4-20
国葬と婚礼の準備で城中が蜂の巣を突いたような騒ぎになる中、その人は、春の嵐のような足取りでアルセイオンへやってきた。
ヴァレンツァ共和国からの船団を率い、数年ぶりにレオンハントの前に姿を現した婚約者――アレッシア。
長旅の疲れなど微塵も感じさせない凛とした佇まいで、彼女は豪奢な旅装の裾をさばき、俺を見上げるなり、悪戯っぽく、けれど深い慈愛を湛えた瞳を細めた。
「お久しぶりですわ、レオンハント様。あら……少し、お痩せになりました?」
「アレッシア……。いや、そんなこともないさ。お前は相変わらず綺麗だな」
久方ぶりの再会に胸が躍る一方で、俺の心には、小さなしこりのような後ろめたさが残っていた。俺は王座に選ばれなかった男だ。ヴァレンツァ共和国という躍進国との絆を深めるための婚約であった以上、彼女を「王妃」にしてやれなかった事実は、酷く申し訳なく思えた。
「すまない、アレッシア。俺は……王に選ばれなかった。お前を王妃にしてやれなくて、本当に……」
「レオンハント様」
俺の言葉を遮ったアレッシアの声は、静かだが、鋼のような芯の強さを持っていた。彼女は一歩歩み寄ると、俺の大きな手を、自身の柔らかな、けれど決して弱々しくはない両手で包み込んだ。
「私を侮らないでください。私が恋い慕い、生涯の伴侶と定めたのは、アルセイオンの『王座』ではなく、レオンハント様というお方そのものですわ。あなたが王であろうとなかろうと、私の誇りは一分も揺らぎはいたしません」
その真っ直ぐな言葉が、レオンハントの胸の奥に残っていた最後の曇りを、鮮やかに吹き飛ばした。この行動的で芯の強い女性を娶ることができるのなら、それだけで、世界一の果報者だと確信できた。
「ありがとう、アレッシア。……なら、話が早い」
レオンハントは広げたままだった世界地図を、彼女に見せるように指し示した。
「俺は統治院から『外征特使』の役目を引き受けた。この国を飛び出し、誰も見たことのない外海へも出て、新しい技術や同盟国を探してくる。婚礼が済み次第、船を出すつもりだ。お前には、この城で俺の帰りを待ってもらうことに……」
「待つ? この私が、ですの?」
アレッシアは呆れたように片方の眉を上げた。その表情が、あまりにも彼女らしくて思わず笑みがこぼれる。
「冗談は仰らないで。あなたが未知の海へ木葉のような船で突っ込んでいくというのに、私がこの退屈な城に籠もり、刺繍でもしながら無事を祈っているなんて、天地がひっくり返っても無理というものですわ。私はヴァレンツァで、異国との交易や外交の交渉を直に学んできました。荒波を越えた先での交渉ごとには、必ずや私の知恵が必要になります」
「そうは言っても、長い旅になる。危険も多いだろう。生きて戻れる保証もない嵐の海だ」
諭すように言うと、アレッシアはふっと、少女のように悪戯っぽく、しかし最高に美しい微笑みを浮かべた。
「安全な城であなたの無事を案じるくらいなら、あなたの隣で、一緒に嵐に飲まれる方がずっと素敵ですわ。……それとも、私はお荷物かしら?」
「まさか。君が頼りになることは知っているよ」
外海への航海。それは命懸けの旅になるだろう。だが隣には、どんな嵐をも笑顔で蹴散らしてくれそうな、世界で最も心強い味方がいる。
レオンハントは、彼女の凛とした顔を見つめながら、自分が手に入れた最高の幸運を噛み締めていた
アレッシアを連れ、レオンハントは新王となった弟の執務室へと足を向けた。
扉を開けると、そこには夜の静寂をそのまま引きずってきたような、書類の山に囲まれたエリオスがいた。兄が連れてきた婚約者の姿を見るなり、新王の美しい眉が、怪訝そうにピクリと跳ね上がる。
用件は至極単純、かつ爆弾のようなものだった。アレッシアが笑顔で放った「私も外海へ同行いたしますわ」という一言に、さすがの冷徹な新王も、手にしたペンを止めて絶句した。
