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南方の内乱が鎮圧されてから数週間、王都は未だにその熱狂の余韻の中にあった。
戦後処理は厳格に行われ、戦死した辺境伯ベラルド・グスマンの広大な領地は、王家への忠誠を貫いた別の有力貴族へ、新たな褒章として一括で与えられることが決定した。
これにより南方の権力図は一新され、王家による中央集権化への道は、皮肉にも反乱の失敗によって大きく加速することとなったのである。
しかし、市井の人々が最も熱心に語り合うのは、そうした政治的な数字の話ではなかった。
「エリオス殿下が戦地に赴かれた途端、天の風が裏返り、王軍に勝利をもたらした」
下町の酒場から王宮の回廊に至るまで、その噂は日を追うごとに大きな尾ひれを伴って広がっていった。
「千里眼の王子」「風を操る奇跡のオッドアイ」――民衆が創り上げる英雄譚は、すでにエリオス本人の預かり知らぬところで、一歩ずつ神格化の階段を登りつつあった。
王宮の執務室で、エリオスは山積みにされた戦後処理の書類から目を離し、傍らに立つベレンドールへ静かに語りかけた。
「……滑稽な話だな、ベレンドール。
ただの気圧の変動を、人はなぜそこまで熱狂的な物語に仕立て上げたがるのか」
エリオスは自嘲気味に笑い、冷めた紅茶に視線を落とした。
「今回の戦で、私は死の恐怖を現実のものとして知った。
もしあの時、風が変わらなければ、私はただの無能な総司令官として、南方の土に還っていたはずだ。
……だとしても、この国にはレオンハント兄上がいる。
王家の血脈も、国の秩序も、私一人がいなくなったところで何一つ揺らぎはしなかっただろう」
その言葉は、冷徹な客観性を装ってはいたが、どこか深い孤独の影を孕んでいた。
だが、その静かな独白を、ベレンドールは毅然とした口調で遮った。
「殿下。それは違います」
老侍従の目は、いつになく真剣だった。
「民が求めているのは、単なる武勇の象徴だけではありません。
あの戦場で、恐怖に震えながらも前に進まれたあなたの姿が、どれほどの兵を救ったか。
あなたが欠ければ、アルセイオンの秩序は片翼を失うも同然。
ご自身をそのように過小評価なさることは、お控えいただきたく存じます」
ベレンドールの言葉の重みに、エリオスは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻り、「相変わらず君は過保護だな」と小さく肩をすくめた。
「ところで、兄上の動向は」
エリオスが話題を切り替えると、ベレンドールは表情を和らげ、懐から一通の報告書を取り出した。
「は。レオンハント殿下の使節団ですが、外交交渉は極めて順調とのこと。
このまま航海に遅れが出なければ、来月には王都へ帰国される予定でございます」
「来月か……。思ったよりも早いな」
エリオスは窓の外、穏やかに晴れ渡った王都の空を見つめた。
兄が戻るころには、この過剰な「奇跡の王子」という熱狂も、太陽の光に消される霧のように収まっているはずだ。
(私は本当に、女神の加護などというものを宿しているのだろうか)
ふと、戦場で反転したあの暴風の冷たさが、左の銀灰色の瞳の奥に蘇る。
もしあれが偶然ではなく、何らかの意志によるものだとしたら――。
エリオスはすぐに首を振り、心の中に湧き出た非科学的な疑問を、強引に思考の底へと押し込めた。
「……いや。それは今の私が考えるべきことではないな」
彼に必要なのは、実体のない神話ではなく、目の前にある確かな現実だ。
エリオスは再び羽ペンを執り、内乱が残した無数の課題を片付けるべく、無機質な数字の羅列へとその意識を没頭させていった。




