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2-2

 遠乗りに向かうような軽装で、というわけにはいかない。

 一国の王子が隣国を公式に巡察するとなれば、それは動く外交官としての役割を担うことと同義だった。


 レオンハントの私室には、数棹の大きな革張りの長持トランクが運び込まれていた。

 そこには儀礼用の正装から、カスティアーノ公国の厳しい寒暖差に耐えうる厚手の外套、さらには贈答用のアルセイオン特産の香料まで、厳選された品々が詰め込まれていく。


「王子、この絹のシャツは予備を含めて三着。カスティアーノの宮廷では、一日に二度は着替えを求められる場面もございましょう」


 ベニートが、まるでお経でも唱えるような手慣れた手つきで荷を改めていく。

 対照的に、通訳官のイアンは、レオンハントが机の引き出しから取り出した「二つの品」を興味深そうに眺めていた。


「それは……美しい羽根ペンですね。それに、日時計ですか」


 レオンハントの手元にあるのは、母である王妃から贈られた、海鳥の白羽を用いた繊細な羽根ペン。そして、父王から手渡された、真鍮製の頑丈な携帯用日時計だった。


「ああ。母上は、旅の記録を欠かさぬようにとこれを。父上は、どこの異国にいてもアルセイオンと同じ太陽が時間を刻んでいることを忘れるなと、これを貸してくださった」


「実用的で、かつ象徴的ですな」


 イアンは微笑んだ。

 レオンハントにとって、この二つは単なる道具ではない。

 迷ったときに言葉を紡ぐための杖であり、自分の立ち位置を見失わないためのいかりでもあった。


「ベニート。儀礼用のマントだが、少し減らせないか。船の上では邪魔になるし、現地の町を歩くには目立ちすぎる」


 レオンハントの控えめな提案に、ベニートは目を険しくした。


「王子。身なりを整えることは、相手への敬意であると同時に、ご自身を守る盾でもあります。無体な要求はお控えください」


「わかっている。だが、私は『盾』の後ろに隠れていては、何も見えない気がするんだ」


 レオンハントの言葉には、不器用ながらも譲れない芯があった。

 彼はベニートの忠誠を信頼していたが、同時に、王族としての仰々しいマナーが、自分と「世界」の間に厚い壁を作っているようにも感じていた。


「……承知いたしました。では、移動用の軽便な外套を多めにする代わりに、晩餐用の正装を一着だけ減らしましょう。これが私の譲歩できる限界ですぞ」


「助かるよ、ベニート」


 レオンハントは苦笑いしながら、その堅物な侍従に礼を言った。

 彼は知っていた。ベニートの小言も、イアンの知識も、どちらも自分を支える両輪であることを。



 荷造りを終え、城全体が寝静まった頃。

 レオンハントは一人、中庭に面した回廊を歩いていた。

 そこへ、足音もなく近づく影があった。


「兄上、まだ起きておられたのですか」


 エリオスだった。

 彼は月明かりの下で、まるで自身が発光しているかのように透き通って見えた。


「ああ。……少し、風に当たりたくてな」


 二人は自然と、回廊の欄干に並んで寄りかかった。

 十五歳。背丈はもう、どちらが兄か弟か判別がつかないほどに並んでいる。


「カスティアーノ公国……。あそこは、我らアルセイオンとは正反対の国だそうです」


 エリオスが、独り言のように呟いた。


「あちらの貴族は土地を神聖視し、かなり閉鎖的な考えの人が多い。兄上の考えとは合わなさそうです」


「イアンからも聞いた。地続きの隣国なのに、考え方は海の向こうの国よりも遠いと」


「……兄上。一つ、お聞きしても?」


 エリオスが珍しく、言葉を選んでいた。

 レオンハントは静かに促す。


「何だ?」


「兄上は、なぜそこまで『外』に行きたがるのですか。この城にいれば、必要な知識はすべて揃います。国外では常識も変わるでしょうし、近隣国とはいえ船旅は危険もある。正直心配なのです」


 それは、合理性を重んじるエリオスらしい問いだった。

 レオンハントは少し考え、それから自分の大きな掌を見つめた。


「エリオス。お前は一度見ただけで、その花の形を完璧に覚えられるだろう。だが私は、何度も触れて、匂いを嗅いで、時には指に刺が刺さらないと、その花がどんなものか確信が持てないんだ」


 レオンハントは自嘲気味に笑った。


「書面の報告書は、誰かが『選別した真実』だ。でも、私は選別される前の、雑多で、汚れていて、けれど生きたままの真実を知りたい。それができない王は、いつか民の痛みを数字でしか判断できなくなる気がするんだよ」


 エリオスは沈黙した。

 自分の隣にいる男が、自分には決して真似のできない「深さ」へと潜ろうとしていることに、彼は畏怖に近い感情を抱いた。


「……兄上。お土産は、いりませんと言いましたが。一つだけ、頼んでもいいですか」


「ああ、何でも言ってくれ」


「カスティアーノの農民たちが、自分たちの国をどんな目で見ているか。……それを、教えてください。統計ではなく、兄上の目が見たままを」


「約束するよ。必ず、手紙に書こう」


 レオンハントは弟の肩を一度、力強く叩いた。



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