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2-4

 『ブルー・クレスト号』がアルセイオンの領海を抜けた。

 外洋へと差し掛かると、海の色が劇的に変わる。

 鮮やかなエメラルドから、底の知れない深い藍色へ。


 大航海時代の風を孕んだ帆船の生活。

 それは、王宮のそれとは正反対の場所だった。

 太陽が昇る前に、水夫たちの怒鳴り声が響く。


 彼らは素足で甲板を走り回り、板を磨き上げる。

 「ホーリー・ストーン」と呼ばれる過酷な作業だ。

 砂が板を削る乾いた音と、飛び散る飛沫。


 それは、船乗りにとっての神聖な儀式でもあった。

 レオンハントは、朝一番に甲板に出るのが常となった。

 ベニートからは、無闇に歩き回るなと釘を刺されている。


 だが、じっとしてはいられなかった。


「……重そうだな、それは」


 レオンハントは、太い麻縄を担ぐ若い水夫に声をかけた。

 水夫は驚いて足を止めた。

 王子の顔は知っていたが、こんな朝早くに会うとは思わない。


 上着を脱ぎ捨てた軽装の王子に、水夫たちは戸惑う。


「あ、いえ、王子。これはメインマストの予備索です」

「重いですが、仕事ですから」


「一人では難儀だろう。半分持とう」

「えっ、滅相もございません!」


 水夫が慌てて後ずさりしたが、レオンハントは笑った。

 彼は構わず、太い縄の端をひょいと肩に担ぐ。

 剣術の鍛錬で鍛えられた筋肉が、心地よく緊張した。


「ほう……王子、筋がいいですな」


 背後から声をかけたのは、甲板長のバッシュだった。

 顔中に深い皺が刻まれた、潮枯れた老水夫だ。


「バッシュか。船の仕事は驚きに満ちているな」

「すべてが重力と風との戦いなのだな」


「ははっ、理屈はそうです。ですが、理屈じゃ船は進みません」

「必要なのは、手のひらの硬いまめと、風を読む鼻です」


 バッシュは王子の掌を、大きな指で検分した。


「剣を振っている手だ。だが、船乗りの手じゃねえ」

「どうです、王子。少しは使い物になる手にしてみる気は?」


 イアンが側でハラハラした顔をしたが、王子は頷いた。


「ぜひ頼む。……だが、ベニートには内緒にしてくれ」


 その日から、レオンハントの実地研修が始まった。

 彼は王子という身分を忘れ、水夫たちに混じった。

 ロープの結び方を教わり、滑車に油を差す。


 帆の上げ下げのタイミングを、肌で学んでいく。

 最初は遠巻きに見ていた水夫たちも、次第に打ち解けた。

 何度失敗しても、彼はもう一度と食い下がる。


「王子の結び方じゃ、嵐が来たら真っ先に解けちまう!」


「すまない、もう一度だ。……今度はどうだ?」


「……まあ、合格点ですな。夜食を分けたいくらいだ」


 笑い声が甲板に響く。

 レオンハントは、彼らと食べる塩辛いスープを啜った。

 石のように硬いビスケットを、懸命に噛み砕く。


 そこには、宮廷にはない命の味がしていた。


 出航から三日目の夕刻。

 水平線の向こうに、重苦しいほど深い緑が現れた。

 アルセイオンの明るい岩肌とは違う、湿った大地。


 隣国、カスティアーノ公国である。


 船の空気が、ふっと変わった。

 水夫たちの冗談が消え、騎士たちは鎧を確認する。

 ベニートは、完璧に整えられた正装を抱えてきた。


「王子。遊びはここまでです」

「これより先は、アルセイオンの顔として振る舞いなされ」


 ベニートの言葉は、いつも通り厳しかった。

 だが、王子の手を見つめる目は、少しだけ和らいでいる。

 三日間の労働で、新しいまめが赤く腫れていた。


「わかっている、ベニート。着替えよう」


 イアンが地図を広げ、最終的な説明を行う。


「カスティアーノの入国審査は極めて厳格です」

「彼らは海を不浄なもの、厄災を運ぶものと考えています」


「海を厄災と見るのか……。我らとは真逆だな」


「ええ。ですが、それを否定してはいけません」

「彼らには彼らの、数百年続く理屈があるのです」


 レオンハントは、イアンの言葉を噛み締めた。

 自分の価値観が通用しない世界。

 それは、彼が望んでいた本当の旅の始まりだった。


 船は境界港『サン・テオドロ』に接岸した。

 そこには静謐な、張り詰めた空気が漂っていた。

 石造りの岸壁の上には、重厚な騎士たちが並ぶ。


 タラップが下ろされ、レオンハントが降り立つ。

 一歩、その土を踏みしめた瞬間だった。

 彼は、今までにない奇妙な感覚に襲われた。


 船の上で感じていた、自由な浮遊感が消える。

 地面が自分の足を、強く引き寄せているようだ。

 圧倒的な重さを、その身に感じた。


「レオンハント殿とお見受けする」


 騎士たちの間を割って、一人の老人が現れた。

 公国の外交儀礼を司る、執事のような男だ。

 立ち居振る舞いには、土地に根ざした者の鋭さがある。


「ようこそ、カスティアーノへ。公爵閣下がお待ちです」


 歓迎の言葉ではあったが、そこには明らかな壁があった。

 彼らの瞳の奥には、強い警戒の色がある。


「お迎えに感謝する」

「この大地の歴史に触れられることを、楽しみにしていた」


 レオンハントは丁寧に返した。

 馬車に乗り込み、港を離れる。

 車窓には、どこまでも続く豊かな麦畑が広がっていた。


 そこには、風に任せて帆を張る自由な姿はない。

 規律と忍耐の時間が、静かに流れている。


(エリオス……。私は今、別の理屈の中に立っている)


 レオンハントは、ポケットの日時計を握りしめた。

 この地で彼を待ち受けているのは、何だろうか。

 王子という称号を剥ぎ取られたとき、自分に何が残るか。


 初めての異国の時間が、今、始まろうとしていた。



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