第712話 その先
そして部屋へ戻ると、ヴェゼルはふぅっと息を吐いた。
今日も朝から授業に始まり、魔道具研究会への入会、仲間たちとの夕食会と、慌ただしくも充実した?一日だった。
部屋へ戻ってようやく肩の力が抜ける。
「やっと落ち着けるな……」
そう呟きながら椅子へ腰を下ろすと、大きく背伸びをして凝り固まった身体をほぐした。
その様子を見ていたサクラも、同じように大きく伸びをする。
そして、当然のようにヴェゼルへ向き直った。
「ねぇ、ヴェゼル。私の寝巻き取ってよ」
ヴェゼルは苦笑しながら左手の収納箱を開く。その中から寝巻きを取り出してサクラへ手渡した。
「ありがと。ねぇ? 私の着替え、見たい?」
嬉しそうに受け取ったサクラは、その場で服を脱ごうとして――ふとヴェゼルを見る。
「はぁ……何を今さら」ヴェゼルは呆れたようにため息をついた。
そう言うと、くるりと背を向け、自分も制服を脱いで部屋着へと着替え始める。
背後ではサクラが寝巻きへ着替えている気配だけが聞こえてきた。
着替えを終えたヴェゼルは部屋の明かりを少し落とし、窓から差し込む月明かりだけが室内を淡く照らす程度にする。
柔らかな夜風が、少しだけ開けた窓から静かに吹き込んできた。
ベッドへ腰を下ろすと、一日の疲れがどっと押し寄せる。
「今日は疲れたな……」
思わずそんな本音が漏れた。このまま横になれば、すぐに眠ってしまいそうだった。
しかし、その時だった。寝巻き姿になっていたサクラが、不意に表情を引き締める。
ぴくり、と耳が動き、小さな眉がわずかに寄った。そして、嫌そうに顔をしかめながら小さく呟く。
「……嫌なやつが来たみたい」
その一言とほぼ同時だった。
閉じられていた窓の隙間から、一筋の淡い光が音もなく部屋の中へ滑り込んでくる。
月明かりとは違う、どこか神々しさを帯びた白い光。
それはまるで意志を持つかのように宙を漂い、静かに部屋の中央へと舞い降りていった。
光は部屋の中央へと静かに集まり、淡い輝きを放ちながら、ゆっくりと人の形を作り始める。
やがて光が収まると、そこには一人の妖精が静かに立っていた。
雪のように白く艶やかな長い髪。透き通るような白い肌。
澄み切った蒼い瞳は、まるで凍てつく湖面のように静かで感情を感じさせない。
光の妖精――ネリネである。その姿を見るなり、サクラは露骨に顔をしかめた。
「ちょっと! なんでまた来たのよ! 部屋に入るなら、ノックくらいしなさいよね!」
腰に手を当てて抗議するが、ネリネはまるで風の音でも聞き流すように、視線すら向けない。
そのままヴェゼルの前まで歩み寄ると、小さく一礼した。
「こんばんは、ヴェゼル様。本日は、アビー様から伝言を預かって参りました」
凛とした声は相変わらず抑揚が少なく、どこか事務的ですらある。
「アビーから?」
ネリネは静かに頷いた。
「『魔道具研究会へ入りたかったのですが、周囲が許してくれないかもしれません』とのことです」
ヴェゼルは少し寂しそうに笑う。
「そっか……」
今日、ベルエアから聞いた話を思い出す。教会は、自分が研究会へ入ることを強く警戒しているようだ。
だからこそ、アビーも自由には動けないのだろう。
「伝えてくれてありがとう。アビーにも、『気にしなくていいよ。本当は一緒に学びたかったけど、また機会はあるから』って伝えておいて」
「承知いたしました」
ネリネは短く頭を下げる。
そこでヴェゼルは、ふと思い出したように首を傾げた。
「そういえば、この前はランツェさんも一緒だったよね。今日は来ないんだね」
少し笑いながら続ける。「俺としては、その方がありがたいけど」
その瞬間だった。今までまったく表情を変えなかったネリネの口元が、ほんのわずかだけ動いた。
「……アビー様の逆鱗に触れました。前回、ランツェ殿がヴェゼル様へ口づけをしたことが露見いたしました」
「え?」
ネリネは淡々と続ける。
「もっとも、ご本人がアビー様へ報告されたようですが」
「…………」
ヴェゼルは何とも言えない表情になる。
「その結果、『しばらくヴェゼル様へ近付いてはなりません』と、アビー様より厳命されました」
「やっぱり怒られたんだ……」
思わず額に手を当てるヴェゼル。
ネリネは小さく頷いた。
「本日もランツェ殿は来る気満々だったようですが、アビー様より許可が下りませんでした」
そして、ほんの少しだけ口角を上げる。
「その後、ランツェ殿は部屋でしくしくと泣いておられました。……まあ、自業自得ではないかと思います」
その僅かな勝ち誇ったような表情に、ヴェゼルは思わず吹き出した。
