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2-12

 メルカト港の喧騒は、別れの感傷をかき消すほどに激しかった。

 ヴァレンツァ共和国へと向かう高速船のタラップを前に、レオンハントとアレッシアは向かい合っていた。

 

 アレッシアは、オライアでの数日間を共にした旅装を脱ぎ、今はヴァレンツァの誇り高い公女としての正装に身を包んでいる。彼女には本国での重要な議会が控えており、レオンハントの残りの視察に付き合うことは叶わなかった。

 

「アレッシア、短い間だったが世話になった。これを、君に」

 

 レオンハントが差し出したのは、カスティアーノの職人が丹精込めて磨き上げた、白い花崗岩の小さな小鳥の彫像だった。泥にまみれて働いたあの石切場で、彼が美しさを感じて買ったものだ。

 

「婚約者に贈る物として適切ではないかもしれないが、君には豪奢なものより、私が美しいと感じたものを渡したくて」


 アレッシアは一瞬、驚いたように目を見開いたが、やがて慈しむようにその彫像を胸に抱いた。

 

「素敵ですわ、レオン。では、私からもこちらを贈りますわ」

 

 彼女が差し出したのは、ヴァレンツァの象徴である「双翼の獅子」が刻まれた、古びた真鍮の羅針盤だった。

 

「方位が少し狂っていますけれど、持ち主の『進みたい方向』だけは決して違えない、一族の守り神ですの。……次に会うとき、あなたがどこまで進んでいるか、楽しみにしていますわ」

 

「ああ。……次に会うのは、アルセイオンの港か、それとも君の国か」

 

「どこだって構いませんわ。風が吹く場所なら、どこへでも参りますから」

 

 アレッシアはそう言って、軽やかにタラップを駆け上がった。

 船が港を離れ、彼女の振るう白いハンカチが見えなくなるまで、レオンハントはその場を動かなかった。掌に残る羅針盤の冷たさが、彼に新しい責任の重さを教えていた。

 

 

 彼女を見送った後も、オライアの視察はさらに数日続いた。

 商人たちが集う広場では、噂一つでパンの値段が変わり、昨日の豪商が今日は路頭に迷う。カスティアーノの「土の重さ」とはまるで異なる、目に見えない欲望の激流が、この国を動かしていた。

 レオンハントは圧倒されながらも、その激流の底にある「未来への賭け」という情熱の正体を、体ごと吸い込むようにして学んでいった。

 

 出航を明日に控えた夜、レオンハントは宿舎のテラスで、イアンとベニートを伴って静かな晩餐を囲んでいた。

 

「この国を救えたわけではないし、自分の知識の浅はかさを思い知ったな」

 

 レオンハントがふと漏らした言葉に、ワインを注いでいたベニートの手が止まった。

 

「王子、何を仰いますか。小麦の件での鮮やかな解決、オライアの商人たちも舌を巻いておりましたぞ。私などは、心臓が止まる思いの連続でしたがね」

 

 ベニートは、わざとらしく溜息をついてみせた。

 だが、その眼差しは、かつて王子の放蕩を嘆いていた頃のそれではない。

 泥にまみれ、不正に立ち向かった主君への、深い敬愛が滲んでいた。

 

「王子。この一ヶ月で、あなたは多くのものをご覧になりました」

 

 イアンが静かに口を開いた。

 

「土を掘る者の絶望も、金を数える者の傲慢も。……エリオス殿下なら、それらを事象として処理されたでしょう。ですが、あなたはそれを『自分の痛み』として受け止められた。それは、どの学問所でも教えることのできない、王の資質です」

 

「……イアン。私はまだ、自分がどんな王になるべきか、答えは出ていないんだ。今朝解決した問題も、明日には別の形になって襲ってくるだろう」

 

「それでよろしいのです。問い続けることこそが、舵を握る者の義務ですから」

 


 翌朝、ブルー・クレスト号は、朝霧を切り裂いてメルカトの港を出た。


 甲板に立つと、アルセイオンへと向かう順風が頬を撫でた。

 レオンハントは目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。

 潮の匂いが、出発の朝を思い出させた。


 あの日、エリオスと並んで回廊に立ち、海を眺めていた夜。

 自分は「外の世界」に焦がれながら、まだ何も知らなかった。


 今の自分の掌には、三つの痕跡がある。

 ひとつは、訓練場で木剣を握り続けた、慣れ親しんだ硬さ。

 ひとつは、カスティアーノの土が刻んだ、ひりひりとした傷跡。

 そして最後のひとつは、羅針盤の縁が押しつけた、まだ薄い赤い痕だ。


(……私は、何を学んだのだろう)


 レオンハントは、胸の内で問いかけてみる。

 答えは、すぐには出なかった。

 だが、それでいい、と思えた。


 カスティアーノで知ったのは、土に生きる者の重さと、一枚の銀貨では救えない現実だった。

 オライアで知ったのは、欲が人を動かす速さと、しかし同じ欲が人を繋ぎとめる熱でもあることだった。

 そしてザッパは、アレッシアは、ガロンは、ベニートは、イアンは――みな、自分の知らなかった「人間の形」を、その手で渡してくれた。


 あの銀貨を騙し取った男のことを、レオンハントはまだ忘れていない。

 あの男を恨んでいるかと問われれば、そうではないと答える。

 だが、あの夜、腹の底に燃えた「それでも、もう一度掘る」という意地が、今の自分の礎になっているとも感じていた。


「王子」


 傍らで、イアンが静かに声をかけた。


「ご覧ください」


 水平線の彼方に、見慣れた輪郭が浮かびつつあった。

 低く横たわる岩肌の連なり。白い断崖の端に揺れる漁火。

 アルセイオンだ。


 レオンハントは、その島影を、出発の朝とはまるで違う目で眺めた。

 愛おしさと、重さが、同時に胸に満ちてくる。


(エリオス、私は帰る。たくさんの情けない話と一緒に)


 手に持つ羅針盤の針が、わずかに揺れて、北を指した。

 ブルー・クレスト号の白い帆が、故国の風を孕んで膨らんでいく。


 少年の日は、静かに終わっていた。

 一人の男が、まだ見ぬ自分の航路へと、今、舳先を向けた。



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