面の人物だろう。
『はじめまして』
軽い調子で、声が続く。
『かくれんぼの神、秘世子です』
「かくれんぼの神……」
思わず、周囲に並ぶ戸へ視線を向ける。
なるほど。
突然現れた戸も、この異様な空間も、かくれんぼの力というわけか。
それにしても、緋毬以外のあそびのかみさまに会うのが、こんなにも早いとは思わなかった。
しかも、どう考えても友好的な出会いではない。
「その、かくれんぼの神様が、俺に何の用だ?」
いきなり人の前に現れて、出口も分からない場所へ放り込む。
少なくとも、まともに話を始める相手のやり方ではない。
『うん』
秘世子は、悪びれる様子もなく答える。
『別に君と楽しくおしゃべりをしたいわけじゃないから、手短に言うね』
無邪気だった声が、わずかに低くなる。
その瞬間。
ギィ――。
洞窟のどこかで、戸の軋む音がした。
反射的に音のした方向を見る。
岩壁に埋め込まれた一枚の戸が、ゆっくりと開いていく。
戸の向こうに広がっているのは、何も見えない深い闇。
続いて、別の場所から音が響いた。
ギィ。
ギィィ――。
正面。
背後。
頭上。
洞窟のあちこちにある戸が、次々とわずかに開いていく。
開いた戸の向こうにあるのは、どれも同じダークブルーの暗闇。
誰の姿も見えない。
それなのに、無数の視線を向けられているような感覚がした。
「……」
自然と体に力が入る。
声の主は姿を見せていない。
だが、この場所そのものが秘世子の支配下にあることだけは分かった。
ここでは、どこに隠れているのかを探すことすら意味がない。
『君さ――』
中性的な声に、隠しきれない威圧が混じる。
さっきまでの軽い口調は変わっていない。
それなのに、洞窟の空気が一気に重くなった。
そして、かくれんぼの神は言った。
『ボクと一緒に、だるまの神を倒す気はない?』




