第713話 休日
そして休日――。
ヴェゼルとプロフィアは、一か月ぶりにバネット商会へ帰ってきた。
裏口から建物へ足を踏み入れた、その瞬間だった。
「ヴェッェゼル様ぁぁぁぁっ!!」
勢いよく小さな影が飛び込んでくる。
「うわっ!?」
ヴェゼルは反射的に受け止めたものの、その衝撃で思わず一歩、二歩と後ろへよろめいた。
なんとか踏みとどまった――そう思った次の瞬間。
「ワォォン!!」
今度は大きな黒い影が飛びついてくる。さすがに二人分の勢いまでは支え切れず、ヴェゼルはそのまま床へ倒れ込んだ。
「ヴェゼル様ぁ……! もう、僕、ヴェゼル様成分が足りなくて倒れそうでした!」
アプローズは満面の笑みを浮かべながらヴェゼルの胸へ頬を押し当て、嬉しそうにすりすりと擦り寄せてクンカクンカと鼻を鳴らして思い切り匂いを吸い込んだ。
そのまま――。「すぅぅぅ……はぁぁぁ……やっぱりこの匂いです! 生き返ります!」
「いや、生き返るって……」
苦笑したヴェゼルへ、さらに追い打ちがかかる。
「ワフッ!」
ルドルフが顔へ覆いかぶさるように飛び乗り、べろん。べろん。べろん。遠慮なく顔中を舐め回し始めた。
「ちょっ、ルドルフ! やめてって!」
尻尾をぶんぶん振るルドルフはまるで聞いていない。
その勢いに、ヴェゼルは笑うしかなかった。
(……そういえば)ふと、先日のことを思い出す。
ランツェにも再会した途端に抱きつかれ、『ヴェゼル様の匂いです!』と言いながら、同じようにクンカクンカと匂いを嗅がれたばかりだった。
(俺って……そんなに匂いがするのかな)
自分ではまったく分からず、苦笑が漏れる。
しばらくしてアプローズを優しく引き離し、ルドルフの頭を撫でてようやく落ち着かせると、ヴェゼルは袖で顔を拭った。
犬に舐められた顔は、すっかりべとべとである。それでも笑みを浮かべ、二人へ向き直った。
「ただいま」
その一言だけで十分だった。
「ヴェゼル様ぁぁぁ……!」アプローズの目にみるみる涙が浮かぶ。
再びぎゅっと抱きつくと、震える声で言った。
「僕……毎日毎日毎日毎日毎日…ヴェゼル様が帰ってくる日を数えていました。もう離れたくありません……! いっそのこと、二人でどこか遠くへ駆け落ちしましょう!」
「いや、それはしないからね?」
ヴェゼルは苦笑しながら即座に返す。
その横ではルドルフまで、「くぅーん」と甘えるように鳴き、まるで「私も行く」と言いたげに尻尾を振っていた。
案の定、ルドルフの念話で「私が先よ!」と飛んでくる。
ヴェゼルは優しくアプローズの背中を撫でる。その温もりに安心したのか、アプローズは目を閉じ、小さく笑った。
ルドルフも嬉しそうに二人の周りを駆け回り、床を爪が軽快に叩く音が廊下へ響いていく。
その時だった。ヴェゼルの左右の胸ポケットから、小さな顔がぴょこんと飛び出す。
「いたたた……です!」「急に飛びつかないでよね!」
ジャスティとサクラだった。二人とも髪が少し乱れ、頬をぷくっと膨らませながらアプローズとルドルフへ抗議している。
「ご、ごめんなさい! つい嬉しくて……」
慌てて頭を下げるアプローズに、妖精たちもようやく機嫌を直した。
今回は妖精たちも、それぞれ別々に休日を過ごしている。
ルーミーはエストレヤとともにカジャールの公爵家の帝都別邸へ向かっていた。そこにはシェルパもいるため、ヴェゼルも安心して送り出すことができた。
一方、トールとタンクはフルフェンスと一緒に帝都の宿舎で一泊する予定である。
「命に代えても妖精たちは守る!」とフルフェンスは胸を張って宣言していたが、その言葉がどこまで信用できるのかは少々怪しい。
もっとも、ヴェゼルとプロフィアは出発前、何度も「よろしくお願いするね」と念を押していた。
妖精たちだけで別々の場所へ泊まりに行くのは今回が初めてだったが、当の本人たちは旅行へ出かける子どものようにはしゃぎ、目を輝かせていた。
ジャスティも本当はキャシュカイやニーヴァ、ラングラー、コーティナかダイナのところへ泊まりに行きたかったようだが、「今回はサクラと一緒ね」とプロフィアに宥められ、少しだけ名残惜しそうにしていた。
