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数日後、ハワードの懐刀と呼ばれる若き内政官補佐が、泥にまみれた旅装で王宮へと帰還した。
彼は商人に身をやつし、カスティーリャ領の山道を実際に荷馬車で通り抜けてきたのだ。
報告を受ける執務室には、エリオスとハワード、そして影のように控えるコレットの姿があった。
「……殿下、ハワード様。報告いたします。カスティーリャ伯の私兵どもは、もはや野盗と区別がつきませぬ」
補佐官の声は、疲労と憤りに震えていた。
彼が差し出したのは、ひそかに記録された偽の領収書と、通行を許可された証となる奇妙な刻印入りの木札だった。
「公式な関所のわずか数里手前、森の影に隠れた急造の番所がございました。そこを通らねば、荷を検めると称して数時間は足止めを食らいます。……しかし、この木札を銀貨三枚で買えば、検閲なしで裏道を案内されるのです」
ハワードはその木札を手に取り、苦虫を噛み潰したような顔で凝視した。
「王の印ではなく、カスティーリャ家の双頭鷲の紋章か。……不敬極まる。ハワード殿、この木札が裏道でどれほど流通しているか、補佐官の報告から推計できますか?」
エリオスは、感情を排した無機質な声で問いかけた。
ハワードは即座に手元の計算用紙に数字を叩き込み、鋭い眼光を走らせる。
「月に少なくとも金貨四百枚。年間で見れば、中規模な都市の年間予算に匹敵する額が、王宮を素通りして伯爵の私庫に消えている計算になります。殿下、これはもはや単なる汚職ではございません。独自の徴税権を行使する、実質的な反逆でございます」
ハワードの言葉には、長年アルセイオンの法秩序を守ってきた自負と、それを踏みにじられた激しい怒りが籠もっていた。
「同感だ、ハワード殿。……だが、伯爵は一筋縄ではいかない。今、軍を動かせば、彼は『領内の野盗対策のために一時的に徴収した寄付金だ』と言い逃れるだろう。私兵を解散させ、証拠の番所を焼き払えば、我々に残るのは推測の域を出ない帳簿だけだ」
エリオスは銀灰色の瞳を細め、チェス盤の先を読むように思考を巡らせた。
「では、いかにして逃げ道を塞ぎますか?」
ハワードの問いに対し、エリオスは唇の端に、薄く、しかし剃刀のように鋭い笑みを浮かべた。
「彼が『王家への忠誠』を盾にするなら、その盾で彼を押し潰せばいい。……ハワード殿、伯爵には『第一王子らの視察成功を祝うための、追加の献納金』の相談を持ちかけてください」
「献納金……、でございますか?」
「ええ。伯爵家は功臣ですから、他の貴族の模範となる額を期待している、と。……それも、例の『山道の通行実態』を詳細に把握しているという空気を、それとなく漂わせながらね」
エリオスの作戦は、心理的な包囲網だった。
もし伯爵が潔白を主張して少額しか出さなければ、エリオスは即座に「公式な会計監査」を送り込み、隠し資産を暴く。
逆に、追及を恐れて多額の献納金を出せば、それは「法外な副収入」があることを自ら証明したことになる。
どちらを選んでも、伯爵は自らの欲が作り出した迷路から抜け出せなくなるのだ。
「毒を以て毒を制す、というわけですな。承知いたしました。伯爵がどちらの毒を呑むか、私が特等席で見届けてまいりましょう」
ハワードは深々と一礼し、老練な狩人の顔で部屋を後にした。
その背中を見送りながら、エリオスは窓辺に寄り、暮れゆく空を見つめた。
「エリオス様。少し、残酷ではありませんか?」
背後からコレットが、茶化すような、しかしどこか心配そうな声をかけた。
「あの伯爵、お二人が小さい頃、よく剣術を教えてくださっていた方でしょう?」
「だからこそだよ、コレット。そうした繋がりがあるにも関わらず、王国の根幹を腐らせる者は、将来の国のためにも摘み取っておかねばならない」
エリオスの声には、迷いも未練もなかった。
彼は、家族が愛するこの国を、完璧な数式のように保ちたかった。
数週間後。
王宮に、カスティーリャ伯爵の処断を告げる公文書が届けられた。
伯爵は、ハワードが仕掛けた「献納金」の罠に見事にはまり、焦りから私兵を動かして口封じを図ろうとしたところを、事前に配置されていた王室禁軍によって捕らえられた。
結果、カスティーリャ伯爵家は取り潰しこそ免れたものの、領地の大半を没収され、問題の街道は王領へと組み込まれた。
私兵は解体され、物流の血栓は、文字通り電光石火の速さで取り除かれたのである。
「……終わりましたね、エリオス様」
蔵書室で報告書を閉じたコレットが、静かに言った。
エリオスは、兄からまだ届かぬ手紙の代わりに、没収した領地の再分配案を眺めていた。
「ああ。これであちらの物価も安定するだろう。ハワード殿には、余った予算で街道の整備を急ぐよう伝えてくれ」
「了解しました」
エリオスはコレットが出ていくのを確認して、左の銀灰色の瞳をそっと閉じた。
一人の老功臣を破滅させたという事実は、彼の心に何の感慨ももたらさなかった。
ただ、整えられた秩序の美しさだけが、今の彼を支える唯一の報酬だった。
夜の帳が降りる頃、彼はふと、遠い海の上にいるはずの兄を想った。
そろそろ、オライア連合国での視察が始まる頃だろうか。
彼は再び羽ペンを執り、月光の下で、自身の未来を考え始めた。




