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陽が昇っている間、エリオスは完璧な「新王」の仮面を脱ぐことを許されなかった。
父王の国葬を終えてからの日々は、怒涛のような雑務と謁見の連続だった。玉座の後ろに立つベニートも、以前のような軽口を言う暇さえなく、青白い顔で膨大な書状の仕分けに追われている。彼らの前で、エリオスは常に毅然とし、一分の隙もない論理で処理を行ってみせた。官僚たちも新王の冷徹なまでの有能さに、驚きと畏怖を隠せなかった。
しかし、夜の帳が降り、寝所に一人残されると、その仮面は音を立てて剥がれ落ちる。
静寂が、恐ろしいほどの重量を持ってエリオスの胸を圧迫した。
――私は本当に、この国を背負えていけるのだろうか。
目を閉じると、暗闇の向こうから底知れぬ不安と怯えが、冷たい泥のように這い上がってくる。眠れるはずがなかった。
頭を巡るのは、未だ片付かぬ懸案ばかりだ。先の内乱を裏で糸引いていた黒幕の影を、もっと徹底的に炙り出さねばならない。アルセイオンの政変を虎視眈々と狙う諸外国の動向も不穏だ。さらに、新王の若さに付け込もうとする国内の反乱分子、不平貴族たちへの先制の一手も必要だった。
どれ一つとして、間違えることは許されない。一手を遅らせることも許されない。その重圧が、彼の細い肩に容赦なくのしかかっていた。
何日目かの眠れぬ夜、疲労が極限に達したエリオスは、焼けるように熱い頭を冷やすため、自室から抜け出して静まり返った中庭へと向かった。
深夜の冷たい風が髪を揺らす。それだけで少し息がつける気がした。
だが、月明かりが照らす東屋の影に、不自然な人影があることに気づき、エリオスは息を呑んだ。
「よう。随分と遅い散歩だな、陛下」
聞き慣れた、そして今この瞬間、最も遠ざかっていたはずの快活な声が響いた。
夜風に吹かれながら、欄干に腰掛けて待っていたのは、レオンハントだった。
「兄上……? こんな時間に、どうしてここに」
「どうして、も何もあるか。ここに来ると思った」
レオンハントは欄干から軽やかに飛び降りると、足音も荒くエリオスへ近づき、その痛々しいほどにこわばった顔を覗き込んだ。
「弓の弦もたまに緩めないと切れてしまうぞ。お前のことだ、どうせ不安で眠れずにいるんだろう」
あまりにも見透かされた言葉に、エリオスは反論の言葉を失った。誰にも見せないようにしていた心の奥底の震えを、この兄は会えない期間があっても見抜いてしまう。
「私は……王として、やるべきことが山積しているのです。怯えている暇など……」
「誰も怯えるなとは言ってないさ」
レオンハントはそう言うと、エリオスの頭に無造作に大きな手を乗せ、乱暴に髪を撫で回した。子供の頃、無理な勉強をして知恵熱を出したときと、全く同じ温もりだった。
「それで、兄上。こんな夜更けに私を待ち伏せていたのは、ただの雑談のためではないでしょう」
「察しが良くて助かる」
レオンハントは悪びれず、しかしどこか晴れやかな顔で笑うと、足元に置いていた手提げランタンの遮光板を上げた。橙色の灯りが石卓の上を丸く照らし出す。彼は懐から一巻の羊皮紙を取り出した。父王の血で汚れた、あの世界地図だ。それを東屋の石卓の上に広げてみせる。
「俺は、外海へ出る。この国の外に広がる、本当の世界を見に行くことにした」
エリオスは、差し出された未知の地図に目を向けた。自国が点のように小さく描かれたその歪な調和に、知性が一瞬だけ危険信号を発する。
「外海……。兄上、航海技術は年々進歩し、確かに安全度は上がってきています。ですが、船旅は常に死と隣り合わせだ。嵐一つ、未知の病一つで、どれほど強靭な男であってもあっけなく海の藻屑となる。大陸の歴史には、決して船には乗らないと誓うことで血脈を保ってきた王族もいるほどです。それを……」
「分かっているさ。だが、だからこそ俺が行くんだ」
レオンハントの瞳には、夜の闇さえ跳ね返すような、真っ直ぐな光が灯っていた。
「今のアルセイオンは、閉じこもったままじゃいずれ滅びゆく。他国の優れた技術、新しい貿易路、そしてもしもの時の同盟相手……。それをこの手で掴み取ってくる必要がある。エリオス、お前が内側からこの国を固めてくれるなら、俺が外側からこの国の器を広げてやる。それが、俺の見つけた『俺の役割』だ」
その言葉を聞いた瞬間、エリオスの胸の奥に、不思議なほど爽快な風が吹き抜けた。
不安と責任に押し潰されそうになっていた自分の、まさにその外側で、兄はもっと大きな視点で世界を捉えようとしていた。
「やはり、兄上は辺境の城にこもって、退屈に錆びていくような御方ではありませんね」
エリオスは小さく、しかし確かな微笑みを浮かべた。
「統治院の老人たちの中には、王族の出奔だと騒ぎ立て、反対する者もいるでしょう。ですが、今の言葉を聞いて、確信しました。この計画は、我が国に絶対に必要なものです。……止めはしません」
エリオスは、広げられた地図の、アルセイオンから遥か東に位置する広大な大陸を指でなぞった。
「行くというなら、私からも条件があります。この、海の向こうにある大帝国の造船技術、それから南方の諸島群の鉱物資源の流通網……。彼らがどのような法と、どのような思想で動いているのか、その目で見て、すべて報告してください。完璧な国造りのための、最高の『材料』を期待していますよ」
「任せとけ。お前が頭を抱えるくらいの土産を、山ほど持ち帰ってやる」
レオンハントは、エリオスの細い肩を今度は力強く、快活に叩いた。
エリオスの恐怖は霧散していた。
頼もしい兄が外の世界を切り拓くというのなら、自分に守れぬ国などあるはずがない。
いつの間にか、夜明けの気配が東の空を薄紫色に染め始めている。
一人は玉座で国を編み、一人は荒海で未来を切り拓く。
それぞれが自らの進むべき道を見出した二人の兄弟の頭上に、新時代の、あまりにも清々しい朝の光が降り注ごうとしていた。




