1-5
窓から流れ込む風は、かすかに塩の香りを孕んでいた。
眼下に広がる港には、荒波を越えてきた、重厚な丸みを帯びたコグ船が何隻も停泊している。
羊毛やワインなどの荷降ろしをする人々の喧騒が、ここまで届きそうだった。
「――さあ、お二人とも。今日の講義はここまでにして、少し『新しい遊び』を学びましょう」
廷臣たちの間でも「鉄の規律」と恐れられる侍従長ベレンドールが、その厳格な目元をわずかに和らげて言った。
彼が書架の奥から恭しく取り出したのは、重厚な漆黒の木箱だった。
「ベレンドール、それは何だ?」
身を乗り出したのは、兄のレオンハントだった。
十歳になったばかりの彼は、じっと座ってラテン語の書物を読まされる講義に、とうに退屈していたのだ。
「これはチェスという盤上遊戯にございます、レオンハント殿下」
「遥か東の、砂漠と海に隔てられた異教の地より、いくつもの国を越えてこの国へと伝わった、知略の闘技場にございますよ」
ベレンドールが蓋を開けると、中から現れたのは、磨き抜かれた白と黒の美しい駒たちだった。
「わあ……」
弟のエリオスが、その瞳を輝かせて一歩前に出た。
彼は細奢な指先で、丁寧に彫刻された白い駒にそっと触れる。
「象牙、でしょうか。黒い方は……」
「お気づきになりましたか、エリオス殿下」
「黒は遥か南方の、太陽が照りつける異境からもたらされた素材にございます」
「幾人もの異国の商人の手を経て、海路の関門をいくつも越えて我が宮廷にもたらされた、富と権威の象徴にございますな」
ベレンドールは、白と黒の市松模様が描かれた盤上に、手際よく駒を並べていった。
「チェスの目的は至って単純。自らの兵を動かし、敵の『王』を追い詰めることにございます」
「駒にはそれぞれ決まった役割があり――」
「なるほど……盤上の戦というわけですね。ベレンドール、俺が白で構わないか? エリオス、勝負しよう!」
レオンハントが待ちきれない様子で、馬の頭の形をした駒を掴み、勢いよく前へ進めようとした。
「お待ちください、レオンハント殿下」
ベレンドールが穏やかに、しかし遮るようにその手を止める。
「ナイトは跳び越える動きをしますが、まだ歩兵も動かしておりません。戦には順序というものがございます」
「兄上、少し落ち着いて」
エリオスが、並べられた盤面全体を静かに見つめながら言った。
「ベレンドール。この、冠を被った一番大きな駒が『王』だね」
「守らなければならないのに、一歩ずつしか動けない。……でも、その隣にあるこの駒は?」
「鋭い着眼点にございます、エリオス殿下。それは『王妃』にございます」
「王妃……。一番大きな王様の隣にいるけれど、あまり派手には動かないんだね」
エリオスが不思議そうに小首を傾げる。
「左様にございます。王妃は最も王の近くに寄り添い、静かに王を護り、国を支えるための駒。このチェス盤は、まさに我らが宮廷の縮図であり、世界そのものなのです」
ベレンドールの言葉には、単なるゲームの説明を超えた、重い響きがあった。
エリオスは小さく頷き、盤上の駒の配置と役割の関連性を、頭の中で急速に組み立てていくようだった。
その理解の速さは、隣で早く動かしたくてウズウズしているレオンハントとは対照的だった。
「ふうん……。でも、王妃がどれだけ大切でも、最後に守らなきゃいけないのは動けない王様なんだろ?」
レオンハントが、退屈そうに頬杖をつきながら言った。
「それにしても、この盤を戦場に見立てて戦うなんてさ。毎日、国中のことを考えて、遠い国々と取引している父上はすげーな」
「――レオンハント殿下」
ベレンドールの声のトーンが、一瞬にして冷徹なものへと変わった。
レオンハントはびくりとして背筋を伸ばす。
「あ、いや……父上は、偉大だな、と……」
「私が言わんとしたことを理解いただくのは素晴らしいです。しかし、『すげーな』とは、王族が使う言葉ではございません」
ベレンドールは厳しくレオンハントを見据えた。
「お二人はいつか、この国を背負って立つお立場。たとえ身内のみの場であっても、言葉選び一つに、王たる者の品格を持たねばなりませぬ。お分かりですか」
「……はい。すまなかった、ベレンドール」
レオンハントは気まずそうに頭を掻いた。
その様子を、エリオスが少しからかうような、しかし庇うような優しい微笑みを浮かべて見つめている。
「よろしい。……では、言葉を改めたところで、実際に数手、進めてみましょう」
「白の先手は、レオンハント殿下。さあ、最初の兵をどう動かしますか?」
レオンハントの目が、再び挑戦的な光を帯びた。
「よし。俺の初手は、ここだ! まっすぐ敵陣に攻め込む!」
「ならば、僕は……」
エリオスが静かに、レオンハントの攻め筋を遮るように自らの駒を進める。
白と黒、決して交わることのない二つの色彩が、幼い双子の指先を通じて深く、甘やかに絡み合っていく。
盤面を見つめる双子の横顔を見つめながら、ベレンドールは小さく、誰にも気づかれぬほどの溜息をこぼした。
厳しい鉄の仮面を剥ぎ取った彼の口元には、ただ二人の健やかな未来を願うような、ひそやかな慈しみが滲んでいた。




