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1-8

 王城の北塔は、弟王子エリオスにとって特別な場所だった。

 王都と港、その先の海までを一望できる高所。

 人の声が遠くなり、風の音だけが残る。


 石の縁に腰掛け、彼はあるものを見ていた。

 机には、ヴァルディール公爵家の資料と、淡彩の肖像画が置かれていた。

 会ったことのないマルグリット令嬢の瞳は、静かにこちらを見返している。


 エリオスはそれらを片付け、分厚い書物を開いた。

 王国史――交易と戦争、そのどちらにも傾いた不安定な年代を扱った巻だ。


 高い場所で読むと、物語は少しだけ現実から切り離される。

 その距離感が、彼は好きだった。


 だが、今日は違った。


 視線が、文字から外れた。

 港の外、沖合で、船が不自然な角度で揺れている。


 帆が裂けている。

 舵の動きが鈍い。

 風向きが悪い。


「座礁しかけている?」


 エリオスは立ち上がった。

 目を細めると、船影に見覚えのある紋章があった。


 隣国のものだ。


 迷いはなかった。

 本を閉じ、駆け出す。


 報告は即座に通された。

 港務官、外交官長、軍参謀、内政官。

 小会議室に集められた面々の顔には、すでに緊張が走っている。


「隣国船が難破の恐れ。救援を要請する信号は?」


「まだ出ていません。ただ、時間の問題かと」


 エリオスは、端の席で背筋を伸ばしていた。

 発言権はない。ただ、見聞するために呼ばれた。


「救援を出すべきです」


 最初に声を上げたのは、港務官だった。


「この海域で難破を見捨てれば、我が国の評判に関わる。

 港を持つ国として、それは致命的です」


「待て」


 外交官長が静かに制した。


「隣国は現在、内情が不安定だ。

 救援が"介入"と受け取られる可能性がある」


「だが、命が――」


「命は重い。だが、国も重い」


 室内に沈黙が落ちる。


 海軍参謀が口を開いた。


「軍事的観点から言えば、救援船を出すこと自体は可能です。

 しかし、万が一、船が囮だった場合……」


「その可能性は低い」


「低い、というだけだ。ゼロではない」


 内政官が、書類を指で叩いた。


「条約上、救援義務はありません。

 出さなくても、違反ではない」


「だが、人道的には――」


「人道は、条約の外にある」


 議論は、堂々巡りを始めた。


 エリオスは、唇を噛んだ。


 誰も間違ったことを言っていない。

 誰も冷酷でもない。

 それでも、答えが出ない。


(なぜ……)


 彼の中では、答えは単純だった。


 助けるべきだ。

 海で困っている者を、見捨てる理由などない。


 けれど、その言葉は喉で止まる。


 ここでは、直感は武器にならない。

 善意は、判断材料の一つに過ぎない。


「時間がありません」


 港務官が言った。


「潮流が変われば、船は完全に制御を失う」


「だからこそ、慎重に決める必要がある」


 外交官長の声は、感情を含まなかった。


「救援を出す。

 出さない。

 どちらも、我が国の責任になる」


 その言葉に、エリオスの胸が強く打たれた。


 責任。


 選ばなかった未来も含めて、背負うもの。


 議論は、やがて尽きた。

 新しい意見は出ない。

 残ったのは、沈黙と、重さだけ。


 エリオスは、無意識に拳を握っていた。


(王が……決める)


 その瞬間を、彼は初めて恐れていた。



 父王が会議室に入った瞬間、空気が変わった。

 誰もが立ち上がり、声を失う。

 王はそれを制するように軽く手を上げ、無言で席に着いた。


「状況は聞いた」


 短い言葉だった。

 問いではない。確認でもない。


 外交官長が、簡潔に議論の要点を述べる。

 救援を出す利点と、出した場合のリスク。

 条約、評判、軍事、内政――すでに出尽くした論点。


 父王は最後まで口を挟まなかった。

 ただ、静かに聞いていた。


 沈黙が落ちる。


 その重さに、エリオスは息を詰めた。

 これが、決断の前の空白なのだと、肌で分かる。


「救援は出さない」


 父王の声は、低く、揺れがなかった。


 誰かが息を呑み、誰かが視線を伏せる。

 港務官の顔に、一瞬だけ苦渋が走った。


「隣国の内情が不透明な今、介入は危険だ。

 善意が引き金になる戦は、最も愚かだ」


 父王は淡々と続けた。


「遭難したのが我が国の船であれば、迷わず救う。

 だが、王として選ぶべきは"悔いが少ない未来"だ」


 その言葉は、誰を責めるでもなく、誰を慰めるでもなかった。


「以上だ」


 決定は、覆らなかった。


---


 数日後、エリオスは別の報告書を読んでいた。

 外交官長から渡されたものだ。


 隣国では、ちょうど政争が激化していた。

 もし救援を出していれば、

 王国が一方の勢力を支援したと受け取られた可能性が高い。


 内紛への介入。

 報復。

 海上封鎖。


 書かれている文字は冷静だったが、

 そこに描かれた未来は、あまりにも重かった。


(助けていたら……)


 王国は、巻き込まれていた。

 その可能性は、確かに高い。


 それでも。


 エリオスは、書を閉じた。


 救われなかった命があったことも、事実だ。


 どれほど理屈を積み上げても、

 あの日、船は沈み、

 誰かが海に消えた。


 それを選んだのは、王だ。

 そして――未来の王となる者たちでもある。


---


 回廊で、レオンハントと並んで歩いた。

 兄は、いつもより少し静かだった。


「父上の決断、どう思った?」


 不意に聞かれ、エリオスは言葉を探す。


「……正しかったと思う」


「でも?」


 兄は、分かっているという顔で促した。


「正しい、という言葉で済ませてはいけない気がする」


 レオンハントは、少しだけ笑った。


「同感だ。正しさは、人を救わないこともある」


 エリオスは、立ち止まった。


「兄上。僕は……王には向いていない」


「どうして?」


「責任が重すぎるから。

 選択はできても、その後が辛くなりそうです」


 涙がこぼれた。

 しばらく、風の音だけが通り抜けた。


「それでも、父上は決めた」


 エリオスは続けた。


「僕には……あの怖さを、引き受けられない」


 レオンハントは、すぐには答えなかった。

 ただ、弟の肩に手を置いた。


「怖いと思えるなら、それは弱さじゃない」


「でも、王には……」


「王には、怖くても決める役目がある」


 エリオスは、ゆっくりと首を振った。


「分かってる。僕には……合わないと思う」


 その言葉には、力がなかった。

 断言ではない。どこか、自分に言い聞かせるような響きがあった。


「でも……」


 彼は続けようとして、言葉を止めた。


 でも、何だ。

 向いていなくても、選ばれることはある。

 向いていなくても、引き受けなければならない日が来るかもしれない。


 そのことを、エリオスは分かっていた。

 分かっているからこそ、簡単に「合わない」と言い切れない自分もいた。


 高い天井の下で、エリオスは空を見た。


 「選ばれること」が祝福ではないかもしれない、とは思った。

 だが、それが答えなのかどうか、まだ分からない。


 ただ一つ確かなのは、今日初めて、それを本当の問いとして受け取ったということだった。



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