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3-2

 書架の陰から、規則正しい足音が近づいてきた。

 現れたのは、初老の落ち着きを纏った侍従長ベレンドールである。

 彼はエリオスの机の端に、新たな報告書の束を音もなく置いた。


「エリオス様、夜分に失礼いたします。財務卿からの緊急連絡事項と、明日の公式行事の次第でございます」


 エリオスは羽ペンを置き、軽く首を振って凝りをほぐした。


「いつも助かるよ、ベレンドール。兄上が発ってからというもの、書類の山が二倍になった気がするな」


 傍らで控えていたコレットが、くすりと小さく笑った。


「レオンハント様がいらっしゃれば、半分は『俺には難しすぎる、エリオスに任せる!』と言って放り投げられたでしょうからね」

「全くだ。彼は自分の強みを理解しすぎている。おかげで私の計算能力が日々、限界を更新しているよ」


 エリオスはそう言いながら、コレットが注ぎ足した二杯目のハーブティーに口をつけた。

 話題は自然と、船出した兄と、それに同行している侍従ベニートのことへ移る。


「ベニートは胃を痛めていないかな?

 彼は兄上の無鉄砲さに振り回されて、船酔いどころではないだろう」


 ベレンドールが薄く笑みを浮かべ、頷いた。


「ベニートは、出発前日に慌ただしさと不安を嘆いておりました」

「まだカスティアーノ公国には到着してないかな」

「はい。順調にいけば数日後には、最初の寄港地から連絡が入るはずでございます。今はまだ、海の上でしょう」


 エリオスは、窓の外の暗い海に目をやった。

 兄の不在は、国にとってひとつの精神的空白を生む。

 だが、その空白を埋めるのは王族の義務であり、知性を持つ者の役割だ。


「ベニートも苦労しているな。帰ってきたら、彼には特別な休暇を与えてやってくれ、ベレンドール。兄上の相手は、戦場より体力を削られる」


「承知いたしました。エリオス様の優しさに、彼も涙を流して喜ぶことでしょう」


 侍従長の言葉には、皮肉ではない心からの敬愛が混じっていた。

 エリオスはそれを聞き流し、手元の書類に視線を戻した。


「さて、仕事の話に戻ろう。ベレンドール、最近、北方の商人たちの動きが妙に慌ただしいと聞く。特産品の買い占めや、情報の横流しがないか、詳しく調べておいてほしい」


「他国の介入を疑っておいでですか?」


「確証はない。だが、特に大きな出来事がないこの時期に、不自然な価格変動が起きるのは解せない。嵐が来る前に、屋根の綻びを見つけておくのが私の性分でね」


 コレットが手際よく、読み終えた古い資料を棚へ戻していく。

 日常の穏やかな会話の中に、鋭い刃のような洞察が混じる。

 それが、この蔵書室におけるエリオスの「戦い」であった。


「コレット、君も少し休むといい。最近遅いだろう?」


 エリオスはそう告げると、短く息を吐き再び書類の森へと潜り込んでいった。



 主の執務室を辞した二人の足音が、夜の静まり返った廊下に規則正しく響く。

 ベレンドールは背筋を伸ばし、一歩一歩が儀仗兵のように正確だった。

 一方で、その斜め後ろを歩くコレットは、主の前での緊張から解放されたのか、どこか軽やかな足取りだ。


「エリオス様から、教会の司教様と面会したいと話がありました」

「司教様との面会、か。エリオス様も、また面倒な盤面を動かそうとしておいでだ」

 

 ベレンドールが独り言のように呟いた。

 その声には、主人の聡明さを誇らしく思う響きと、それゆえの危うさを案じる親心が同居している。


「コレット、お前はエリオス様から、どのような指示を受けている」

「司教様との面会は、表向きはレオンハント様の航海安全祈願。中身は……推測するに、教会とのコネクションを深めることですかね」

 

 コレットは肩をすくめ、悪戯っぽく笑った。


「あの方は、祈りの言葉よりも、教区ごとの穀物価格の推移の方を信じていらっしゃいますから」

「言葉を慎め。司教様は、この国の精神的支柱の一端を担うお方だ。お前のような若造が、揶揄するものではない」

 

 ベレンドールの叱責は短く、鋭かった。

 だが、その眼差しには、奔放なコレットをどこか許容するような柔らかさがある。

 彼はコレットの襟元がわずかに乱れているのに気づくと、歩きながら無言でそれを直した。


「すいません、ベレンドールさん。でも、エリオス様のあの『理詰めの祈り』を見ていると、ついね。神様も計算式に組み込まれて、たまったもんじゃないですよ」


「ふん。神とて、エリオス様のような熱心な『利用者』には、特別な加護を与えたくなるというものだ。港でのあの光……お前も見ていたろう」


 ベレンドールは立ち止まり、窓から見える王都の灯りに目を細めた。

 雲間から差した一筋の光を、民衆は「奇跡」と呼び始めている。

 それは主が最も嫌う不確定要素だが、同時にこの国を統べる強力な武器にもなり得る。


「ベレンドールさん。エリオス様は、どうして王になりたくないんですかね」

 

 コレットの不意の問いに、老侍従長は沈黙で応えた。

 重すぎる冠よりも、静かな書庫と確かな秩序を愛する青年。

 その願いが、民衆の熱狂という名の嵐に飲み込まれようとしているのを、彼らは肌で感じていた。


「我らの仕事は、主の望みに応え、歩みを支援して、心身ともにお守りすることだ」

 

 ベレンドールは再び歩き出し、背後のコレットに念を押した。


「明日の面会、司教様への献上品の準備を怠るな。それと……お前のその、締まりのない笑みも少しは引き締めろ」


「了解です、厳しい侍従長殿! ちゃんと『敬虔な王子の影』を演じてみせますよ」


 コレットは軽やかに応じ、先を行くベレンドールの背中を追った。



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