3-10
風は、もはや荒れ狂う暴君ではなく、王軍の背を優しく、しかし力強く押し出す従順な僕へと変貌していた。
北から南へと吹き抜けるその冷気は、熱に浮かされていた辺境伯軍の視界を奪い、彼らが誇った南方の地の利を根底から覆したのである。
「放てっ! 矢を絶やすな!」
カイル将軍の咆哮が、風に乗って戦場全域へと染み渡る。
王軍の弓兵たちが一斉に放った矢の雨は、追い風に乗ってその射程を倍増させ、防備の薄い敵陣の後方にまで壊滅的な打撃を与えた。
盾を構えることすらままならぬ強風の中、辺境伯軍の陣形は、まるで乾いた砂の城が波にさらわれるかのように、音を立てて崩壊していった。
エリオスは高台の上から、その光景をただ静かに見つめていた。
手にした黄金の双頭鷲の旗は、激しい風に煽られ、布の鳴る音が絶え間なく鼓膜を叩く。
(これほどまでに、人の命は脆いものか)
彼の瞳には、勝利の歓喜ではなく、むしろ冷徹な観察者の視線が宿っていた。
一国の秩序を揺るがした内乱の終焉が、気圧の変動という自然の悪戯によって決定づけられる。
その不条理な現実は、理を重んじるエリオスの心に、奇妙な虚脱感をもたらしていた。
やがて、戦場の喧騒の中に、一筋の鋭い角笛の音が混じった。
それは退却の合図ではなく、勝利を確信した全軍への終結を告げる響きだった。
一騎の伝令が、血と泥にまみれた馬を飛ばし、エリオスの立つ高台の麓へと駆け寄ってくる。
「報告! 辺境伯ベラルド・グスマン、王軍重装騎兵の突撃を受け、戦死!
残存部隊は武装を解除し、次々と降伏しております!」
その声が響き渡った瞬間、戦場は一瞬の静寂の後、地を揺るがすような勝鬨に包まれた。
古き伝統を護らんとし、王法に抗った老将は、自らが愛した南方の土の上で、その波乱に満ちた生涯を閉じたのである。
「……終わったのですね、エリオス様」
青白い顔のコレットが、安堵のあまりその場にへたり込んだ。
エリオスは弱まっていく風を浴びながら、ただ遠く、煙の上がる戦場を眺めていた。
数時間後。
仮設の本陣には、カイル将軍をはじめとする諸将が集まっていた。
カイルは兜を脱ぎ、額の汗を乱暴に拭うと、エリオスの前で深々と膝を突いた。
その巨躯からは、先ほどまでの荒々しさは消え、純粋な敬畏の念が溢れ出ている。
「殿下。……不明を恥じ入るばかりでございます。
あの時、殿下が高台に立ち、旗を掲げられたことが、我が軍の運命を救いました。
兵たちは皆、殿下の瞳に宿る女神の加護が、南風を押し返したのだと信じて疑いませぬ」
カイルの言葉は、決して阿諛追従の類ではなかった。
極限の状態に置かれた人間は、理屈を超えた象徴を必要とする。
エリオスという存在が、絶望していた兵たちの魂を繋ぎ止めた事実は、動かしようのない真実だった。
「顔を上げてください、カイル将軍。
私はただ、風の向きを確かめるために高い場所へ登ったに過ぎません」
エリオスは穏やかに、しかし毅然とした態度で言葉を返した。
「勝利を掴んだのは、逆風の中でも盾を捨てなかった兵たちの忍耐と、あなたの適切な指揮によるものです。気象の偶然を私の功績にすり替えるのは、あまりに公平性を欠くというものでしょう」
「殿下はどこまでも謙虚であられる……」
カイルは感動に震える声でそう言ったが、エリオスは心の中で小さく溜息をついた。
(違うのだ、将軍。私は事象と結果に『奇跡』という名の不純物を混ぜたくないだけなのですよ)
だが、エリオスがどれほど言葉を尽くして否定しようとも、この日の戦いは伝説として語り継がれていくことになるだろう。
「奇跡の王子」――その望まぬ称号が、より一層重く彼の肩にのしかかるのを、エリオスは予感していた。
本陣の外では、夕闇が迫る中、兵たちが焚き火を囲み、手を取り合って生還を喜んでいた。
コレットが運んできた簡素な食事を口にしながら、エリオスはふと、リチャード神父の言葉を思い出していた。
「贈り物として活用すれば良い」――かつてそう言われた言葉が、今、呪いのように胸を打つ。
「エリオス様、少しは喜んでもバチは当たらないと思いますよ?
これでやっと、王都に帰れるんですから」
コレットがいつものように悪戯っぽく笑いかけると、エリオスはようやく、わずかな微笑を浮かべた。
「そうだな。王都に帰れば、またハワード殿と後始末の仕事が待っている。
戦場よりは、そちらの方が私には似合っているよ」
内乱は鎮圧された。
アルセイオンの秩序は、多大な犠牲を払いながらも、偶然がもたらした「嵐」の力によって保たれた。
エリオスは夜の帳が降りた空を仰ぎ、しばらく会っていない兄の姿を想った。
(兄上。嵐は去りました。……ですが、この風が残した火種を、私はどう扱うべきなのでしょうか)
勝利の歓喜が渦巻く戦場で、エリオス・アルセイオンだけは、静かな孤独の中にいた。