「……正気ですか、アレッシア殿」
エリオスは瞳を鋭く細め、静かな、しかし断固とした拒絶のトーンで言った。
「外海への航海は、成功確率の極めて低い大博打です。我が国にとって、ヴァレンツァ共和国の重鎮の令嬢である貴女が同行するなど、到底認められません。嵐などで、お二人が同時に命を落とすといった可能性も考えなくてはならない。危険すぎます」
至極真っ当な、王としての正論。だが、アレッシアは全く怯まなかった。それどころか、楽しそうにふっと唇を綻ばせる。
「エリオス陛下。王となられて、少々守りが硬くなりすぎていらっしゃいませんこと?」
「現実的なリスク管理を語っているのです」
「そのリスクを上回る『投資対効果』があれば、話は別でしょう?」
アレッシアは石卓の前に歩み出ると、レオンハントが広げていた世界地図の上に、自らの白い指先をすっと滑らせた。
「ヴァレンツァの造船技術と航海術は、アルセイオンのそれよりも半世紀は進んでいます。私が同行するとなれば、我が実家から最新鋭の三檣帆船二隻と、一級の航海士を無償で『持参金』として融通させますわ。これで航海の生存率は跳ね上がります。それに、兄上は、未知の国との『交渉』には、少しばかり経験が少なくありませんか?」
レオンハントが思わず「おい」と苦笑するのを無視して、アレッシアは小気味いいテンポで言葉を畳み掛ける。
「外海で新たな貿易路を開拓する際、ただ武力を見せつけるだけでは、相手を警戒させるだけです。商人の国ヴァレンツァの人間として、私は関税の交渉、特産品の独占契約、さらには現地通貨の調達まで、すべてその場で計算してみせましょう。陛下の仰る『正確な情報収集のための諜報部隊』の資金源を、海の向こうから調達してくるのは、この私ですわ」
エリオスが何か反論しようと口を開きかけたが、アレッシアはそれを美しい手つきで制した。
「さらに言えば、これは外交の『逃げ道』でもあります。もし現地で何か不手際があった際、それがアルセイオン単独の暴走ではなく、ヴァレンツァとの『共同探検事業』という形をとっていれば、国際法上の摩擦をいくらでも薄めることができる。……いかがかしら、陛下。これでもまだ、私はただのお荷物に見えます?」
完璧なまでの論理の防壁。経済的メリット、実務の補完、そして政治的クッションとしての役割まで、エリオスが好む「数字と合理性」の言語で、完璧に組み立てられたカウンターだった。
執務室に、しばしの沈黙が流れた。
エリオスは驚きに目を見開いていたが、やがて、降参したようにふっと肩の力を抜いた。彼の唇に、不本意ながらも感嘆したような笑みが浮かぶ。
「……驚きました。ロドリック卿を相手にしているかと思った。裏付けがある反論ほど、崩しにくいものはありませんね」
新王は兄の顔を見て、深く溜息をついた。
「兄上には、あまりにも勿体ない妻だ。……アレッシア殿、兄の野生の手綱を引き締めつつ、我が国の未来を広げるための頭脳となってくれること、私からもよろしく頼みます」
「ふふ、お任せくださいな。猛獣使いは、ヴァレンツァの女性の嗜みですもの」
アレッシアが楽しげにウインクし、レオンハントは「誰が猛獣だ」と頭を掻いた。
認められた。その瞬間から、部屋の空気は「反対」から「未来の作戦会議」へと一気に切り替わった。
エリオスが求める世界の情報、アレッシアが持ち帰るべき富と技術、そしてレオンハントが示すべき武威。知性派の二人が、火花を散らすように小気味よく言葉を交わし、国家と世界の未来を編み上げていく。その様子を傍らで見つめながら、レオンハントは心地よい高揚感に満たされていた。
城の中で完璧な盾となる弟と、俺の隣に加わった最高の相棒。
この二人となら、この小さくひび割れたアルセイオンを、世界で最も偉大な国に変えられる。窓の外に広がる星空が、今夜はまるで、彼らの旅路を祝福するように輝いていた。




