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3-8

 出発を目前に控えた軍議室で、エリオスは最新の戦況報告書を突きつけられていた。

 報告を読み上げる兵士も微かに震えている。

「殿下、芳しくありません。カイル将軍の第三師団は、補給路を断たれ孤立しつつあります」


 ハワードが地図上に置いた赤い駒は、南方辺境伯の青い駒に包囲される寸前だった。

「ベラルド卿は、自領の険しい山道を熟知しています。

 王軍の重装歩兵は泥濘に足を取られ、機動力を完全に奪われている。

 さらに、周辺の農村が食糧の徴収を拒み、王軍を兵糧攻めに追い込んでいます」


 数的不利に加え、地の利と人心までもが敵に回っている。

「……名目上の総司令官という肩書きが、これほど重い負債になるとはね」

 エリオスは淡々と応じたが、その視線は地図の空白地帯を厳しく射抜いていた。


 王都を出発した軍列は、重苦しい沈黙を連れて北へと進む。

 馬車に揺られるエリオスの手元には、依然として兄からの手紙は届いていない。

 窓の外を流れる景色が、肥沃な平原から荒々しい岩肌の目立つ南方へと変わっていく。


(私は、間違った選択をしたのではないか)

 不意に、底冷えのするような不安がエリオスの胸をよぎった。

 蔵書室で数式を解くように国を差配するのと、現実に命が削られる戦場は違う。

 自分の向かう戦場で、数百、数千の兵の命を散らす重みに、胃の腑が焼ける。


「エリオス様、顔色が真っ白ですよ。

 無理もありませんが、少しは温かいスープでも召し上がってください」

 コレットが心配そうに、揺れる車内で木杯を差し出してきた。


「コレット。……私は、兄上の代わりにはなれない。

 彼なら、この不安を笑い飛ばして兵たちを鼓舞しただろう。

 だが私にあるのは、最悪の事態を予測し続ける冷たい思考だけだ」


「殿下、それは違います。

 兵たちが求めているのは、根拠のない勇気だけではありません。

 絶望の淵でも、次に進むべき正確な道筋を示してくれる知恵なのです」

 ベレンドールが馬車の外から、並走する馬の上で静かに、しかし力強く言った。


 エリオスは木杯を受け取り、熱い液体を喉に流し込んだ。

 不安を消し去ることはできないが、それを制御下に置くことはできる。

 彼は再び紙を広げ、カイル将軍が陥っている「泥濘の迷宮」からの脱出策を練り始めた。


 行軍三日目。北方の山脈がその巨大な輪郭を顕わにした頃。

 前線から駆け戻ってきた伝令が、エリオスの馬車を急停止させた。

「報告! カイル将軍、ベラルド卿の伏兵により後退!

 現在、クロム峠にて辛うじて防衛線を維持していますが、限界です!」


 伝令の顔は返り血と煤にまみれ、その瞳には隠しようのない恐怖が宿っていた。

「さらに、北方から吹きつける凄まじい向かい風により、弓兵の射程が激減。

 敵の突撃を防ぎきれず、戦線は崩壊の危機にあります!」


 エリオスは、咆哮のような風の音を聞いていた。

(戦争を知らないものに、命令を下す資格なし、か)

 脳裏に浮かぶのは、凄惨な戦死を遂げた古の王族たちの記録だ。


 理性的であろうとする自分と、心臓の鼓動を早める本能が、体内で激しく衝突している。

 カイル将軍の劣勢、補給の途絶、そしてこの王軍を拒絶するような凄まじい向かい風。

 どれほど算術を積み重ねても、一振りの剣、一筋の矢がすべてを無に帰す。


「エリオス様、お手が震えています。……やはり、一度後方に下がるべきです」

 コレットが主人の指先に触れ、悲痛な声を上げた。

 エリオスは自分の左手を見つめ、指先が微かに、しかし確かに震えているのを認めた。


「……怖いのかと問われれば、否定はしないよ、コレット。

 私は兄上のように、戦場を庭のように駆けることはできないからね。

 だが、父上は私を信じて、この王家の旗を託してくださった」


 エリオスは震える手を強く握りしめ、深く、長く息を吐き出した。

 (期待に応えたい、というのではない。

 この私が、王家の名を汚す『計算違い』になることだけは、断じて許されないのだ)


「進もう、コレット。それから、カイル将軍の陣へ伝令を。

 『名目上の総司令官』が、死ぬ覚悟を持って到着したと伝えてくれ。

 王の代理が背を向ければ、それこそが真の敗北だ」


「承知しました。援軍と合わせて、少しでも好転の材料になるといいけれど」

 コレットは応えながら、第二王子の冷徹で強固な意志を見た。


 エリオスは馬を降り、風に向かって一歩を踏み出した。

 冷気が肺の奥まで突き刺さり、恐怖で足がすくみそうになる。

 だが、彼は両方の瞳を見開き、荒れ狂う南方の空を睨み据えた。


 戦地まで、あとわずか数里。

 劣勢を伝える報せが絶えぬ中、エリオスを乗せた軍列は、

 死の予感と王族の矜持をその身に纏い、荒れ狂う動乱の最前線へと足を踏み入れた。



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