そんな仲間たちの楽しそうな姿を思い浮かべながら、ヴェゼルは久しぶりに帰ってきたバネット商会の温かな空気を胸いっぱいに感じるのだった。
その後もアプローズはヴェゼルの腕へぴったりと抱きついたまま離れようとせず、ルドルフも足元へ体を擦り寄せながら、嬉しそうに尻尾を振り続けていた。
(……暑苦しいなぁ)ヴェゼルは心の中でそう苦笑する。
もっとも、それだけ自分の帰りを待っていてくれたのだと思うと、邪険にする気には到底なれなかった。
「もう……二人とも……」
そう言って苦笑しながら、アプローズの頭とルドルフの頭を順番に優しく撫でる。
それだけでアプローズは花が咲いたような笑顔を浮かべ、ルドルフも喉を鳴らしながら気持ち良さそうに目を細めた。
そのままアプローズに腕を抱えられ、ルドルフを足元に従えたまま、ヴェゼルとプロフィアは応接間へ向かうのだった。
応接間へ入ると、慣れ親しんだソファへ腰を下ろした。ほどなくして扉が開き、祖父のベンティガがゆっくりと姿を現す。
「お帰り、ヴェゼル殿」
穏やかな笑みを浮かべる祖父のベンティガに、ヴェゼルも自然と笑顔になった。
「ただいま戻りました」
「うむ。元気そうで何よりだ」
短いやり取りだけだったが、それだけで十分だった。家へ帰ってきたのだという実感が胸に広がる。
しばらくすると、再び扉が開いた。
「待たせたな」ルークスである。
その後ろには、トレノが静かに控えていた。「お帰りなさいませ、ヴェゼル様」
普段は感情をあまり表に出さないトレノだったが、その表情はどこか柔らかく、久しぶりの再会を喜んでいることが伝わってくる。
ルークスは席へ着くなり、一通の封書を取り出して軽く振ってみせた。
「先週、ビック領から手紙が届いたぞ」
その一言で、ヴェゼルの視線が封書へ向く。
「オデッセイ姉さんとアクティ、それにアリアちゃん達が進めていた美容化粧品の開発だが、どうやら試作品がいくつか完成したらしい」
そう言いながら、もう一通の封書も取り出した。
「それから、こちらはプロフィアさん宛だ。ご両親から預かっている」
「ありがとうございます」プロフィアは丁寧に頭を下げ、封書を受け取る。
ヴェゼルも自分宛の手紙を手に取ると、差出人の筆跡へ目を留めた。
「母さんからかと思ったけど……この字はアクティだな」
どこか見慣れた、丸っこい可愛らしい文字だった。
その様子を見て、ルークスが小さく笑う。
「ぜひヴェゼルたちにも……もちろんプロフィアさんにも試してもらって、率直な感想を聞かせてほしいそうだ。実際に使う人の意見を、今後の改良へ活かしたいらしい」
「もう完成したんだね。思ったよりずっと早いな」
ヴェゼルの表情がぱっと明るくなる。
オデッセイとアクティが中心となり、土の精霊まで巻き込みながら進めていた研究である。
順調に進んでいるとは聞いていたものの、まさかここまで短期間で試作品が完成するとは思っていなかった。
ヴェゼルは期待に胸を膨らませながら封書を開く。
そこには家族がどのような想いで開発を進め、どんな化粧品を目指したのか、そのすべてが記されているはずだった。
手紙を読み進めていくと、途中で筆跡が変わる。
「……母さんだ」
流れるような美しい文字。きっとここからはオデッセイが書き加えたのだろう。
しかし、そこに綴られていたのは、新製品の説明だけではなかった。
ビック家が、近年ずっと直面している深刻な問題についても、詳しく記されていた。
そこには、こう書かれていた。
ビック領の魔道具が帝国中で高い評価を得るようになるにつれ、それを真似た模倣品や粗悪品、さらには紋章まで偽装した偽物が、市場へ数多く出回るようになったという。
ビック家の魔道具には、内部構造を解析されることを防ぐため、幾重にも秘匿刻印が施されている。
一定以上の分解を試みると刻印が作動し、重要な術式だけを炭化させる防護機構まで組み込まれていた。
そのため、無理に分解した魔道具は二度と元には戻らない。
ところが、その仕組みを知らない者、あるいは知った上で無理やり分解した者が、炭化して壊れた魔道具をそのまま各地のバネット商会へ持ち込み、「買ったばかりなのに壊れた」と苦情を申し立てることも珍しくないという。
