4-10
レオンハントは重厚な石造りの回廊を一人歩いていた。
背後から、影のように付き従うベレンドールの気配がする。
レオンハントはベレンドールに自室へ来るよう目で促した。
「国家統治院はどうだ?」
「……ハワード卿とロドリック卿が、激しく火花を散らしたそうです」
レオンハントが歩みを止めずに問うと、ベレンドールは静かに答えた。
「お二方とも、殿下たちへの敬意と国家への忠誠が大きいゆえに。
摂政制の案も出ましたが、統治院長がこれを一蹴いたしました。
一艘の船に、船長は一人。それが、アルセイオンの選ぶ理でございます」
レオンハントは、テラスの欄干に手をかけ、視線を外へと向けた。
眼下には、潮風に洗われる王都の街並みが広がり、その先には紺碧の外海が横たわっている。
港からは、未知の航路へと挑む一艘の帆船が、白い飛沫を上げて滑り出していくのが見えた。
一方で、背後にそびえ立つ王城は、何百年もの間、変わらぬ重厚さで大地に根を張っている。
(あの船のように、俺は未知の荒波へこの国を連れ出したいのか。
それとも、この城のように、動かぬ安寧を民に約束したいのか)
もし、自分が王座に座るならば。
レオンハントは、自らの内に眠る「現場の王」としての血を意識した。
父のように法で縛るのではなく、民が自ら動きたくなるような、風通しの良い国を作りたい。
身分に縛られず、才ある者が海を渡り、新しい富を持ち帰る。
そんな、汗の匂いと活気に満ちた、血の通った統治。
だが、その想いのすぐ隣に、冷徹な理性を宿した弟の横顔が浮かぶ。
エリオスが王になれば、国は精密な時計細工のように、一分の狂いもなく回り始めるだろう。
それは、感情という不確かな要素を排除した、完璧な秩序だ。
「ベレンドール。……俺が王になれば、この国は少し騒がしくなるぞ。
父上が積み上げた静寂を、俺はぶち壊してしまうかもしれん」
「殿下。壊すこともまた、新たな歴史を築くための『盾』の役割にございます。
我ら臣下は、その破壊の後に何が芽吹くかを、ただ見つめるのみです」
レオンハントは、再び外海へと視線を戻した。
自由を愛する自分にとって、王冠はあまりに重く、窮屈な鉄枷に思える。
しかし、自身は第一王子。逃げることは許されない。
一週間後、女神の天秤がどちらに傾こうとも、自分はアルセイオンを背負う覚悟を固めねばならなかった。
エリオスは、書斎の窓辺で、銀灰色の瞳を羊皮紙の束に落としていた。
羽ペンの先が、規則正しい音を立てて滑っていく。
彼が書き連ねているのは、自らが王冠を戴くための策ではない。
兄レオンハントが即位した瞬間に発動されるべき、国家運営の「最適解」を記した補佐計画書であった。
兄が現場で民の心を束ね、自分がその後方で法と物流の歯車を噛み合わせる。
それは、彼にとって最も美しく、最も効率的な世界の設計図だった。
「……枢機卿、か」
ふと、エリオスは自らの口から漏れた言葉に、薄く苦笑を漏らした。
もし兄が玉座に座るなら、自分はその傍らで、女神の加護を象徴する枢機卿の座に就くことが最適だろう。
それは政治と信仰の境界に立ち、論理の剣を振るう、自分に最もふさわしい「居場所」に思えた。
だが、その安堵感の正体を、彼は自らの冷徹な理性で暴いてしまう。
枢機卿として兄を支える未来を望むのは、それが国家にとって最善だからか。
それとも、王という「全責任を負う孤独な頂点」から、逃げ出したいだけではないのか。
(私は、卑怯なのだろうな)
エリオスは、ペンを置き、自らの指先を見つめた。
王の外套は、一国の民すべての命の重さを吸い込み、鉛のように重い。
それに比べれば、知恵と祈りを司る枢機卿の法衣は、なんと軽やかなことか。
法衣の軽さは、責任の軽さだ。
決定を下す王の苦悩を、隣で「正論」として補佐する立場は、あまりに居心地が良い。
自分が王座を望まず、兄の補佐に心血を注ぐのは、高潔な自己犠牲などではなく、単なる「重責からの逃避」ではないのか。
窓の外では、夕闇が王都の喧騒を飲み込もうとしていた。
いくら論理の糸で逃げ道を作ろうとも、運命の女神は、彼が選ぼうとしている「軽い法衣」を許さない予感もあった。
「……兄上。私は、最後まで計算を間違え続けるのかもしれません」
独り言は、高く冷たい天井に吸い込まれて消えた。
この後、彼が纏うことになるのは、軽やかな法衣か、それともすべてを押し潰すほどに重い王の外套か。
エリオスは、もう片方の計画よりも多い補佐計画書の上に、再びペンを走らせ始めた。




