2-11
メルカト港の夜は、昼間よりもいっそう濃密な潮の匂いに包まれていた。
レオンハントはアレッシアと共に、霧に煙る桟橋の奥へと足を踏み入れる。
「王子にはそぐわない場所かもですが、表の通りに真実はありませんわ」
アレッシアは、外套のフードを深く被りながら囁いた。
彼女が事前に掴んでいた情報は、検疫所を実質的に支配している男の存在だった。
名はガロン。
メルカト港の全ての荷揚げ労働者を束ねる「荷役頭」であり、同時にボルジアの不正を末端で支える現場のキーマンだ。
彼が首を縦に振らぬ限り、小麦の袋は一つとして倉庫から出ることはない。
二人は、労働者たちが集まる安酒場『潮の止まり木』の扉を叩いた。
一歩中へ入ると、野卑な笑い声と煙草の煙が顔を打つ。
正面の奥に、岩のように大きな背中をした男が座っていた。
「……見慣れない顔だな。坊ちゃんと、その連れの別嬪さんよ」
ガロンが振り返る。その顔には、長年の荒仕事でついた無数の傷跡が刻まれていた。
周囲の荒くれ者たちが、値踏みするようにレオンハントたちを囲む。
「用件は何だ。寄付を募りに来たわけじゃねえだろう?」
「あんたがガロンだな。港の小麦を、あんたの部下たちが運び出せない理由を聞きに来た」
レオンハントの言葉に、酒場が凍りついた。
ガロンは鼻で笑い、手元のジョッキを叩きつける。
「検疫官が病気だって言ってんだ。俺たちが運んで、街に病を広めてみろ。そいつは万死に値する罪だ。……帰れ、若造」
だが、レオンハントは動かなかった。
彼は真っ直ぐに、ガロンの荒れた掌を見つめた。
「あんたの部下の一人が、港の隅で腐りかけたパンを食べているのを見た」
「小麦が倉庫で眠っている間に、運賃を稼げない彼らは飢えていく。……あんたは、部下の腹が鳴る音よりも、ボルジアからの賄賂の音が好きなのか?」
「貴様……!」
ガロンの隣にいた男がナイフを抜こうとしたが、ガロンがそれを制した。
彼は椅子から立ち上がり、地鳴りのような足音を立ててレオンハントの眼前に迫る。
「ボルジア様を呼び捨てか。……あんた、一体何者だ」
「私はアルセイオンの第一王子、レオンハントだ。……だが、今は一人のお節介な男として、あんたに話しに来た」
レオンハントは、自分の右手を差し出した。
カスティアーノで土を掘り、肉刺が潰れ、泥が染み込んで変色したその手を。
「俺の手を見てくれ。これは剣を振るためだけの手じゃない。あんたたちと同じように、自分の力で重いものを動かそうとした手だ」
ガロンの目が、王子の掌に釘付けになった。
王子を名乗る者が持つはずのない、汚れて、節くれ立ち、それでいて力強い「労働者の手」。
「あんたもわかっているはずだ。実際には病気などない。ボルジアは自分の古い在庫を高値で売るために、部下たちを飢えさせている。……あんたまで、彼らを裏切るのか」
沈黙が酒場を支配した。
ガロンは、レオンハントの瞳をじっと見つめ返した。
そこには、欺瞞も、上から目線の憐憫もなかった。
「……坊ちゃん。いや、レオン殿と言ったか。いい目をしてやがる」
ガロンは深い溜息をつき、再び席に座った。
「ボルジアの野郎は、俺たちに『検疫の協力金』を約束したが、まだ一銭も払っちゃいねえ。……だが、俺たちが動けば、検疫官が憲兵を呼ぶぜ」
「その心配は不要ですわ」
背後で控えていたアレッシアが、外套の中から一通の書状を取り出した。
「これは、オライア商業評議会の副会長――私の叔父の直筆署名入りですの。……検疫官の不正調査を開始するという指令書ですわ。これがあれば、憲兵も検疫官の味方はできません」
アレッシアは勝ち誇ったように微笑んだ。
「ガロン。あなたが今夜、信頼できる部下を数人連れて小麦を運び出してくれれば、それは『調査のための緊急移動』として処理されます。……もちろん、正規の運賃に加え、評議会からの特別報奨金もお約束しますわ」
ガロンはアレッシアの書状を読み込み、それからニヤリと口角を上げた。
「……商売敵に後ろから刺されるってのは、ボルジアの野郎にふさわしい最期だ」
彼はジョッキを高く掲げた。
「野郎ども、仕事だ! 腹いっぱいパンを食うために、今夜は一汗かいてもらうぜ!」
夜明け前。
メルカトの市場には、昨日まで姿を消していた新鮮な小麦の袋が並び始めた。
パン屋の煙突からは香ばしい匂いが立ち上り、街の空気が一気に活気づく。
港を見下ろす丘の上で、レオンハントとアレッシアは朝焼けを眺めていた。
「ボルジア様は今頃、暴落した小麦の価格を見て泡を吹いて倒れているでしょうね」
アレッシアは満足げに伸びをすると、隣に立つレオンハントの肩に、そっと自分の肩を寄せた。
「お見事でしたわ、レオン。……カスティアーノの公爵に伝えて差し上げたいです。あなたのその『土にまみれて磨き上げられた眼差し』こそが、最も冷徹な商人の心をも溶かしたのだと」
活気づく街の喧騒を遠くに聞きながら、レオンハントはふと、自分の掌を見つめた。
「……だが、アレッシア。これで世界が劇的に良くなるわけじゃない」
その声は、朝の冷気に溶けるように静かだった。
「今朝、安くなったパンを喜んで買う人々も、明日にはまた別の理不尽に泣くかもしれない。私がやったことは、目の前の小麦の袋を動かしただけで、この国の仕組みそのものを変えたわけじゃないんだ」
自分がやるべきことを果たした。そんな達成感よりも、むしろ、解決すべき問題の巨大さと、己の無力さへの自覚が胸に重く沈んでいた。
「……あら。自惚れていないところは、合格点ですわね」
アレッシアは、レオンハントの言葉を否定しなかった。
彼女は王子の横顔を見つめ、どこか誇らしげに目を細める。
「たった一人の王子が、一度の旅ですべてを救えるほど、この世界は優しくありませんわ。でも、だからこそ、その『重さ』を背負って歩ける相手が必要でしょう?」
「私は、ただ話をしただけだよ」
「ねえ、レオン。今回は無理でもそのうち、ヴァレンツァにも来ていただけますかしら?」
アレッシアの瞳が、朝日を反射して宝石のように輝いた。
「そして、いずれはもっと広い世界を、私と一緒に見に行きませんこと?」
レオンハントは、力強く頷いた。
かつてアルセイオンの港でエリオスに見送られた時、彼はまだ、自分の足でどこへ向かうべきかを知らなかった。
だが今、掌に残る痛みと、隣にいる少女の熱が、彼の航路を確かなものにしていた。




