4-23
出航を翌朝に控えたその夜、レオンハントは城のきらびやかな喧騒から最も遠い場所へと足を向けた。
王宮の北翼、今では使われることもなく半ば忘れ去られた古い一画。そこに、かつて幼い頃の彼らが二人だけで使っていた子供部屋があった。重い扉を開けると、鍵を開けておいた室内に、すでに一人の影が佇んでいた。
「こんな場所に呼び出すなんて、相変わらず兄上のやることは予測がつきません」
振り返ったエリオスは、新王の重々しい上着を脱ぎ捨て、白いシャツの一番上のボタンを緩めていた。
「いいだろ、たまには。新王と公務以外の話をするのに、これ以上の隠れ家はあるまい」
レオンハントは笑いながら、手にしてきた木箱を机代わりに床へ置いた。がらんとした部屋には家具のほとんどが残っておらず、窓から差し込む青白い月光だけが、埃の舞う冷たい床を照らしている。箱の中から取り出したのは、王宮の高級なワインではなく、街の酒場で手に入れた安価な果実酒の瓶だった。
ポン、と小気味いい音を立てて栓を抜くと、甘酸っぱく、少し尖った葡萄の匂いが部屋を満たしていく。
「懐かしいな。昔、家庭教師の目を盗んで、この部屋でよく悪さをした」
レオンハントは手近な柱に近づき、月明かりを頼りに指先でその表面をなぞった。そこには、二人の背丈を測ってナイフで刻んだ、歪な傷跡がいくつも並んでいた。
「チェスを初めて教えてもらったのも、この部屋でした」
「お前には、あまり勝てなかったな」
二人は床に直に座り込み、安物のグラスを重ねた。チリン、と軽い音が響く。
一口煽ったレオンハントは、酒の酸っぱさに顔をしかめながら、しみじみと弟の横顔を見つめた。
「それにしても……この一か月、お前の即位からの振る舞いは見事だった。国葬も婚礼も、俺はただ突っ立ってるだけだったが、お前の一挙手一投足には、小うるさい貴族どもすら黙らせる凄みがあった。誇らしかったよ、エリオス」
兄の真っ直ぐな称賛に、エリオスはグラスを見つめたまま、ふっと視線を落とした。
「昼間の私は、そう見えるように計算して動いているだけです。兄上」
静かな声だった。そこには、王としての仮面を剥ぎ取られた、一人の少年の本音が混ざっていた。
「今でも、夜になれば怯えが消えるわけではありません。私が一つの決断を間違えれば、不平貴族が動き、民が飢える。その重圧の前に、自分の知性が酷くちっぽけなものに思えて、足が震える夜もあるのです」
レオンハントは静かに酒を口に運んだ。あの夜、中庭で見せた弟の震えは、王座に就いた今も完全に消えたわけではないのだ。
「だろうな。それを一人で背負うんだ、怖くないわけがない」
レオンハントは自らのグラスを見つめ、少し苦笑混じりに続けた。
「実を言うと、俺だって寂しいさ。これから少なくとも一年、下手をすれば数年は、このアルセイオンを離れる。言葉も通じない、刃物がいつ飛んでくるかもわからない未知の海だ。馴染みの港がきっと恋しくなる」
「兄上でも、寂しいなどと思うのですね」
「当たり前だ。俺をなんだと思ってるんだ。だがな、エリオス。その寂しさや恐怖を引っくるめても、俺たちの胸は、これから来る未来に躍っているはずだろ?」
レオンハントがニカッと笑うと、エリオスも諦めたように、小さな、しかし美しい微笑みを浮かべた。
「ええ、その通りです。私が設立に動いている直属の諜報部隊ですが、すでに何人かの司教の古い人脈をいくつか引き込み、網を広げ始めています。兄上が外海で立ち寄る主要な港にも、私が先手を打って『耳』を忍ばせておきましょう。兄上が異国の美女にうつつを抜かしていないか、逐一報告が入る手筈です」
「おいおい、勘弁してくれよ。俺の隣には世界一恐ろしい猛獣使いが常に睨みを利かせてるんだ。浮気なんて命がいくつあっても足りんさ」
二人の笑い声が、古い部屋の壁に反響する。
そこからは、真面目で、かつ未来への希望に満ちた国家戦略の語り合いとなった。
「カイル将軍の部下のアルフォンソを連れていく。あいつの砲術と船舶工学の知識は本物だ。外海の進んだ技術を盗み見て、この国の職人どもに叩き込ませたい」
「素晴らしい。ハワード卿には、技術投資のための予算枠を今から無理矢理にでも確保させます。これからの王国は、農業と関税だけに頼る旧時代から脱却し、技術と流通の先進国へと変貌を遂げねばなりません」
「他国の王たちがどんな飯を食い、どんな法で民を縛っているかも見てきてやる。チェス盤の上だけじゃわからない、生の人間の動かし方を、お前にたっぷり教えてやるよ」
話は尽きず、安物の果実酒の瓶が空になる頃には、窓の外の月は静かに西へと傾いていた。
楽しい時間は、驚くほど速く過ぎ去っていく。
エリオスは立ち上がり、シャツの襟を整えて、再び「王」としての冷徹な、しかしどこか温かみのある佇まいに戻った。彼の脳裏には、数日前の夜、この兄が乱暴に自分の髪を撫で回しながら放った言葉が、鮮やかによみがえっていた。
——俺たちの絆は変わらない。
あの時、兄がくれた絶対的な肯定の言葉。今度は、自分がそれを返す番だった。
「兄上」
エリオスは真っ直ぐにレオンハントを見つめ、右手を胸に当てて、深く、しかし親愛を込めて一礼した。
「私はこの王城で、あらゆる波風からこの国を護り、兄上の帰りを待っています。ですから……どうか、世界のすべてをその目で見て、無事に戻ってきてください」
「ああ。お前が世界で一番完璧な国を創り上げる頃に、俺は世界で一番大きな土産を持って帰ってくるさ」
レオンハントは立ち上がり、弟の肩を一度だけ、強く叩いた。
夜明けの気配が、古い子供部屋の窓を白く染めようとしていた。二人の進む道は、ここから完全に二つに分かれる。だが、彼らを繋ぐ見えない絆は、これからの荒波のどんな嵐よりも、王座のどんな孤独よりも、遥かに強固なものとして、二人の胸の中に確かに息づいていた。```




