4-24 最終話
アルセイオンの港を満たしているのは、潮の匂いと、新時代を告げるに相応しいまばゆい朝の光だった。
岸壁には、出航する二隻の大型帆船を見送るため、身動きも取れないほどの民衆が集まっていた。歓声と見送りの旗が波のように揺れる中、王族専用の天幕の下で、レオンハントは最後の別れを惜しんでいた。
「兄上。風の向きは極めて良好のようです。最初の寄港地までは予定より早く着けるかもしれませんね」
エリオスは、新王としての威厳あるローブを纏いながらも、その瞳には昨日までの重圧を忘れたかのような、純粋な知的好奇心が灯っていた。
「そいつはありがたい。幸先がいいな」
レオンハントが笑うと、エリオスの隣に並ぶ新王妃マルグリットが、淑やかに、しかし悪戯っぽく微笑んだ。
「レオンハント義兄上、アレッシアさんを泣かせるような真似をなさいましたら、海の向こうであっても、陛下を通じて私の耳にも届くことになっておりますわ。お気をつけて」
「おいおい、王妃殿下まで諜報部隊の味方か。こりゃあ、四六時中背筋を伸ばしていなきゃならんな」
レオンハントは頭を掻き、エリオスと視線を交わした。言葉はなくとも、二人の間には、昨夜の古い子供部屋で交わした確かな誓いが、静かに、熱く通い合っていた。
タラップを上がり、甲板へ足を踏み入れると、そこはすでに旅立つ者たちの活気に満ち溢れていた。
船首の近くでは、レオンハントが頼み込んで同船した通訳のイアンが、アルフォンソと熱心に打ち合わせをしていた。若いうちから六ヶ国語を操るというその秀才は、膨大な知識を頭脳に収めながら、常に一歩引いた視点で船の行く末を見定めているようだった。
一方、船室の入り口では、聞き慣れた、少し偏屈な声が響いていた。
「これ、そこへ積むのは私の私物ではない! 殿下が航海中に飽きないよう、統治院の書庫から拝借してきた歴史書だ、丁寧に扱わんか!」
怒鳴っていたのは、ベニートだった。本来なら城に残そうとしたこの老侍従は、何を思ったか「レオンハント殿下には、手綱を握る者が私を含めて二人以上いなくては国辱を晒すことになる」と言い張り、強引に船へ乗り込んできたのだ。小言は相変わらずだが、その甲斐甲斐しい動きには、レオンハントへの不器用な愛着が滲んでいた。
「まったく、ベニートは城にいた方が楽ができたでしょうに」
あきれたような、しかしひどく愛おしそうな声と共に、レオンハントの隣に並んだのは、妻のアレッシアだった。
真紅の旅装に身を包んだ彼女は、潮風に金の髪をなびかせながら、水平線の先を見つめていた。その姿は、どんな男格好の騎士よりも勇敢で、どんな王妃よりも気高かった。
「レオンハント様。この船、最高の乗り心地ですわ。これなら、どんな嵐が来ても、私たちの行く手を阻むことはできません」
「ああ。お前が隣にいてくれるなら、嵐の最中でも極上のワインが飲めそうだな」
レオンハントが彼女の肩を抱き寄せると、アレッシアは「ふふ、それにはベニートの許可が必要ですわね」と鈴を転がすように笑った。
「出航——っ!!」
船長の野太い声が甲板に響き渡り、巨大な白帆が一斉に風を孕んで膨らんだ。
錨が巻き上げられ、木造の巨躯が、ギチリと音を立てて岸壁を離れていく。
レオンハントは船尾の欄干に立ち、遠ざかっていくアルセイオンの街並みと、小さくなっていくエリオスたちの姿を見つめていた。民衆の歓声が、潮騒の音に混ざって遠ざかっていく。
かつて、王座に選ばれなかったあの瞬間、彼の世界は一度、狭く暗い場所に閉じ込められたように思えた。だが今、彼の目の前に広がっているのは、そんな小さな王座など比べるべくもない、果てしない蒼の広がりだった。
弟がこの背後で、揺るぎない「盾」として国を護り、完璧な秩序を編み上げていく。
ならば自分は、この海の先にあるすべての輝きを、富を、技術を、新しい未来を、その剛腕で掴み取って帰るだけだ。
「さあ、行こうか!」
レオンハントは振り返り、甲板の仲間たち、そして最愛の妻に向かって、太陽のように眩しい、一点の曇りもない笑顔を向けた。
「俺たちのアルセイオンを、世界で一番面白い国にしてやろうじゃないか!」
爽快な号令に、船員たちが弾けたような歓声で応えた。
船首が白波を蹴立てて加速し、見慣れた祖国の港が次第に小さくなっていく。
きらめく朝の光りの中、新しい役割をもった若者を乗せた船は、広大な大海原を真っ直ぐに突き進んでいった。




