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2-9

 カスティアーノ公国から続く陸路を終え、使節団は再び海へと出た。

 目指すは、アルセイオンと同じく海を母体としながら、その性質を全く異にする国。

 複数の島々が連なる交易の要衝、オライア連合国である。

 

 「ブルー・クレスト号」の船上で、レオンハントは海図を見ていた。

 潮風に吹かれるのは数日ぶりだが、その指先にはカスティアーノの泥の感触がまだ残っている。

 

「王子、これがオライアの主星、商業島『メルカト』の入港予定です」

 

 イアンが広げた羊皮紙には、複雑な運河と無数の桟橋が記されていた。

 オライアは一つの王を戴く国ではない。

 有力な商人たちによる評議会が国を動かす、欲とことわりの連合体である。

 

「カスティアーノが『土』の規律なら、オライアは『金』の流動性ですな」

 ベニートが、いかにも不潔なものを見るような目で付け加えた。

 「あちらでは、血筋よりも帳簿の数字が重んじられます。王子、くれぐれも甘い顔を見せてはなりませぬぞ。彼らは王族の権威さえ、商売の道具にしようと目論みますから」

 

「……わかっている。だが、それだけ多くの民が食っていけるだけの活気が、そこにはあるということだろう?」

 

 レオンハントは、遠く霞む島影を見つめた。

 カスティアーノで見た、あの泥まみれの貧しい村。

 もしそこに、オライアのような商いの風が吹いていれば、民衆の雰囲気もまた違ったのではないか。

 

 入港したメルカトの港は、目眩がするほどの喧騒に包まれていた。

 多種多様な言語が飛び交い、スパイスの匂いと腐った魚の臭いが混ざり合う。

 レオンハントは、この国が持つ「剥き出しの生命力」に圧倒されながら、馬を降りてその第一歩を記した。

 

 翌日。

 レオンハント一行は、湖にある街に向かう。

 

 使節団は馬を走らせていた。

 この時代、未整備な道において、馬車は一般的ではない。

 レオンハントは、かつてないほど軽快に手綱を捌いていた。

 労働で鍛えられた体幹が、馬の動きを驚くほど自然に捉えている。

 

 街道の先、銀色に光る湖畔が見えてきたところで、前方に砂煙が上がった。

 

「……何者だ? 護衛兵、前へ!」

 ベニートが警戒の声を上げる。

 

 現れたのは、若馬を鮮やかに操る、一人の女性とその従者だった。

 彼女は、使節団の先頭でぴたりと馬を止めた。

 

 埃よけの薄い外套を羽織っているが、その下に見える旅装の仕立ては極めて上質だ。

 陽光を浴びて輝く栗色の髪。

 彼女は、困惑するレオンハントに向かって、涼やかな、しかし意志の強い微笑を向けた。

 

「使節団の話を伺って、お会いしたく参りましたわ。

 アルセイオンのレオンハント王子」

 

 馬を降りた彼女の所作には、淀みのない気品が宿っていた。

 レオンハントも慌てて下馬し、名前を呼ばれた驚きを押し殺して一礼する。

 

「失礼ながら、あなたは?」

 

「ヴァレンツァ共和国、アレッシア・ディ・ヴァレンツァ。

 あなたの婚約者、と申し上げれば、お分かりいただけますかしら?」

 

 アレッシアはそう言って、悪戯っぽく目を細めた。

 

 レオンハントは言葉を失った。

 肖像画で見た少女よりも、ずっと鮮やかで、野に咲く花のような野生味を秘めた美しさがそこにあった。

 

「使節団が本日到着したと聞きまして、待ちきれずに迎えに来てしまいましたの。

 噂では、あなたが重い風邪で寝込んでいると仰っていましたけれど」

 

 アレッシアは一歩、レオンハントに近づいた。

 ふわりと、湖の風と柔らかな香油の匂いが鼻をくすぐる。

 

 彼女の視線が、ふとレオンハントの右手に落ちた。

 

 正装の手袋を嵌めていないその掌。

 そこには、一週間の労働で赤く腫れ、皮が剥けたまめの跡が、生々しく残っている。

 王子という身分には、およそ似つかわしくない、汚れた手。

 

 アレッシアは、その手をじっと見つめた。

 

 レオンハントは、思わず拳を握って隠そうとした。

 カスティアーノの貴族たちのように、野蛮だと蔑まれるのを恐れたのだ。

 

 だが、アレッシアは何も言わなかった。

 彼女は再び顔を上げると、先ほどよりもずっと深い信頼を込めた瞳で、レオンハントを見つめ返した。

 

「オライアの商業評議会には私の叔父もおりますの。

 この先の案内、私にお任せいただけますかしら?」

 

「願ってもない申し出だ。アレッシア様」

 

 レオンハントの答えに、アレッシアは満足そうに頷き、再び馬の背に飛び乗った。

 

 ベニートは、王族同士が道端で挨拶を済ませ、あろうことか同行を認めてしまった事態に頭を抱えている。

 イアンだけは、若き二人の背中を見つめ、新しい時代の風を感じていた。

 

 カスティアーノの沈黙する土を超え、レオンハントは今、アレッシアという新しい風を伴って、欲望の渦巻くオライアへと足を踏み入れる。

 

 十五歳の旅。

 その航路は、ここからさらに激しく、熱く揺れ動こうとしていた。



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