第704話 ソラーラ・チェロキー
授業が終わり、生徒たちが次々と教室を後にしていく中、ソラーラは廊下で静かにヴェゼルが出てくるのを待っていた。
待ちながら、自然と四年前のことを思い出した。
あの日、大好きな姉のプレセアが、ソニアとの旅を終えてフォルツァへ帰ってきた時のことだ。
帰宅した姉は荷物を置くよりも先に、父ファスターの前へ立ち、満面の笑みでこう言い放った。
「お父様! 私、ビック家へお嫁に行きます!」
あまりにも突然の宣言だった。その場にいた者たちはもちろん、ソラーラも思わず耳を疑った。
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
ビック家。
その名を聞いた瞬間、真っ先に頭へ浮かんだのは、帝国中で悪名ばかりが広まっていた嫡男、ヴェゼル・パロ・ビックのことだった。
女と見れば年齢も身分も構わず口説き落とす。妖精にまで「自分のものだ」と言い張る。弱い相手には容赦なく暴力を振るう暴れ者。
商人たちの間では、そんな噂ばかりが一人歩きしていた。
そんな尾ひれの付いた噂が、フォルツァにまで届いていたのである。しかも、そのヴェゼルはソラーラとほぼ同い年だと聞いていた。
「まさか……」
ソラーラの胸に嫌な予感が走る。
――姉さんまで、あの子供に騙されたのか。
そう思った瞬間、ヴェゼルという人物への印象は最悪のものへと変わった。
年齢の離れた姉にまで手を出すような男など、到底許せるものではない。
怒りさえ込み上げてきた。だが、その後に続いたプレセアの話は、ソラーラの予想をさらに上回るものだった。
プレセアが嫁ぐ相手はヴェゼルではない。
ビック家当主、フリード・フォン・ビック。しかも、正妻ではなく側室として嫁ぐというのである。
その話を聞いた瞬間、ソラーラの中で今度はヴェゼルではなく、ビック家そのものへの怒りが一気に膨れ上がった。
フォルツァを代表するチェロキー家の娘を、側室として迎えようなど――。
ソラーラには、それがビック家の傲慢さ以外の何ものにも思えなかった。
フォルツァ商業連合国において、チェロキー家は大評議長を務める家であり、実質的な国家元首の一族でもある。さらにチェロキー商会も国内屈指の大商会であり、その名を知らぬ者はいない。
その長女であるプレセアが、遠く離れたバルカン帝国へ嫁ぐ。
それだけでも大事件だった。
まして相手は、帝国でも辺境にある、悪名ばかりが先行する貧しい騎士爵家の領主。
本来であれば、両家の使者が何度も往復し、家同士の顔合わせを重ね、婚約から婚姻まで何カ月、場合によっては一年以上かかっても不思議ではない。
それが何もない。親族同士の正式な挨拶すらない。
ただ「結婚します」の一言で話が進んでしまったのだ。
ソラーラには到底受け入れられなかった。しかも、耳に入ってくるビック家の噂は、どれも胡散臭いものばかりだった。
百で五千を破った。たった三人で教国との戦争に勝利した。
そんな与太話のような噂が、商人たちの間でもまことしやかに語られている。
さらに嫡男ヴェゼルについても、まともな話は一つも聞かなかった。
女と見れば年齢も身分も構わず口説き落とす。妖精にまで「自分のものだ」と言い張る。
弱い相手には容赦なく暴力を振るう暴れ者。そして、とにかく女好きのスケコマシ。
商人たちの酒席では、そんな話ばかりが流れていた。
「そんな家へ姉さんを嫁がせるなんて、絶対に反対だ」
当時のソラーラは、本気でそう思っていた。だからこそ、父が婚姻を断るものだと信じて疑わなかった。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
応接間で、父ファスターはしばらく目を閉じたまま考え込んでいた。
そして静かにプレセアへ尋ねた。
「プレセア。それで本当に良いのだな。お前は、その結婚で幸せになれると心から思っているのだな」
「はい」
迷いはなかった。プレセアは、いつもの明るい笑顔で頷いたのだ。
「私はフリード様と結婚することが、一番幸せになれる道だと信じています」
その言葉を聞いた瞬間、ソラーラは父が反対すると確信した。
だが――。
「そうか。ならば認めよう」
ファスターは静かに頷いた。
「父上!?」
思わず声を上げたソラーラを制するように、ファスターは続ける。
「お前の人生だ。お前自身が選んだ道なら、私は親として応援するぞ」
少し笑みを浮かべる。
「それに、ビック家との縁は、我がチェロキー商会にとっても、フォルツァ商業連合国にとっても大きな意味を持つ。婚姻を認めよう」
あまりにもあっさり決まってしまった。
ソラーラだけが納得できず、その場で拳を握り締めていた。しかし、それで終わりではなかった。
プレセアはさらに父へ願い出る。
「一つお願いがあります。大評議長の家の長女として正式な婚姻を進めれば、準備だけで何カ月もかかってしまいます」
少し照れ臭そうに笑う。
「でも私は、一人の女の子として、一日でも早くフリード様のところへお嫁に行きたいんです」
その願いには、さすがのファスターも難しい顔をした。
「それでは外聞が立たぬ。親族への説明も必要だ。商会も動かねばならん」
だが、プレセアは譲らなかった。
「お願いします。私は家のためではなく、自分の幸せとして嫁ぎたいんです」
その真っ直ぐな願いに、最後は父も折れた。