さらに悪質なのは、ビック家の紋章まで精巧に真似た偽物だった。外見だけは本物らしく作られているものの、中身は粗悪そのもの。
性能も耐久性も本物には到底及ばず、故障や事故も後を絶たない。
本来、ビック家の魔道具は、各地のバネット商会を通じて販売されるか、あるいは高位貴族にはバネット商会の従業員が直接赴き、使用方法や注意点まで説明した上で引き渡している。
しかし、その販売方法は一般にはあまり知られていなかった。
市場へ流れた品を見て、「ビック家の魔道具だ」と思い込み、別の商人から購入する者も少なくない。
もちろん一般の客には、本物と偽物を見分ける術などない。だからこそ、不良品を手にした客が真っ先に駆け込むのは、帝都のバネット商会だった。
「ビック家の商品はすぐ壊れる」「品質が落ちたのではないか」「昔ほど良い品ではなくなった」
そんな身に覚えのない苦情は、数年前に発売した魔道具が帝国各地へ広まり始めた頃から少しずつ増え始め、今では毎日のように持ち込まれているという。
店員たちは、その都度、本物か偽物かを一つ一つ確認し、事情を説明しなければならない。
それだけで、多くの人手と時間を費やしていた。その結果、ビック家はここ半年以上、新たな魔道具を市場へ送り出すことを見送っていた。
新しい技術を発表すれば、それだけ新たな模倣品を生み出す隙を与えてしまう。
今のビック家にとって最大の課題は、優れた魔道具を作ることではなく、その技術と信頼を、いかに守り抜くかだったのである。
手紙には、さらにこう続いていた。
『最近、一番頭を悩ませているのは、技術を盗もうとする人が本当に増えたことです』
『新しい魔道具を発表するたびに、それを分解しようとする人が現れます。職人へお金を積んで製法を聞き出そうとする人、工房へ忍び込ませる密偵までいます』
『昔は盗賊から領地を守れば良かったのですが、今のビック家が守らなければならないのは、技術そのものなのかもしれません』
ヴェゼルは思わず苦笑した。確かに、それだけビック家の技術が世の中へ認められた証でもある。
だが、それだけ厄介な相手が増えたということでもあった。
手紙はさらに続く。
『その象徴が、ガラスです』
『私たちの透明ガラスと同じ品質のものは、まだ帝国内にはありません。でも、最近は他領でもガラス作りを始める工房が増えてきました』
『どうやら、どこからかビック領の製法の一部が漏れてしまったようです。まだ完成度は遠く及びませんが、少しずつ真似され始めています』
そこで一行、少し間を空けて書かれていた。
『だから、新しい化粧品は今までと同じ売り方にはしません』
ヴェゼルは自然と続きを読み進める。
『容器には、ビック家の透明ガラスを使います。そして販売は対面だけ。使い終わったら瓶を返していただき、新しい中身と交換する方式にするつもりです』
『そうすれば瓶だけが市場へ出回ることはありませんし、容器ごと真似される危険も減らせます』
『それに、これは肌へ直接使うものです。もし粗悪な偽物が出回れば、人を美しくするどころか、傷つけてしまいます』
『だから、一人一人のお客様と直接お話しし、その人の肌に合ったものをお渡ししたいと思っています』
『将来は、年齢や肌質、その日の肌の調子まで考えて調合することも目標です』
そこまで読んだヴェゼルは、小さく感心した。オデッセイは化粧品を作っているのではない。
「どうすれば本当に安心して使える商品になるのか」
その仕組みそのものを考えているのだ。
それは、単なる化粧品ではなかった。
これまで化粧とは、身分や家柄を示し、儀礼や社交の場で美しく装うためのものだった。
しかし、ビック家が目指す化粧品は、その考え方そのものが違っていた。美しさとは、ただ色を重ねて飾ることではない。
肌を健やかに保ち、乾燥や荒れから守り、その人本来の美しさを引き出すこと。
毎日を心地よく過ごし、人前でも自信を持って笑えるようになること。
そして、自分自身を大切に思えるようになること。
それこそが、本当の意味で人を美しくするのだと、オデッセイは考えていた。
