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アルセイオンの第一港は、かつてない活気に包まれていた。
海風に乗って、荷揚げ作業の威勢の良い掛け声が響き渡る。
その喧騒の真ん中で、一際大きな声を張り上げている男がいた。
「おい、そこは滑りやすい! 荷を降ろす前に足場を固めろ!」
日に焼けた肌に、砂埃を被った実用的な革の胸当て。
第一王子レオンハントは、自ら大掛かりな滑車を回し、大型の木箱を引き揚げていた。
視察旅行から帰還して二年。
彼は「王宮でふんぞり返るのは性に合わん」と、港湾整備の指揮を買って出た。
現場の労働者たちと同じ泥にまみれ、同じ汗を流すのが彼の流儀だった。
「レオンハント様、少しは休憩してください。他のものの仕事がなくなりますよ」
付き人のベニートが、苦笑しながら水袋を差し出す。
レオンハントはそれを一気に飲み干すと、白い歯を見せて豪快に笑った。
「オライア連合の港はこれの倍は機能的だったぞ。負けていられるか」
「全く、殿下の向上心には頭が下がります。……あ、エリオス様がお見えですよ」
ベニートが指差す先、石畳の通路を、涼やかな風を纏うように歩いてくる青年がいた。
第二王子エリオス。
兄とは対照的に、一点の汚れもない官服を完璧に着こなしている。
その足取りは静かだが、周囲の労働者たちが思わず背筋を伸ばすような、独特の威厳があった。
「兄上。相変わらず、王族とは思えない格好ですね」
エリオスは、近づいてきたレオンハントの汚れを見て、わずかに眉を寄せた。
だが、その瞳の奥には、変わらぬ兄への親愛が滲んでいる。
「よう、エリオス。仕事の合間の偵察か?」
「いえ、今日は兄上に相談があって来ました。……少し、場所を変えましょう」
エリオスの声が、わずかに低くなる。
その微かな変化を、レオンハントは見逃さなかった。
彼はすぐに真剣な表情を浮かべ、近くの管理小屋へと弟を促した。
潮騒が遠くに聞こえる静かな室内で、エリオスは数枚の報告書を広げた。
それは表向きの経済指標とは別に、彼が独自に集計した「父王の決裁記録」だった。
「兄上。……父上の様子が、おかしいのです」
エリオスの言葉に、レオンハントは無言で頷いた。
「やはり、お前も気づいていたか。昨日の御前会議でも、少し会話の焦点がズレていたな」
「ええ。最初はただの疲れかと思っていました。ですが、法典の解釈を間違えるなど、以前の父上なら有り得ないミスが続いています」
エリオスは、自らの震える指先を隠すように、強く拳を握りしめた。
最強の「不落の盾」であった父が、少しずつ崩れていく。
その事実は、理知的なエリオスにとって、世界の崩壊にも等しい恐怖だった。
「私は……父上の威光を損なわないよう、密かに決裁の修正を行っています。ですが、これでは長くは持ちません。隣国や国内の不満分子が気づけば、火種になりかねない」
レオンハントは、弟の肩に太く、温かい手を置いた。
「一人で抱え込みすぎだ、エリオス。人が老いるのは、自然の摂理だ」
「ですが、今この国で父上の権威が失われれば……」
「わかっている。だから、これからは二人で考えよう。お前が嘘を塗り固めるなら、俺はその嘘を突き通すための力になる」
レオンハントの言葉は、単純だが強力な「解答」だった。
「俺が現場で民の不満を抑える。お前は王宮で、父上の『頭脳』になりきれ。……幸い、お前には女神の祝福があるんだろう? 奇跡の王子なら、それくらい朝飯前だ」
兄の冗談めかした励ましに、エリオスの口元にようやく笑みが戻った。
女神の祝福を言われるのは好きではないが、不思議と兄から言われるのは許せてしまう。
「……無茶を言いますね。ですが、兄上がそう言うのなら、もろもろ考えてみますよ」
二人の若き光が、大きな盾を支えるアルセイオンは曇らないようにも思えた。
しかし、その安寧を壊すかのように、小屋の扉が激しく叩かれた。
「報告いたします! 東の港付近にて、改易された旧貴族の残党が蜂起したとの報せです!」
その叫び声が、平穏な港に冷たい戦慄を走らせた。
父王の衰えという影が落ちる中、アルセイオンに新たな嵐が吹き荒れようとしていた。