「……分かった。そこまで言うのなら、お前の望みどおりにしよう」
そこからのプレセアの行動は驚くほど早かった。もともと決断すれば一直線に動く姉だ。
ソラーラが満足に話をする時間もないまま、一週間後には荷をまとめ、従者のソニアとビック家へ旅立ってしまったのだった。
プレセアが旅立つ前日の夕暮れだった。
ソラーラが自室でぼんやりしていると、控えめなノックの音が響く。
「ソラーラ、入ってもいい?」
聞き慣れた声だった。
「姉さん?」
扉を開けると、旅支度を終えたプレセアが、少し申し訳なさそうな笑顔で立っていた。
「準備や挨拶で毎日ばたばたしてしまって、あなたとゆっくり話す時間も作れなかったわ」
そう言って椅子へ腰を下ろす。
ソラーラも向かいへ座ったが、何を話せばいいのか分からなかった。
しばらく静かな時間が流れる。やがてプレセアが、どこか寂しそうに微笑んだ。
「本当なら、お母様が早く亡くなった分、私があなたのお母さん代わりになって、大人になるまで見守ってあげたかったのだけれど……ごめんなさいね」
少し目を伏せる。
その言葉に、ソラーラは首を横へ振ることもできなかった。
するとプレセアは、ふと思い出したように柔らかな笑みを浮かべた。
「そうだわ。ビック家のヴェゼルさん、少し変わった子だけれど、とても良い子なの。あなたも、いつか会えばきっと分かると思うわ」
その一言だった。
ソラーラの胸の奥で、何かが引っ掛かった。(……どうして)理解できなかった。
姉は明日、この家を出ていく。もう家族として一緒に暮らすことはない。
そんな最後の夜だというのに、どうして口にするのはビック家の話なのだろう。
どうして、自分ではなく、まだ会ったこともないヴェゼルという少年のことを気に掛けるのだろう。
まるで、もう自分よりも、あちらの家の人たちを大切に思っているのだと告げられたような気がした。
もちろん、そんなつもりで言った言葉ではないことくらい、頭では分かっている。
それでも、その時の幼いソラーラには受け止め切れなかった。
(俺から姉さんを奪った家の奴と……仲良くしろっていうのか)
胸の中へ黒い感情が沈んでいく。悔しかった。寂しかった。
そして、少しだけ裏切られたような気持ちになった。何か言い返そうと思った。
「そんな奴と仲良くなんてできない」と。「嫌だ」と。「行かないで」と。
そう言えばよかったのかもしれない。だが、喉まで出かかった言葉は、一つも声にならなかった。
ただ俯き、膝の上で拳を握り締めることしかできない。
そんな弟の様子を見て、プレセアも何かを察したのだろう。
何度か口を開きかけ、結局何も言わず、小さく微笑むだけだった。
「……それじゃあ、おやすみなさい」
静かに立ち上がり、部屋を出ていく。扉が閉まる音だけが、部屋に残った。
そして翌朝。旅立つプレセアは、最後に一度だけソラーラへ視線を向けた。何か言いたげな、どこか痛ましそうな表情だった。
だが、ソラーラは最後まで顔を上げることができなかった。
結局、ろくに別れの言葉も交わせないまま、プレセアはソニアと共にフォルツァを後にした。
馬車の音が聞こえなくなるまで、ソラーラは俯いたまま動くことができなかった。
しかし、あの日言えなかった言葉だけは、四年経った今もなお、胸の奥へ残り続けていた。
本来であれば、結婚後に落ち着いた頃、フリードを伴ってフォルツァへ挨拶に来る予定だった。
だが、結婚して間もなくプレセアの妊娠が分かり、そのまま娘のヴィータが生まれた。
さらに領地経営も重なり、その話は自然と立ち消えになってしまう。
結局、フォルツァとビック領はあまりにも遠く、チェロキー家とビック家は、正式に顔を合わせる機会を失ったままだった。
しかもプレセア自身が「形式ばった顔合わせは必要ありません」と断ったこともあり、そのまま月日だけが流れていった。
頭では、それが姉自身の望んだ結婚だったと分かっている。
それでもソラーラには、結果としてチェロキー家がビック家から軽んじられたように感じられ、その思いは拭えなかった。
だから、ビック家は嫌いだった。
ヴェゼルも嫌いだった。
学院へ入学してからも、その思いは変わらない。
入学試験では第三騎士団長と対立し、第三騎士団長が命を落とした。
詳しい事情は知らない。だが、ソラーラには「またビック家が何かやった」としか映らなかった。
昼の大食堂では、噂どおり多くの少女たちに囲まれている姿も目にした。
――やはり噂どおりの男だ。
最初は、そう思っていた。
だから初めて顔を合わせた時も、思わず睨んでしまった。だが、学院で日々過ごすうちに、その印象は少しずつ崩れていく。
教室で見るヴェゼルは、ごく普通の生徒だった。
むしろ、見た目だけなら少女と見紛うほど整った顔立ちをしており、誰の意見にもきちんと耳を傾け、自分だけで話を進めようとはしない。
そして今日の領地商政学。
誰も思い付かなかった発想を、ごく自然に提示してみせた。
その提案は理想論では終わらず、現実に形にできるだけの説得力まで備えていた。
(……噂と、まるで違うじゃないか)
ソラーラは廊下で腕を組みながら、小さく息を吐いた。
だからこそ、あの日睨みつけた理由だけは、自分の口でヴェゼルに伝えようと思ったのである。
あら、、ソラーラの気持ち書いてたら、長くなっちゃいましたな。。




