第706話 ビアンテ・パロ・プレグンタ
授業を終えたビアンテ・パロ・プレグンタは、そのまま学院の寮へ戻っていた。
石造りの階段を上がり、三階の一番奥にある部屋の前で足を止める。
一度だけ大きく息を吐くと、扉を軽く叩いた。
「……ビアンテです」
「入れ」
中から落ち着いた少年の声が返ってくる。ビアンテは扉を開き、部屋へ入った。
部屋の中央には、メガーヌ・ラエモンス・バルカン皇子が椅子へ腰掛けている。その背後には数名の側近たちが控えていた。
ビアンテは一礼すると、勧められるまま向かいの椅子へ座る。
メガーヌは早速口を開いた。
「どうだったのだ?」
短い問いだった。何を聞きたいのかは分かっている。
ビアンテは少し考え、静かに答えた。
「ヴェゼル・パロ・ビック殿ですが……人の意見をきちんと公平に聞き、それを自分の中で咀嚼し、必要であれば受け入れた上で判断できる人物だと感じました」
メガーヌは表情を変えない。ただ、続きを促すように視線だけを向ける。
「今回の授業でも、非常に興味深い提案をしておりました」
ビアンテは言葉を続ける。
「新しい発明や技術には、一定期間だけ考案者へ権利を認める制度を作る――という内容です」
部屋の空気が少しだけ静まる。
「将来的には各国共同の中立機関が管理し、それまではフォルツァ商業連合国が橋渡しを担うという構想でした。もし世界規模で制度として整備されれば、新しい技術や発明は今よりもはるかに生まれやすくなるでしょう。世界そのものを一段上の段階へ押し上げる可能性すらある提案だと、私は感じました」
その言葉が終わるや否や、背後に控えていた一人の男子生徒が鼻で笑う。
「ふん。あの悪名高いビック家の嫡男が、そこまで優秀なものか」
露骨に馬鹿にした口調だった。
「学院へ来た途端、留学生の令嬢たちへ片っ端から声を掛けているというではないか」
肩を竦める。
「昼の食堂でも見たぞ。周囲は見目麗しい娘ばかり。その中にはエストレヤ様までいたというぞ」
呆れたように鼻を鳴らした。
「あの歳で色惚けとは、将来が思いやられるな」
部屋の何人かが嘲笑する。帝国の高位貴族社会では、ビック家の悪評は半ば常識になっているのだ。
これ以上反論しても意味はない。そう判断し、ビアンテは黙った。
ビアンテ・パロ・プレグンタは、帝国男爵家の嫡男である。
父はもともとベントレー公爵派ではなく、自然とその対立派閥へ属していた。
年齢が近かったこともあり、ビアンテ自身もメガーヌの側近となっている。
もっとも、周囲の側近たちはメガーヌへ媚びへつらう者ばかりだった。
ビアンテとはあまり気が合わない。
だからといって派閥を離れることもできない。
ビアンテの父は、メガーヌの祖父であるマウンテニア・フォン・ヘラルド侯爵派なのだから。
そんな中で唯一、メガーヌだけはビアンテの公平な物の見方を評価していた。
しばらく考えていたメガーヌが、再び口を開く。
「では、世間へ流れているヴェゼルの悪評については、どう見ている?」
ビアンテは少しだけ考えてから答えた。
「女好き――いわゆるスケコマシという噂についてですが……女性に好かれるのは事実でしょう」
周囲が顔をしかめる。
しかしビアンテは構わず続けた。
「ヴェゼル殿の見た目が非常に整っておりますし、どちらかと言えば女性的な柔らかさがあります。初対面でも警戒されにくいのでしょう。それだけではありません」
「何より聞き上手です。女性は話を聞いてもらうことを好む方が多い。その点、ヴェゼル殿は相手の話を途中で遮らず、最後まで聞いております」
「ですから女性が自然と集まるのでしょう。ですが、自ら積極的に口説いて回る人物には、私には見えませんでした」
部屋が静まり返る。
「むしろ、周囲が勝手に集まっている印象です。もっとも、その光景だけを見れば、噂になるのも理解できますが」
小さく肩を竦めた。
「昔あった鬼謀童子という異名につきましては……」
一瞬だけヴェゼルの姿を思い浮かべる。
「あながち間違いではないかもしれません。ただし、それは残忍という意味ではなく、常人には思い付かない発想を持つ、という意味で、ですが」
メガーヌは静かに目を閉じ、小さく呟いた。
「なるほど……祖父上も、叔父上――宰相エクステラ殿も、ビック家とヴェゼルをことのほか警戒しておられる」
腕を組み、しばらく思案する。
「本来なら、あれほど優秀で、しかも年齢の近い者ならば、ぜひ私の傍へ置いておきたい人材だ」
だが、すぐに苦笑を漏らした。
「しかし、シェルパ義兄上とも、エストレヤとも近しい関係にある。祖父上たちが危険視するのも理解できる」
窓の外へ視線を向ける。夕暮れに染まる学院を眺めながら、小さく息を吐いた。
「……実に困った人物だな」
やがてメガーヌはビアンテへ向き直る。
「引き続き、ヴェゼルの周辺を探れ」
短い命令だった。
「承知いたしました」
ビアンテは静かに頭を下げると、椅子から立ち上がり、そのまま部屋を後にした。
廊下へ出ると、自然と足が止まる。誰もいない静かな廊下。
ビアンテは窓の外を眺め、小さく独り言を漏らした。
「……さて、僕はこれからどう動くべきかな」
ヴェゼル・パロ・ビック。あの少年は、本当に噂どおりの危険人物なのか。
それとも――。
「自分の目で見極めるしかないか」
そう呟くと、ビアンテは一階にある自室へ向かって歩き出した。
その背中を、廊下の奥から静かに見つめる視線があった。
柱の陰。夕闇と一体化するように立つ一つの影。ビアンテは、その存在にまったく気付いていない。
影は静かに口元を緩めた。
「……なるほど。思っていた以上に、面白いことになっている」
誰に向けた言葉でもない。ただ、その声だけが闇へ溶けていく。次の瞬間。影は音もなく姿を消した。
学院の水面下では、それぞれの思惑が静かに動き始めていた。
まだ誰も知らない。
闇に消えたその一言が、静かに運命の歯車を回し始めていた。
その先に待つのは、学院だけでは終わらない。
帝国全土を震撼させる幕開けであることを。




