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アルセイオンの初夏の陽光は、海面に反射して眩しく跳ねていた。
第一港の石畳の上、第二王子エリオスは、国王夫妻の数歩後ろで静かに佇んでいた。
視線の先には、隣国への視察団を乗せ、ゆっくりと岸を離れていく大型の帆船がある。
甲板で大きく手を振る兄、レオンハントの姿は、遠目にもその快活さが伝わってきた。
「まったく、兄上はあのような場所が本当によく似合う」
エリオスは隣に控える侍従のコレットに、ごく小さな声で話しかけた。
民衆の歓声が、潮風に乗ってエリオスの耳を打つ。
兄の「泥臭いまでの誠実さ」は、時に非効率に見えるが、こうして人心を束ねる力がある。
それは、計算や論理だけでは決して生み出せない、王に不可欠な資質だと彼は認めていた。
「コレット、戻ろう。父上も母上も、お疲れのようだ」
「かしこまりました。エリオス様、お召し替えの準備を整えておきますね」
「ああ、頼むよ。いつも済まないね」
エリオスは、自分に向けられるコレットの労いに対し、穏やかな微笑を返した。
彼は冷徹な合理主義者ではあったが、身近な者への礼節を欠くほど傲慢ではない。
むしろ、過剰な自尊心は判断を狂わせるノイズだと考えていた。
王宮へ戻ったエリオスは、真っ直ぐに私設蔵書室へと向かった。
兄の不在中、王の補佐という重責が彼にのしかかる。
(私には、あの玉座は重すぎる。王とは、国という巨大な感情の器だ)
エリオスは書棚から、諸国の王族史と継承に関する法典を抜き出した。
彼が求めているのは、野心を満たすための椅子ではない。
兄が王として輝き、自分がその影でいられる「安全な座席」だ。
(第一王子の兄上が王座に就くとして、自分はその後どうなるのか。
地方の領主になるか、教会の権力を考えると教会の要職……
枢機卿や司教の座に収まる例もあるのか)
聖職者の身分であれば、王位継承権を放棄しつつ、国の中枢に居座ることができる。
実務と情報を握り、論理的に国を差配する。
それこそが、兄にとっても自分にとっても、そしてこの国にとっての「最善」と思えた。
エリオスは羽ペンを走らせ、自らの思考を地図化していく。
「教会の要職……枢機卿、あるいは大司教か」
その言葉を口の中で転がしてみると、不思議なほど滑らかに馴染んだ。
アルセイオンにおける教会は、信仰の場であると同時に、法と教育を司る巨大な行政装置でもある。
もし自分がその頂に近い場所を占めれば、兄レオンハントの治世を「神の承認」という形で盤石にできる。
「兄上が民の太陽となり、私が影となる。これが一番の形じゃないかな」
彼は満足げに頷き、布紙にさらに細かな分析を書き加えた。
過去三世紀にわたる諸王国の継承争いを紐解けば、その九割は「次男の野心」か「家臣の煽動」に起因する。
自分が宗教的権威を纏い、俗世の継承権を公式に放棄すれば、内乱の火種の半分は消せる計算だ。
「エリオス様、失礼いたします」
静かなノックとともに、コレットが香りの良いハーブティーを運んできた。
彼は主人の机に積み上げられた古色蒼然たる書物を見ても、驚く風もない。
「まだ調べものが続くのでございますね」
「ああ、少しばかり未来の設計図を引いていただけだよ。ありがとう、コレット」
エリオスはティーカップを受け取り、一口含んで一息ついた。
「兄上は今回の視察団で多くの経験をするだろう。
父上の期待も大きいだろうしね」
「エリオス様は、いつもレオンハント様のことを第一に考えておいでですね」
コレットの言葉に、エリオスは苦笑いを浮かべた。
「誤解しないでくれ。王が兄上にならないこともありうるのは分かっているよ。
けれど、可能性としても適役としても、兄上が王になる方をまず考えるさ」
「左様でございますか。……ですが、民衆は別の見方をしているようですよ」
コレットが窓の外、まだ微かに喧騒が残る街の方角へ視線をやった。
「先ほど、市場へ買い出しに出た侍女たちが話しておりました。今日の見送りで、エリオス様が祈るように空を見上げた瞬間、雲間から光が差したと」
「……ただの気象現象だ。初夏の天気は変わりやすいからね」
「ええ。ですが民はそれを『光を呼ぶ王子』の加護だと噂しているようです。レオンハント様が武の誉れなら、エリオス様は聖なる知恵の象徴だと」
エリオスは冷めた紅茶をカップに戻し、わずかに眉を寄せた。
その解釈は、彼の計算にはない「不確定要素」だった。
(民衆の情緒というものは、常に論理を飛び越えて飛躍するものだな)
神格化は、時に権力よりも強い拘束力を生む。
自分が望む「静かな裏方」という座席が、民衆の期待という濁流によって押し流される危うさを、彼は敏感に感じ取った。
「コレット、明日からの私のスケジュールに、教会の司教との面会を組み込んでおいてくれ。表向きは兄上の視察の無事を祈る儀式の相談だ」
「承知いたしました」
「それと、国内の情勢に関する報告書を、最新のものに差し替えさせてくれ」
エリオスは再び、広げた地図に目を落とした。
(ここ数年、国内の秩序は安定している。
この先も同じように平穏であると良いのだけれど)
彼は深く椅子に身を沈め、静寂に包まれた蔵書室の中で、来るべき嵐の足音を聞こうとした。
窓から差し込む月光は、賢明な王子の瞳を青白く照らしていた。




