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南方の湿り気を帯びた熱風が、アルセイオン王軍の陣地を容赦なく打ち据えていた。
クロム峠の南側に陣を敷くカイル将軍の第三師団は、まさに瓦解の縁に立たされている。
「報告! 左翼崩壊! 辺境伯の私兵集団が、砂塵に紛れて肉薄しております!」
泥と汗にまみれた伝令の叫びが、軍議所に飛び込む。
カイル将軍は机を叩き、悔しげに奥歯を噛みしめた。
「この向かい風……! 弓兵の矢が押し戻され、敵の咆哮ばかりが大きく聞こえる!」
南から北へと吹き抜ける強烈な風は、辺境伯軍の背を押し、王軍の目を開けることすら拒んでいた。
このままでは、地形と天候にも翻弄されて全滅を待つばかりとなる。
その絶望的な静寂を破ったのは、軍装を整え、凛とした佇まいで現れたエリオスだった。
「カイル将軍、全軍に告げよ。……王家の『黄金の双頭鷲』の旗を、あの高台へ掲げるのだ」
エリオスが指し示したのは、戦場を一望できる切り立った岩場だった。
そこは敵の弓射が届きかねない危険な場所であり、同時に全兵士の視線が集まる頂でもある。
「殿下、あそこはあまりに無防備です! 狙ってくださいと言っているようなものだ!」
カイルが制止するが、エリオスはその銀灰色の瞳を、荒れ狂う南の空へと向けた。
「構わない。……兵たちは今、折れない芯を求めている。
私が、そして王の旗がそこにあることが、彼らにとっての光のひとつになる」
コレットが震える手で重厚な旗の柄を握りしめた。
エリオスは一段ずつ、急峻な岩場を登っていく。
足元がすくむような高所、吹き荒れる逆風の中、彼は自らの恐怖を深い知性の底に沈めた。
「掲げろ」
エリオスの号令とともに、巨大な王旗が南の空に翻った。
眼下の兵たちが、逆風の中で目を細め、その黄金の輝きを仰ぎ見る。
(父上、見ていてください。……私はここで、王家の誇りを賭けてみせます)
その時だった。
不自然なほどの静寂が、一瞬だけ戦場を支配した。
熱を帯びた南風がぴたりと止み、大気が、まるで巨大な獣が息を吸い込むように収縮する。
「……これは」
エリオスが呟いた直後、天が割れたような轟音が響き渡った。
風向きが、唐突に、そして暴力的なまでの威力で反転したのだ。
今度は北から南へと、冷たく鋭い暴風が吹き荒れ始めた。
それはエリオスの背を強く押し、逆に辺境伯軍の顔面に容赦なく砂塵を叩きつけた。
あまりの風圧に、進軍していた敵兵たちが次々とよろめき、陣形が大きく乱れる。
「風が……風が逆転したぞ! 王家の旗が、風を呼び戻したんだ!」
誰かが叫んだその声は、瞬く間に全軍へと波及していった。
エリオスの瞳が、反転した暴風の中で輝いている。
カイル将軍はこの好機を逃さなかった。
彼は血走った眼を向け、腰の長剣を一気に引き抜いた。
「全軍、旗に続け! 風は我らにある!
盾を並べろ! 辺境伯の傲慢を、この嵐とともに押し流せ!」
「おおおぉぉーーッ!!」
地を揺るがすような雄叫びが、王軍の底から湧き上がった。
先ほどまでの絶望は消え去り、兵たちの瞳には狂信的なまでの士気が宿っている。
追い風を得た弓兵たちが一斉に弦を放つと、矢は吸い込まれるように敵陣の深部へと突き刺さった。
高台の上で、エリオスは激しくなびく旗の横で、その光景を静かに見守っていた。
(これは計算ではない。ただの気圧の変化と、偶然の産物に過ぎない。
……だが、戦況は好転した)
コレットは強風に飛ばされそうになりながらも、必死に旗を支え、エリオスの背中を見つめていた。
その背中は、かつての蔵書室での華奢な印象とは異なり、一国の命運を背負う王族の強靭さを帯びている。
「カイル将軍が攻勢に出た。行こう、コレット。
勝利の確定を、この目で最後まで見届ける義務が私にはある」
エリオスは反転した暴風を全身に受けながら、眼下で崩れ去っていく辺境伯軍の列を冷徹に、しかしどこか晴れやかな心持ちで見下ろした。




