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3-1

 アルセイオンの初夏の陽光は、海面に反射して眩しく跳ねていた。

 第一港の石畳の上、第二王子エリオスは、国王夫妻の数歩後ろで静かに佇んでいた。

 視線の先には、隣国への視察団を乗せ、ゆっくりと岸を離れていく大型の帆船がある。


 甲板で大きく手を振る兄、レオンハントの姿は、遠目にもその快活さが伝わってきた。

「まったく、兄上はあのような場所が本当によく似合う」


 エリオスは隣に控える侍従のコレットに、ごく小さな声で話しかけた。

 民衆の歓声が、潮風に乗ってエリオスの耳を打つ。

 兄の「泥臭いまでの誠実さ」は、時に非効率に見えるが、こうして人心を束ねる力がある。


 それは、計算や論理だけでは決して生み出せない、王に不可欠な資質だと彼は認めていた。


「コレット、戻ろう。父上も母上も、お疲れのようだ」

「かしこまりました。エリオス様、お召し替えの準備を整えておきますね」

「ああ、頼むよ。いつも済まないね」


 エリオスは、自分に向けられるコレットの労いに対し、穏やかな微笑を返した。

 彼は冷徹な合理主義者ではあったが、身近な者への礼節を欠くほど傲慢ではない。

 むしろ、過剰な自尊心は判断を狂わせるノイズだと考えていた。



 王宮へ戻ったエリオスは、真っ直ぐに私設蔵書室へと向かった。

 兄の不在中、王の補佐という重責が彼にのしかかる。


(私には、あの玉座は重すぎる。王とは、国という巨大な感情の器だ)


 エリオスは書棚から、諸国の王族史と継承に関する法典を抜き出した。

 彼が求めているのは、野心を満たすための椅子ではない。

 兄が王として輝き、自分がその影でいられる「安全な座席」だ。


(第一王子の兄上が王座に就くとして、自分はその後どうなるのか。

 地方の領主になるか、教会の権力を考えると教会の要職……

 枢機卿や司教の座に収まる例もあるのか)


 聖職者の身分であれば、王位継承権を放棄しつつ、国の中枢に居座ることができる。

 実務と情報を握り、論理的に国を差配する。

 それこそが、兄にとっても自分にとっても、そしてこの国にとっての「最善」と思えた。


 エリオスは羽ペンを走らせ、自らの思考を地図化していく。

「教会の要職……枢機卿、あるいは大司教か」

 

 その言葉を口の中で転がしてみると、不思議なほど滑らかに馴染んだ。

 アルセイオンにおける教会は、信仰の場であると同時に、法と教育を司る巨大な行政装置でもある。

 もし自分がその頂に近い場所を占めれば、兄レオンハントの治世を「神の承認」という形で盤石にできる。

 

「兄上が民の太陽となり、私が影となる。これが一番の形じゃないかな」

 

 彼は満足げに頷き、布紙にさらに細かな分析を書き加えた。

 過去三世紀にわたる諸王国の継承争いを紐解けば、その九割は「次男の野心」か「家臣の煽動」に起因する。

 自分が宗教的権威を纏い、俗世の継承権を公式に放棄すれば、内乱の火種の半分は消せる計算だ。

 

「エリオス様、失礼いたします」

 

 静かなノックとともに、コレットが香りの良いハーブティーを運んできた。

 彼は主人の机に積み上げられた古色蒼然たる書物を見ても、驚く風もない。

 

「まだ調べものが続くのでございますね」

「ああ、少しばかり未来の設計図を引いていただけだよ。ありがとう、コレット」

 

 エリオスはティーカップを受け取り、一口含んで一息ついた。


「兄上は今回の視察団で多くの経験をするだろう。

 父上の期待も大きいだろうしね」

「エリオス様は、いつもレオンハント様のことを第一に考えておいでですね」

 

 コレットの言葉に、エリオスは苦笑いを浮かべた。


「誤解しないでくれ。王が兄上にならないこともありうるのは分かっているよ。

 けれど、可能性としても適役としても、兄上が王になる方をまず考えるさ」 

「左様でございますか。……ですが、民衆は別の見方をしているようですよ」

 

 コレットが窓の外、まだ微かに喧騒が残る街の方角へ視線をやった。


「先ほど、市場へ買い出しに出た侍女たちが話しておりました。今日の見送りで、エリオス様が祈るように空を見上げた瞬間、雲間から光が差したと」

「……ただの気象現象だ。初夏の天気は変わりやすいからね」

「ええ。ですが民はそれを『光を呼ぶ王子』の加護だと噂しているようです。レオンハント様が武の誉れなら、エリオス様は聖なる知恵の象徴だと」

 

 エリオスは冷めた紅茶をカップに戻し、わずかに眉を寄せた。

 その解釈は、彼の計算にはない「不確定要素」だった。

 

(民衆の情緒というものは、常に論理を飛び越えて飛躍するものだな)

 

 神格化は、時に権力よりも強い拘束力を生む。

 自分が望む「静かな裏方」という座席が、民衆の期待という濁流によって押し流される危うさを、彼は敏感に感じ取った。

 

「コレット、明日からの私のスケジュールに、教会の司教との面会を組み込んでおいてくれ。表向きは兄上の視察の無事を祈る儀式の相談だ」

「承知いたしました」

「それと、国内の情勢に関する報告書を、最新のものに差し替えさせてくれ」

 

 エリオスは再び、広げた地図に目を落とした。

 

(ここ数年、国内の秩序は安定している。

 この先も同じように平穏であると良いのだけれど)

 

 彼は深く椅子に身を沈め、静寂に包まれた蔵書室の中で、来るべき嵐の足音を聞こうとした。

 窓から差し込む月光は、賢明な王子の瞳を青白く照らしていた。



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