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1-6

 潮の匂いが、王都の石畳とはまるで違っていた。

 濡れた木材、縄、油、そして遠くから混じる香辛料の甘い気配。レオンハントは桟橋の上で立ち止まり、ゆっくりと息を吸った。


「やはり、港は好きです」


 隣を歩く侍従のベニートは、小さく笑っただけで否定も肯定もしなかった。侍従長からは、王子の希望に従い「危険がなければ止めるな」とだけ指示を受けている。過度に口を挟まず、ただ見守る。それが今日の役目だった。


 レオンハントは、船の修繕をする職人の手元を覗き、荷を数える商人の帳面を遠目に見て、帆を畳む船員たちの動きに目を輝かせた。

 どの仕事も、教科書で読むよりずっと生き生きとしていて、そして忙しない。


「同じ港なのに、こんなに役割が分かれているんですね」


 彼は感心したように呟いた。

 それは独り言に近い声だったが、近くにいた船員の一人が気づき、軽く頭を下げた。


「仕事が違えば、考え方も違いますから」


 言葉は丁寧だったが、そこに親しみはなかった。王子だと気づいたからこその距離感だ。レオンハントはそれを理解しつつも、少しだけ胸が疼いた。


 そのとき、桟橋の先で声が荒くなるのが聞こえた。


「規定外だ。積み直せと言っている」

「そんな時間はない。潮待ちなんだぞ!」


 港の監督官と、船員の間で小さな口論が起きていた。

 侍従が一歩前に出かけたが、レオンハントは首を横に振る。


「少し、聞いてみたいだけです」


 侍従はためらいながらも、止めなかった。


 近づくと、二人の言い分は単純だった。

 監督官は規定通りの積載を求め、船員は出航の遅れを恐れている。どちらも間違っていない。

 それが、レオンハントにはすぐに分かった。


「お二人とも、港のためを思っているんですよね」


 思わず、そう口にしていた。


 監督官は一瞬驚いた顔をし、すぐに姿勢を正す。

「殿下……。はい、その通りでございます」


 船員も、慌てて帽子を取った。

「もちろんです。ただ、今日は風向きが……」


 二人とも、王子に従おうとはしていない。ただ、"聞かれている"から答えているだけだ。その微妙な空気の違いを、レオンハントはまだ完全には掴めていなかった。


 レオンハントは、少し考えてから言った。


「私から見ても、規定の積載量を超えているように見えます。

 監督官の言う通り、規定を優先するべきだと思います」


 レオンハントはこれまでの座学と、港での見学を通じて、その凄惨な事故の記録をいくつも頭に叩き込んできた。

 ルールは彼らを縛るためのものではない。命を守るための防波堤なのだ。

 無理を重ねる彼らの姿が、いつか海に沈む未来の犠牲者と重なり、どうしても放っておけなかった。


「この季節の風は読めない。規定を破れば、港を出てすぐに危険に晒される」


 それは、彼なりに誠実な言葉だった。

 命令でも、裁定でもない。ただの意見だ。


 しかし、その場にいた数人の視線が、わずかに揺れた。

 少年の発言は、現場の大人たちにはただの『王族からの冷徹な指摘』として響いてしまう。


 船員はすぐに反論しなかった。否定もしていない。ただ、言葉を選ぶように口を閉ざした。

 監督官の方は、安堵とも期待ともつかない表情を浮かべる。


「……殿下がそう仰るなら」


 その一言が、周囲に小さな波紋を広げた。


 誰も「王子の命令だ」とは言っていない。

 だが、「王子が見ている」「王子が聞いている」という事実だけが、静かに場の力関係を変えていた。


 侍従は、その変化に気づきながらも、あえて何も言わなかった。


 その日の午後、積み直しが行われた。

 だが、船員たちは不満を抱え、陰で不満をこぼすものもいた。


 誰かが間違えたわけではない。

 けれど、港の空気は、ほんの少しだけ歪んでいた。


 レオンハントは港を離れるとき、胸がざわついた。

 ただ理由は分からない。


 規定は守られた。

 なのにどうして、こんな気持ちになるのか。



 港を離れてしばらく歩いたところで、レオンハントは足を止めた。

 潮の匂いと、遠くで鳴る滑車の軋む音が、まだ背後に残っている。


「ベニート、僕の発言はおかしかったか?」


 侍従のベニートが、歩調を緩めて答える。

 その声は叱責でも、諭す調子でもなかった。


「殿下のお言葉は、正論でした。規定は守られるべきですし、あの発言に誤りはありません」


 一拍置いて、ベニートは続ける。


「ですが、あの場にいた船員たちは、自分たちが"聞かれなかった"と感じたでしょう」


「聞かれなかった?」


 思わず、問い返していた。


「殿下は双方に話し合いを促し、最終的には規定遵守を示されました。それ自体は正しい。しかし――」


 ベニートは言葉を選ぶように、ゆっくりと息を吐いた。


「殿下が『規定を守るべきだ』と仰った瞬間、あの場で話し合いは終わったのです」


 レオンハントは、言葉を失った。


「殿下は命じてはいません。ですが、王子の言葉は"意見"として受け取られません」


 その一言が、胸の奥に静かに沈んだ。


 港での光景が脳裏に浮かぶ。

 監督官の安堵した表情。

 頭を下げる船員たち。

 そして――一瞬だけ、唇を噛みしめた若い船員の横顔。


「……僕は」


 声が、少し掠れた。


「僕は、正しいことを言ったと思っていました」

「はい」

「でも、誰も納得していなかった?」


 ベニートは否定も肯定もせず、ただ静かに答えた。


「殿下のお言葉で、規定は守られました。しかし、殿下のお言葉で、人の心は動かなかったのです」


 その言葉に、反論は浮かばなかった。


 正しさを示せば、道は整う。

 そう信じてきた。

 そう教えられてきた。


 けれど、現実は違った。


 正しさは、人を黙らせることがある。

 そして沈黙は、理解とは違う。


「……王になるというのは」


 ぽつりと、独り言のように呟く。


「決めること、だけではないのですね」


 ベニートは、わずかに目を細めた。


「決めることも、王の務めです。しかし――それだけでは、足りません」


 再び歩き出した港町の石畳は、先ほどよりも硬く感じられた。

 自分の足音が、やけに大きく響く。


 振り返れば、港は変わらず忙しく、何事もなかったように動いている。

 規定は守られ、船は出る。

 世界は、何も困っていない。


 それでも、胸の奥に小さな棘が残っていた。


(僕は、今日……何を学んだのだろう)


 答えは出ない。

 ただ一つ、確かなのは。


 王の言葉は、剣よりも重い。

 そして、正しさだけでは、人は救えない。


 そのことを、レオンハントは初めて実感していた。


 ――潮風が、少しだけ冷たくなった気がした。



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