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潮の匂いが、王都の石畳とはまるで違っていた。
濡れた木材、縄、油、そして遠くから混じる香辛料の甘い気配。レオンハントは桟橋の上で立ち止まり、ゆっくりと息を吸った。
「やはり、港は好きです」
隣を歩く侍従のベニートは、小さく笑っただけで否定も肯定もしなかった。侍従長からは、王子の希望に従い「危険がなければ止めるな」とだけ指示を受けている。過度に口を挟まず、ただ見守る。それが今日の役目だった。
レオンハントは、船の修繕をする職人の手元を覗き、荷を数える商人の帳面を遠目に見て、帆を畳む船員たちの動きに目を輝かせた。
どの仕事も、教科書で読むよりずっと生き生きとしていて、そして忙しない。
「同じ港なのに、こんなに役割が分かれているんですね」
彼は感心したように呟いた。
それは独り言に近い声だったが、近くにいた船員の一人が気づき、軽く頭を下げた。
「仕事が違えば、考え方も違いますから」
言葉は丁寧だったが、そこに親しみはなかった。王子だと気づいたからこその距離感だ。レオンハントはそれを理解しつつも、少しだけ胸が疼いた。
そのとき、桟橋の先で声が荒くなるのが聞こえた。
「規定外だ。積み直せと言っている」
「そんな時間はない。潮待ちなんだぞ!」
港の監督官と、船員の間で小さな口論が起きていた。
侍従が一歩前に出かけたが、レオンハントは首を横に振る。
「少し、聞いてみたいだけです」
侍従はためらいながらも、止めなかった。
近づくと、二人の言い分は単純だった。
監督官は規定通りの積載を求め、船員は出航の遅れを恐れている。どちらも間違っていない。
それが、レオンハントにはすぐに分かった。
「お二人とも、港のためを思っているんですよね」
思わず、そう口にしていた。
監督官は一瞬驚いた顔をし、すぐに姿勢を正す。
「殿下……。はい、その通りでございます」
船員も、慌てて帽子を取った。
「もちろんです。ただ、今日は風向きが……」
二人とも、王子に従おうとはしていない。ただ、"聞かれている"から答えているだけだ。その微妙な空気の違いを、レオンハントはまだ完全には掴めていなかった。
レオンハントは、少し考えてから言った。
「私から見ても、規定の積載量を超えているように見えます。
監督官の言う通り、規定を優先するべきだと思います」
レオンハントはこれまでの座学と、港での見学を通じて、その凄惨な事故の記録をいくつも頭に叩き込んできた。
ルールは彼らを縛るためのものではない。命を守るための防波堤なのだ。
無理を重ねる彼らの姿が、いつか海に沈む未来の犠牲者と重なり、どうしても放っておけなかった。
「この季節の風は読めない。規定を破れば、港を出てすぐに危険に晒される」
それは、彼なりに誠実な言葉だった。
命令でも、裁定でもない。ただの意見だ。
しかし、その場にいた数人の視線が、わずかに揺れた。
少年の発言は、現場の大人たちにはただの『王族からの冷徹な指摘』として響いてしまう。
船員はすぐに反論しなかった。否定もしていない。ただ、言葉を選ぶように口を閉ざした。
監督官の方は、安堵とも期待ともつかない表情を浮かべる。
「……殿下がそう仰るなら」
その一言が、周囲に小さな波紋を広げた。
誰も「王子の命令だ」とは言っていない。
だが、「王子が見ている」「王子が聞いている」という事実だけが、静かに場の力関係を変えていた。
侍従は、その変化に気づきながらも、あえて何も言わなかった。
その日の午後、積み直しが行われた。
だが、船員たちは不満を抱え、陰で不満をこぼすものもいた。
誰かが間違えたわけではない。
けれど、港の空気は、ほんの少しだけ歪んでいた。
レオンハントは港を離れるとき、胸がざわついた。
ただ理由は分からない。
規定は守られた。
なのにどうして、こんな気持ちになるのか。
港を離れてしばらく歩いたところで、レオンハントは足を止めた。
潮の匂いと、遠くで鳴る滑車の軋む音が、まだ背後に残っている。
「ベニート、僕の発言はおかしかったか?」
侍従のベニートが、歩調を緩めて答える。
その声は叱責でも、諭す調子でもなかった。
「殿下のお言葉は、正論でした。規定は守られるべきですし、あの発言に誤りはありません」
一拍置いて、ベニートは続ける。
「ですが、あの場にいた船員たちは、自分たちが"聞かれなかった"と感じたでしょう」
「聞かれなかった?」
思わず、問い返していた。
「殿下は双方に話し合いを促し、最終的には規定遵守を示されました。それ自体は正しい。しかし――」
ベニートは言葉を選ぶように、ゆっくりと息を吐いた。
「殿下が『規定を守るべきだ』と仰った瞬間、あの場で話し合いは終わったのです」
レオンハントは、言葉を失った。
「殿下は命じてはいません。ですが、王子の言葉は"意見"として受け取られません」
その一言が、胸の奥に静かに沈んだ。
港での光景が脳裏に浮かぶ。
監督官の安堵した表情。
頭を下げる船員たち。
そして――一瞬だけ、唇を噛みしめた若い船員の横顔。
「……僕は」
声が、少し掠れた。
「僕は、正しいことを言ったと思っていました」
「はい」
「でも、誰も納得していなかった?」
ベニートは否定も肯定もせず、ただ静かに答えた。
「殿下のお言葉で、規定は守られました。しかし、殿下のお言葉で、人の心は動かなかったのです」
その言葉に、反論は浮かばなかった。
正しさを示せば、道は整う。
そう信じてきた。
そう教えられてきた。
けれど、現実は違った。
正しさは、人を黙らせることがある。
そして沈黙は、理解とは違う。
「……王になるというのは」
ぽつりと、独り言のように呟く。
「決めること、だけではないのですね」
ベニートは、わずかに目を細めた。
「決めることも、王の務めです。しかし――それだけでは、足りません」
再び歩き出した港町の石畳は、先ほどよりも硬く感じられた。
自分の足音が、やけに大きく響く。
振り返れば、港は変わらず忙しく、何事もなかったように動いている。
規定は守られ、船は出る。
世界は、何も困っていない。
それでも、胸の奥に小さな棘が残っていた。
(僕は、今日……何を学んだのだろう)
答えは出ない。
ただ一つ、確かなのは。
王の言葉は、剣よりも重い。
そして、正しさだけでは、人は救えない。
そのことを、レオンハントは初めて実感していた。
――潮風が、少しだけ冷たくなった気がした。