だからこそ、化粧品は一部の貴族だけが楽しむ贅沢品ではない。
人々の暮らしを豊かにし、人生をより良いものへ変えていくための品なのだ。肌を守ることは、健康を守ることでもある。
健やかな肌は心にも余裕を生み、日々の生活に小さな自信や彩りを与える。
オデッセイが見据えていたのは、単なる「美しく見せるための商品」ではなく、人が健やかに生きるための新しい文化だった。
手紙には、さらにこう記されていた。
『今は肌を整える化粧品から始めます。しかし、いずれは強い日差しや乾いた風から肌を守るもの、年齢とともに変化する肌を健やかに保つもの、傷んだ肌を労わるものなど、人が生涯を通して健やかに暮らす助けとなる品へ広げていきたいと思っているわ』
その発想は、もはや化粧品という枠だけには収まらない。
「人が健やかに、美しく、そして幸せに生きるための品を創る」
それこそが、ビック家が新たに掲げた理念だった。
だから彼らが売ろうとしているものは、瓶に詰められた化粧品だけではない。
安心して使える品質。一人一人の肌に寄り添う調合。長く使い続けられる信頼。
そして、使う者の人生を少しだけ豊かにするという約束。
それらすべてを含めて、一つの商品なのだ。
――ビック家でしか買えない価値。
それこそが、オデッセイとルークスが目指した、新しい化粧品の在り方だった。
しかし、本来オデッセイが最初にこの化粧品を届けたいと考えていた相手は、高位貴族ではなかった。
毎日家事に追われる母親。朝から晩まで働く町娘。日に焼け、風にさらされながら、それでも懸命に暮らす市井の女性たち。
そうした人々こそ、本当に肌を労わる品を必要としているのではないか。
それが、開発当初から変わらぬオデッセイの想いだった。だが、理想だけでは世の中へ広げることはできない。
もし最初から安価に大量販売すれば、必ず粗悪な模造品が現れる。
見た目だけを真似た偽物が市場に溢れれば、品質の悪い品によって肌を傷める者も出るだろう。
そして人々は、それが偽物だとは知らず、「ビック家の化粧品は肌に悪い」「高いだけで効果がない」そんな誤った印象を抱いてしまう。
一度失われた信頼を取り戻すことは、どれほど良い品を作り続けても容易ではない。
だからこそ、ルークスはオデッセイやフリードと何度も話し合い、一つの結論へ辿り着いた。
まずは、品質を正しく理解し、その価値を見極められる高位貴族へ向けて販売する。
ただ売るのではない。使い方や保管方法まで丁寧に説明し、その人の肌に合わせた品を提供する。
そして実際に使った者たちの評価を積み重ね、「ビック家の化粧品は安心して使える」という確かな信頼を帝国中へ広げていく。
その土台が築かれて初めて、市井へ届ける。それが、一見すると遠回りに見えても、最終的には最も多くの女性を守る道なのだと考えたのである。
オデッセイは手紙の最後に、こう記していた。
『私たちが売りたいのは、高価な化粧品ではないのよ。女性が安心して使える未来。その未来を守るためなら、急いで広めるよりも、まず信頼を築くことを選びます』
その一文を読み終えたヴェゼルは、しばらく黙っていた。
利益だけを考えるなら、もっと早く、もっと大量に売る方法はいくらでもある。しかし、ビック家が選んだ道は違った。
目先の利益ではなく、十年先、二十年先、さらにその先まで続く信頼を作ろうとしている。
商品ではなく、価値を売る。物ではなく、未来を作る。
その理念の深さに、ヴェゼルは改めてビック家という家の強さを感じるのだった。読み進めるうちに、ヴェゼルは思わず感心していた。
最初に「化粧品という概念そのものや模倣されにくい商品を考えた方がいいかもしれない」と何気なく話したのは自分だった。
しかし、その一言を受け止め、商品の方向性を定め、開発へ落とし込んだのはオデッセイであり、それをどう利益へ結び付け、模倣品を排除しながらブランドとして育てるかを練り上げたのはルークスだった。
二人は単に良い商品を作ろうとしているのではない。
品質、販売方法、容器、顧客との関係、そのすべてを一つの仕組みとして組み上げ、ビック家にしか真似できない事業へ昇華させようとしている。
