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2-8

 ザッパは、安酒の染みついた切り株に腰を下ろし、泥を噛むような思いで目の前の光景を眺めていた。

 視界の先では、昨日の今日で全身を悲鳴のような筋肉痛が襲っているはずの青年が、またスコップを握っている。

 

 普通なら、昨日の「銀貨の裏切り」で心は折れているはずだった。

 親切を仇で返され、信じた者に嘲笑われる。

 それは、高貴な身分で温室育ちの若者にとって、最も耐えがたい屈辱だろうとザッパは踏んでいた。

 

「……馬鹿な野郎だ。本当にな」

 

 ザッパは紫煙を吐き出し、細めた目でレオンハントを追う。

 レオンハントの動きは、昨日にも増して無様だった。

 手のひらのまめを庇うように握るため、一掻きごとに顔が苦痛に歪む。

 

 だが、その手は止まらなかった。

 

 一掻き。また一掻き。

 それは、効率を求める作業というよりは、何かを自分の中に刻み込もうとする修行のようにも見えた。

 レオンハントは、昨日自分を騙したあの男が現場の隅でバツが悪そうにうずくまっているのを知っているはずだが、一度もそちらを睨みつけようとはしない。

 

 ザッパは、かつての自分を思い出していた。

 この村の出身だった彼は、かつてカスティアーノの騎士に憧れ、忠誠を誓った。

 だが、上層部の不祥事の身代わりにされ、汚名を着せられて放逐された。

 

 それ以来、彼は「信じること」を捨て、泥を啜るようにして生きてきた。

 だからこそ、この王子の持つ「信じようとする意志」が、眩しすぎて、反吐が出るほどに疎ましかった。

 

 昼時、陽射しが粘りつくような熱を帯びる。

 レオンハントの足元がふらつき、膝が折れた。

 それを見たザッパは、無意識のうちに立ち上がっていた。

 

「おい、レオン。……いつまでその、へっぴり腰でやるつもりだ」

 

 ザッパの声に、レオンハントは泥まみれの顔を上げた。

 その瞳は赤く充血していたが、底にある光は少しも濁っていない。

 

「……ああ、ザッパ。まだ、倒れるわけにはいかないんだ」

 

「倒れるも何も、お前のやり方じゃ土をどかしてるんじゃねえ、撫でてるだけだ」

 

 ザッパは吐き捨てるように言うと、王子の手から乱暴にスコップを奪い取った。

 そして、自ら土に刃を突き立てる。

 

「よく見ろ。土ってのは、押し込むんじゃねえ。……支点を作って、背中のバネで跳ね上げるんだよ」

 

 鮮やかな手際だった。

 最小限の動きで、大量の泥が弾き飛ばされていく。

 レオンハントは、その「生きた技術」を、渇いた大地が水を吸うような目で見つめていた。

 

「……やってみる。もう一度」

 

 奪い返したスコップを握る王子の手が、少しだけザッパの教えをなぞる。

 ザッパはふん、と鼻を鳴らした。

 

 一度で覚えられるはずはない。

 だが、この青年は、一度でできないことを「恥」だとは思っていないようだった。

 できないから、百回やる。百回でダメなら、千回やる。

 

 その狂気じみた誠実さが、ザッパの心の奥にある、錆びついた扉を叩いていた。

 

 一週間の終わりが近づくにつれ、現場の空気は変わっていった。

 「坊ちゃん」と呼んで遠巻きにしていた村人たちが、いつしか「レオン」と呼び、水や汗拭きの布を差し出すようになった。

 

 レオンハントは、誰に対しても分け隔てなく接した。

 騙した男が謝りに来たときも、「おかげで、もっと強く掘らなければならないと気づけた」と、本気で感謝を述べていた。

 

 ザッパはそれを見て、苦笑いするしかなかった。

 

「……救えねえ聖者様だ」

 

 だが、その声には、初日のような冷徹な響きは消えていた。

 道が開通した日の夕暮れ。

 村人たちの歓声の中で、ザッパは、一人の男としてレオンハントの肩を叩いた。

 

 その夜、レオンハントは久しぶりに城下町の宿舎へと戻った。

 風呂に浸かっても、爪の間の汚れは完全には落ちなかった。

 

 だが、彼はその汚れを、誇らしい勲章のように感じていた。

 

 部屋には、イアンと、すっかり心労で痩せたベニートが待っていた。

 レオンハントは机に向かい、母からもらった羽根ペンをインクに浸した。

 

 日時計が刻む夜の静寂の中で、彼は弟への言葉を紡ぎ出す。


 

  親愛なるエリオスへ。

 

  カスティアーノの土は、私が思っていたよりもずっと重く、そして深かった。

  私はここで、自分が一人の無力な人間だと自覚した。

 

  人を信じて裏切られ、自分の善意がどれほど浅はかなものかを見せつけられたよ。

  お前なら、もっと賢く立ち回り、無駄な時間は過ごさなかっただろう。

 

  だが、エリオス。泥を掻き出し、腰を痛め、男たちと不味いパンを分け合ったとき。

  私は初めて、この国の鼓動が、自分の掌に伝わってくるのを感じたんだ。

 

  統治とは、上から指示を出すことだけではないのかもしれない。

  彼らが何に怒り、何に絶望し、それでもなぜ、明日も土を掘るのか。

 

  それを知らないまま大人になることを、私は今、何よりも恐ろしく思う。

  お前は城で、何を学んでいるだろうか。

 

  私はこれから、隣島のオライア連合国へと向かう。

  そこには、また別の真実が待っているはずだ。

 

  次に会うとき、私はお前に、もっと情けない話をたくさん聞かせられるだろう。

  それこそが、今の私の唯一の自慢だ。

 

                         兄レオンハントより

 

 

 書き終えたレオンハントは、手紙を封じ、窓を開けた。

 カスティアーノの夜空には、アルセイオンで見るのと同じ星が輝いている。

 

 だが、その下に広がる大地は、もう彼にとって「見知らぬ異国」ではなかった。

 

 翌朝、出発の馬車に乗り込む際、ザッパが遠くの木陰からこちらを見ていた。

 

 レオンハントは、無言で右手を上げた。

 掌のまめは、まだ痛む。

 

 ザッパもまた、無愛想に、だが力強く右手を振り返した。

 

 馬車が動き出し、カスティアーノの港へと向かう。

 

「王子、次はオライア連合国ですね」

 イアンが、手帳を広げながら言った。

 

「ああ。……今度は、どんな風が吹いているかな」

 

 レオンハントは、腰に差した日時計に触れた。

 

 十五歳の春。

 少年は、王子の鎧を少しずつ脱ぎ捨てながら、一人の「男」としての航路を切り拓き始めていた。

 

 その背中を見つめるベニートの目は、もう、かつての「甘い王子」を見るものではなかった。

 

 レオンハントの初めての旅。

 次の舞台は海を渡り、活気と陰謀が渦巻く商業の要衝へと移っていく。



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