「それは……なんというか、ご愁傷様だね」
「はい」短く返事をすると、ネリネはすぐに表情を元へ戻した。
「ですが、もし機会がございましたら、次回はアビー様ご本人をこちらへお連れしたいと考えております」
ヴェゼルは思わず身を起こす。「そんなことができるの?」
ネリネは静かに説明を始めた。
「何度もできることではありません。アビー様の護衛に、魔法への抵抗力があまり高くない者がおります。その者が夜番に当たる日であれば、一時的に隙を作れる可能性があります。もちろん危険は伴いますので、確約はできませんが」
ヴェゼルの表情が自然と明るくなる。
「それなら……ぜひ会いたいな」
四年間、一度もまともに話すことができなかった婚約者。ほんの少しでも会える可能性があるだけで、胸が温かくなった。
隣で聞いていたサクラも、嬉しそうに何度も頷く。
「そうね。私もアビーとはずっと会ってないもの。久しぶりにいっぱいおしゃべりしたいわ」
しかし、ネリネは相変わらず無表情のまま、淡々と言った。
「アビー様は、ヴェゼル様にはお会いしたいと仰っておりましたが、闇のあなたには何も仰っておりませんでした」
その一言で、サクラの眉がぴくりと動く。
「それ、関係ないでしょ! アビーがどう思ってるかじゃないの! 私が会いたいって言ってるのよ!」
頬を膨らませ、今にも机を叩きそうな勢いで声を張り上げた。
だが、ネリネは視線すら向けない。まるで最初からサクラの言葉など存在しなかったかのように、そのままヴェゼルへ向き直る。
「次に参りますのは、おそらく二週間後になります。時間は、本日よりも少し遅くなるかもしれません」
「分かった。待ってるよ」
ヴェゼルが頷く横では、「ちょっと! だから何で私だけ無視するのよ!」と、サクラがまだ抗議を続けていた。
それでもネリネは最後まで一切反応を示さない。まるで空気に話し掛けられているかのようだった。
しばらくサクラの文句が続いたあと、不意にネリネの視線がヴェゼルの左手へ向いた。
そこには、収納魔法の刻印が刻まれた収納箱が静かに収まっている。
ネリネはその刻印をじっと見つめ、やがて静かに口を開いた。
「……そういえば、闇のあなた」
ようやくサクラへ向けられた言葉だった。
「ヴェゼル様の収納魔法は、共振位相までは拡張されたようですね」
その蒼い瞳は収納箱から離れない。
「ですが……まだ、そこまでなのですか」
サクラは何も答えない。
ネリネは小さく息をついた。
「本当に、あなたは怠け者なのですね」
その瞬間だった。サクラの表情から、先ほどまでの子どもっぽい怒りがすっと消える。
代わりに現れたのは、ヴェゼルも見たことがないほど真剣な眼差しだった。
ネリネは静かな声で続ける。
「その先も、お教えになればよろしいでしょうに」
部屋に沈黙が落ちる。
やがてサクラは、ぽつりと呟いた。
「……ヴェゼルには、まだ早いのよ」
短い一言。それだけだった。
ネリネはしばらくサクラを見つめる。そして静かに目を閉じた。
「光の精様から伺っていた通り……あなたは、相変わらずなのですね…」
その言葉には責める色も怒る色もない。ただ事実を確認しただけのような、静かな響きだった。
「では、本日はこれで失礼いたします。また次の機会に…」
深く一礼すると、その身体は淡い光へと変わる。
光は静かに窓へ向かって流れ、夜空へ溶け込むように消えていった。
部屋に静寂が戻る。
ヴェゼルは隣に座るサクラへ視線を向けた。
「ねぇ、ネリネさんが言ってた『その先』って、何?」
サクラは答えなかった。
代わりに、そっとヴェゼルの肩へ身体を預ける。
小さな温もりが伝わってくる。しばらく黙っていたサクラは、ようやく小さな声で呟いた。
「……今は、まだ言いたくない」
その声は、どこか寂しげで、そして迷っているようにも聞こえた。
そう言うとサクラは、ヴェゼルの腕をぎゅっと抱き寄せる。
その仕草は甘えるようでもあり、何かを守ろうとしているようでもあった。
ヴェゼルは胸の内に疑問を抱えたまま、サクラの横顔を見つめる。
聞きたい。何が「その先」なのか。なぜ教えてくれないのか。
だが、その横顔は普段の無邪気なサクラとはまるで違っていた。笑顔は消え、そこには何か大きな決意を抱えたような表情があった。
その表情を見た瞬間、ヴェゼルはそれ以上問い掛けることができなかった。
部屋の灯りが消え、窓の外では静かな夜風が木々を揺らす。
二人はそれぞれ胸に異なる想いを抱えたまま、静かに眠りへと落ちていくのだった。