その完成度の高さに、ヴェゼルは小さく息を漏らした。
「母さんたち……もうここまで考えていたんだな」
自分が思い描いた以上に、家族ははるか先を見据えて歩き始めている。
そう実感したヴェゼルは、手紙の続きを読む手に、自然と力が入るのだった。
その頃――当のフリードはというと。
朝は日課となった鍛錬に励み、庭で一人、黙々と剣を振っていた。鍛錬だけは欠かさない。
だが、それが終わけば、その日の予定は見事なまでに空白だった。
「……ヴィータ、パパと一緒に遊ばないか?」
屋敷の庭で遊ぶ娘へ声を掛ける。しかし、返ってきたのは無情な一言だった。
「ぱぱ、クチャいから、いや!」
「……」
剣では誰にも負けない男が、その一言だけで膝をつくほどの衝撃を受ける。
「そ、そうか……」
肩を落とすフリードをよそに、ヴィータはソニアと手を繋ぎ、セリカに微笑ましく見守られながら、楽しそうに駆けて行ってしまった。
気を取り直して研究室を覗いてみる。このところ、オデッセイは朝から晩まで研究漬けだった。
アクティやアリアとともに新しい化粧品の試作を繰り返し、時折、土の精霊の研究室へ足を運んでは助言を受け、また机へ戻る。
「オデッセイ。少し話でも――」
「はい? あとで聞きますわ」
返事はあった。だが視線は一度もこちらを向かない。
紙へ何やら書き込みながら、そのまま研究へ戻ってしまった。
「……忙しそうだな」
今度はプレセアの姿を見つける。
「プレセア」
「はい、フリード様」
「少し時間は――」
「フリード様、ちょっとシャノンちゃんを見ていてくださいな」
そう言うなり、プレセアはヴィータとソニアを連れ、領都の商店街へ出掛けてしまった。
残されたのは猫のシャノンだけである。
「シャノン、おいで」
フリードは膝へ抱き上げ、できるだけ優しく頭を撫でようとする。
しかし。「みぎゃっ!」
どうやら鍛え上げられた大きな手は、猫には少々ごつごつしすぎていたらしい。
シャノンは迷惑そうにフリードを一瞥すると、するりと膝から飛び降り、そのままどこかへ歩いて行ってしまった。
「……難しいな」
肩を落としたフリードは、最後の頼みの綱とばかりに、大皿いっぱいのお茶菓子を抱えて工房へ向かう。
「おーい、土の精霊さん。少し休憩にしないか」
その一言で、土の精霊は研究の手を止め、のそのそと歩いてきた。
「お菓子か?」
「今日は焼き菓子だぞ」
「それなら休憩でもしようかの」
土の精霊はあっさり席へ着き、お茶菓子をもぐもぐと食べ始める。
ようやく話し相手を見つけたフリードは、安堵したように椅子へ腰を下ろし、大きくため息をついた。
「聞いてくれ……最近、誰もわしの相手をしてくれんのだ」
土の精霊は菓子を頬張りながら、一言だけ返した。
「知らん」
「いや、聞いてくれ。ヴィータには臭いと言われ、オデッセイは研究ばかり、プレセアも領政が忙しい。シャノンにまで逃げられたのだぞ。昔はもっと家族団らんというものがあった気がするのだ」
「ふーん」
「ヴェゼルまで帝都へ行ってしまったしなぁ……」
土の精霊は返事もそこそこに、菓子を食べ終えると、「ごちそうさま」とだけ言い残し、何事もなかったように机へと向かう。
それでもフリードは気にしない。いや、気付いていない。
誰も聞いていない工房の中で、一人黙々と愚痴を続けていた。
「それでな……」
「最近は誰も……」
「俺もまだ若いと思うのだが……」
どれほど話し続けただろうか。ようやくフリードは満足したように大きく頷いた。
「うむ。少しすっきりしな」
どうやら最近の彼の日課は、お茶菓子と引き換えに土の精霊へ愚痴を聞いてもらう――いや、正確には勝手に愚痴を話すことらしい。
そんな少し寂しく、どこか平和な毎日が、今のフリードの日常になっていた。
ふと窓の外を眺め、フリードはぽつりと呟く。
「……こんなに暇になるのなら、俺もヴェゼルと一緒に帝都へ行けばよかったかなぁ…」
その呟きに返事をする者は、誰一人としていなかった。
フリード父さん、フリじゃないですからね?
何もしてないけど、領主が自領を空けるなんて。。
今回は長文です。
これからは、週3回以上の更新を目指して頑張ります!




