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20/37

2-7

 翌朝、東の空が白み始める前に、レオンハントは宿の裏口に立っていた。

 体になじんだ上質な絹のシャツを脱ぎ捨て、身にまとっているのはザッパが用意させた粗末な麻のチュニックだ。

 

 肌を刺すような冷たい朝霧が、剥き出しの腕にまとわりつく。

 そこへ、霧の向こうから砂利を踏む荒い足音が近づいてきた。

 

「……ほう、逃げなかったか。坊ちゃん」

 

 ザッパの声には、隠しきれない驚きと、それ以上の不機嫌さが混じっていた。

 彼はレオンハントの姿を頭の先からつま先まで、値踏みするように眺める。

 

「顔色が悪いぜ。今ならまだ、ぬくぬくとしたベッドに戻れるんだがな」

 

「あいにく、約束を破るのが嫌いでね。……それと、この服は意外と風通しがいい」

 

 レオンハントは努めて明るく答えたが、内心では心臓が激しく鼓動していた。

 ザッパは鼻で笑うと、担いでいた重い麻袋を王子の足元に放り投げた。

 

「中にスコップと、今日の分の水が入ってる。……担げ」

 

 ずしりとした重みが肩に食い込む。

 かつて船の上で担いだロープよりも、その重さは「拒絶」の色を帯びていた。

 

 二人が辿り着いたのは、昨日見たあの土砂崩れの現場だった。

 朝の光の下で見れば、山肌が抉れた傷跡はより凄惨で、堆積した土砂は巨大な獣の骸のようだった。

 

 すでに数人の村人が、気力のない様子で土を掻き出している。

 レオンハントはザッパに言われるがまま、スコップを泥の中に突き立てた。

 

 一掻き。それだけで、腕の筋肉が悲鳴を上げた。

 カスティアーノの土は、アルセイオンの砂浜の砂とは違う。

 

 水を含んで粘り、一度掴んだものを決して離そうとしない、執念深い重さがあった。

 

「腰が入ってねえんだよ、レオン。そんなんじゃ、日が暮れるまでに自分の墓穴も掘れやしねえ」

 

 ザッパは傍らの切り株に腰を下ろし、不味そうに細い煙草をくゆらせている。

 彼は手伝おうとはせず、ただ王子の無様な動きを嘲笑うためだけにそこにいた。

 

 一時間が経過し、太陽が昇る頃。

 レオンハントの掌には、すでに数箇所のまめが潰れ、そこから赤い血が滲み始めていた。

 

 汗が目に入り、視界が滲む。

 泥を跳ね飛ばすたびに、顔や髪が茶色く汚れ、かつての高貴な面影は瞬く間に消えていった。

 

 ふと、作業の合間に一人の村人が近づいてきた。

 昨日、ザッパが「放っておけば飢えて死ぬ」と言っていた村の男だ。

 

「……あんた、見かけない顔だな。ザッパの雇われか?」

 

「ああ。……今日から、手伝わせてもらうことになった」

 

 レオンハントは荒い息を整えながら、精一杯の愛想笑いを浮かべた。

 男は王子の震える手と、泥だらけの顔を交互に見て、どこか悲しげに目を伏せた。

 

「無駄なことを。……こんな山、一箇所掘ったところで、次の雨が来りゃまた埋まっちまう」

 

「それでも、掘らなければ道は繋がらないだろう」

 

「道が繋がったところで、役人が税を取りに来るだけだ。……あんた、もし本当に力になりたいなら、道具を買う金を恵んでくれねえか」

 

 男の声は、湿った土のように重く、逃げ場のない響きがあった。

 

「この先の町に、安く卸してくれる店があるんだ。まともなシャベルさえあれば、作業も早く終わる」

 

 レオンハントは、男の節くれ立った手を見つめた。

 その指先は泥に染まり、爪の間には消えない汚れが刻まれている。

 

 この男の言う通り、道具があれば状況は変わるかもしれない。

 そう考えたレオンハントは、腰の帯の裏側に隠し持っていた、自室の引き出しから持ち出した銀貨を一枚、男の手に握らせた。

 

「これで、一番いい道具を買ってきてくれ。……信じているよ」

 

 男は一瞬、弾かれたように顔を上げた。

 その瞳に宿ったのは、感謝ではなく、もっと暗く、卑屈な光だった。

 

 男は何度も頭を下げながら、小走りに現場を去っていった。

 それを見ていたザッパが、喉の奥でケタケタと笑い声を上げた。

 

「坊ちゃん、最高だぜ。今のあんたの顔は、どの喜劇役者よりも滑稽だ」

 

「……何が言いたいんだ」

 

「見てな。あの野郎が、道具なんて高級品を持って戻ってくるかどうかをな」

 

 レオンハントは答えず、再びスコップを土に突き立てた。

 

 昼を過ぎ、夕刻が近づいても、男が戻ることはなかった。

 

 代わりに、村の外れにある粗末な酒場から、下卑た笑い声と、安酒の匂いが風に乗って流れてきた。

 レオンハントが作業を止め、そちらを向くと、そこには先ほどの男がいた。

 

 男は銀貨を酒代に変え、仲間たちと博打に興じていたのだ。

 

「……あいつは、母親が病気だと言っていた。道具が必要だとも」

 

「嘘に決まってんだろ。この村じゃ、明日を信じるより、今の一杯の酒を信じる方が賢いんだよ」

 

 ザッパは立ち上がり、泥だらけのレオンハントの前に立った。

 その眼差しは、冷酷な現実を突きつける刃のようだった。

 

「あんたが与えたのは希望じゃねえ。ただの毒だ。……あいつは明日、また別の奴から銀貨を騙し取る方法を考えるだろうよ」

 

 レオンハントは、言葉を失い、立ち尽くした。

 

 掌の痛みよりも、胸の奥が焼けるように熱い。

 自分のしたことが、この国の土をさらに汚したというのか。

 

 だが、彼の目は曇らなかった。

 

 レオンハントは、震える手で再びスコップを握り直した。

 

「……ザッパ。明日、またここへ来る」

 

「……あ?」

 

「あいつが戻ってこないなら、私がその分まで掘るしかない」

 

 レオンハントの声は、弱々しかったが、折れてはいなかった。

 

「私は騙された。……だが、それを理由にこの泥を放り出すなら、私は本当に『浮かんでいるだけ』の存在になってしまう」

 

 ザッパは、毒づこうとした口を閉じ、不審そうに王子を睨みつけた。

 

 目の前の青年は、自分が思っていたよりもずっと愚かで、そして、ずっとしぶとい。

 

「……勝手にしろ。明日は今日より重い土を掘らせてやるからな」

 

 ザッパはそう吐き捨てると、乱暴に歩き出した。

 

 夕闇が迫る中、レオンハントはたった一人で、最後の一掻きを終えた。

 

 一週間の初日が終わった。

 エリオスに宛てる手紙の、最初の一行。

 そこには、己の未熟さと、拭いきれない思いが刻まれることになるだろう。



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