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カスティアーノ公国から続く陸路を終え、使節団は再び海へと出た。
目指すは、アルセイオンと同じく海を母体としながら、その性質を全く異にする国。
複数の島々が連なる交易の要衝、オライア連合国である。
「ブルー・クレスト号」の船上で、レオンハントは海図を見ていた。
潮風に吹かれるのは数日ぶりだが、その指先にはカスティアーノの泥の感触がまだ残っている。
「王子、これがオライアの主星、商業島『メルカト』の入港予定です」
イアンが広げた羊皮紙には、複雑な運河と無数の桟橋が記されていた。
オライアは一つの王を戴く国ではない。
有力な商人たちによる評議会が国を動かす、欲と理の連合体である。
「カスティアーノが『土』の規律なら、オライアは『金』の流動性ですな」
ベニートが、いかにも不潔なものを見るような目で付け加えた。
「あちらでは、血筋よりも帳簿の数字が重んじられます。王子、くれぐれも甘い顔を見せてはなりませぬぞ。彼らは王族の権威さえ、商売の道具にしようと目論みますから」
「……わかっている。だが、それだけ多くの民が食っていけるだけの活気が、そこにはあるということだろう?」
レオンハントは、遠く霞む島影を見つめた。
カスティアーノで見た、あの泥まみれの貧しい村。
もしそこに、オライアのような商いの風が吹いていれば、民衆の雰囲気もまた違ったのではないか。
入港したメルカトの港は、目眩がするほどの喧騒に包まれていた。
多種多様な言語が飛び交い、スパイスの匂いと腐った魚の臭いが混ざり合う。
レオンハントは、この国が持つ「剥き出しの生命力」に圧倒されながら、馬を降りてその第一歩を記した。
翌日。
レオンハント一行は、湖にある街に向かう。
使節団は馬を走らせていた。
この時代、未整備な道において、馬車は一般的ではない。
レオンハントは、かつてないほど軽快に手綱を捌いていた。
労働で鍛えられた体幹が、馬の動きを驚くほど自然に捉えている。
街道の先、銀色に光る湖畔が見えてきたところで、前方に砂煙が上がった。
「……何者だ? 護衛兵、前へ!」
ベニートが警戒の声を上げる。
現れたのは、若馬を鮮やかに操る、一人の女性とその従者だった。
彼女は、使節団の先頭でぴたりと馬を止めた。
埃よけの薄い外套を羽織っているが、その下に見える旅装の仕立ては極めて上質だ。
陽光を浴びて輝く栗色の髪。
彼女は、困惑するレオンハントに向かって、涼やかな、しかし意志の強い微笑を向けた。
「使節団の話を伺って、お会いしたく参りましたわ。
アルセイオンのレオンハント王子」
馬を降りた彼女の所作には、淀みのない気品が宿っていた。
レオンハントも慌てて下馬し、名前を呼ばれた驚きを押し殺して一礼する。
「失礼ながら、あなたは?」
「ヴァレンツァ共和国、アレッシア・ディ・ヴァレンツァ。
あなたの婚約者、と申し上げれば、お分かりいただけますかしら?」
アレッシアはそう言って、悪戯っぽく目を細めた。
レオンハントは言葉を失った。
肖像画で見た少女よりも、ずっと鮮やかで、野に咲く花のような野生味を秘めた美しさがそこにあった。
「使節団が本日到着したと聞きまして、待ちきれずに迎えに来てしまいましたの。
噂では、あなたが重い風邪で寝込んでいると仰っていましたけれど」
アレッシアは一歩、レオンハントに近づいた。
ふわりと、湖の風と柔らかな香油の匂いが鼻をくすぐる。
彼女の視線が、ふとレオンハントの右手に落ちた。
正装の手袋を嵌めていないその掌。
そこには、一週間の労働で赤く腫れ、皮が剥けたまめの跡が、生々しく残っている。
王子という身分には、およそ似つかわしくない、汚れた手。
アレッシアは、その手をじっと見つめた。
レオンハントは、思わず拳を握って隠そうとした。
カスティアーノの貴族たちのように、野蛮だと蔑まれるのを恐れたのだ。
だが、アレッシアは何も言わなかった。
彼女は再び顔を上げると、先ほどよりもずっと深い信頼を込めた瞳で、レオンハントを見つめ返した。
「オライアの商業評議会には私の叔父もおりますの。
この先の案内、私にお任せいただけますかしら?」
「願ってもない申し出だ。アレッシア様」
レオンハントの答えに、アレッシアは満足そうに頷き、再び馬の背に飛び乗った。
ベニートは、王族同士が道端で挨拶を済ませ、あろうことか同行を認めてしまった事態に頭を抱えている。
イアンだけは、若き二人の背中を見つめ、新しい時代の風を感じていた。
カスティアーノの沈黙する土を超え、レオンハントは今、アレッシアという新しい風を伴って、欲望の渦巻くオライアへと足を踏み入れる。
十五歳の旅。
その航路は、ここからさらに激しく、熱く揺れ動こうとしていた。




