第699話 商業の授業
今日は『領地商政学』の授業の日だった。
貴族が領地を治めるうえで、軍事や政治と並び欠かせないのが商業である。
どれほど豊かな土地を持っていても、人と物が動かなければ領地は栄えない。そのため、この授業は学院の中でも特に実践性が高く、多くの卒業生が「あの授業が人生を変えた」と口にする名物講義として知られていた。
担当教師はアージ先生。
四十代半ばほどの、やや恰幅の良い男性だ。柔和な体格とは対照的に目つきは鋭く、商人特有の相手を値踏みするような観察眼を持っている。しかし話し方は終始穏やかで、誰に対しても驚くほど丁寧だった。
授業は最初に講義を受け、その後は一年を通して一つの課題に取り組む。現代でいえば、課題解決型学習となる。
各チームには活動資金として金貨一枚が支給され、それを元手に自由に成果を目指す。
実際に商売を始めてもよいし、新しい流通制度や税制、領地経営の施策を考え、帝国へ提案する形でも構わない。利益を生み出すことか、社会へ価値を生み出すことが評価対象だった。
過去には、この授業から本当に商会を立ち上げた卒業生もいる。
反対に、自ら考えた政策が帝国へ採用され、そのまま官僚となった者も少なくないという。
自由度が高い分だけ難しく、それだけに学院でも一目置かれている授業だった。
ヴェゼルたちは既に進級試験へ合格しているため、本来であればこの授業を履修する必要はなかった。
それでもエストレヤの兄シェルパは、「経験になるし、他のクラスの生徒とも交流できる。こういう機会は意外と貴重だよ」と勧めてくれた。その言葉もあって、ヴェゼルたちは試験には合格したのだが、そのまま履修を選んでいた。
一年生全員が大講堂へ集められる。
そこでくじを引き、クラスの垣根を越えた五人一組の班が編成される仕組みだった。
ヴェゼルが引いた番号は四十九番。
指定された教室へ向かい扉を開けると、既に一人の少女が席に座っていた。
不安そうに周囲を見回していたニーヴァである。
ヴェゼルの姿を見つけた瞬間、その表情がぱっと明るくなった。
「あっ! ヴェゼル様! よかったです! 知っている方がいて!」
子犬のような勢いで駆け寄ってくる。緊張で固まっていたのが嘘のような笑顔だった。
「そんなに不安だったの?」
「だって知らない方ばかりですし……。それに、私、試験に落ちたのでこの授業は受けないといけないのです」
胸の前で手を握りながら、小さく肩をすくめる。その様子にヴェゼルは苦笑した。
そこへ教室の扉が再び開く。入ってきたのは、ヴェゼルより頭一つほど背の高い少年だった。
整った立ち姿で二人へ歩み寄ると、人当たりの良い笑みを浮かべる。
「やあ。同じ班になるようだね。私はビアンテ・パロ・プレグンタだ。よろしくお願いするよ」
「ヴェゼル・パロ・ビックです。よろしくお願いします」
「私は、ニーヴァ・パッセ・キャノピー・コモドアです。よろしくお願いします!」
穏やかな空気が流れ始めた、その時だった。
三人目の生徒が教室へ入ってくる。
その少女とヴェゼルは、互いの顔を見た瞬間に足を止めた。
「…………」
「…………」
短い沈黙が流れる。少女の名はナディア・ヴァンガード。
ヴァンガード元辺境伯家の令嬢であり、ヴェゼルにとって決して縁の浅くない相手だった。
互いに事情を知っているからこそ、何と言葉を交わせばよいのか分からない。
先に口を開いたのはヴェゼルだった。
「ヴェゼル・パロ・ビックです。よろしくお願いします」
「……ナディア・ヴァンガードです。よろしくお願いいたします」
礼儀正しく挨拶は交わす。だが、それ以上の会話は続かなかった。
微妙な空気だけがその場に残る。そして最後の一人が教室へ姿を現した。
茶色の短髪の少年だった。入室した直後は何事もなかった。
しかしヴェゼルの姿を認めた途端、その表情が一変する。鋭い視線が真っ直ぐヴェゼルへ向けられた。
「……?」
その顔を見て、ヴェゼルはふと記憶を辿る。
――そういえば。
入学式の日だったか。どこかで同じように睨まれた覚えがある。だが、その理由だけはどうしても思い出せない。
少年は一直線にヴェゼルの前まで歩み寄る。
そして目の前で立ち止まり、低い声で言い放った。
「俺は、お前を許さないからな」
教室の空気がぴたりと止まる。
突然の敵意に、ニーヴァは「ひっ」と小さく声を漏らし、そのままヴェゼルの後ろへ隠れるように身を寄せた。
しかし当のヴェゼルだけは困惑していた。(……やはり思い出せないな…顔はなんとなく…)
誰かに恨まれるようなことをした覚えが、本当にない。
考え込んでいるうちに教師から着席を促され、五人はそれぞれ席へ着いた。
まずは自己紹介から始まる。
最初に口を開いたのはビアンテだった。
「改めて、ビアンテ・パロ・プレグンタだ。一年間よろしくお願いするね」
続いて、先ほどヴェゼルを睨みつけた少年が立ち上がる。
「……僕はソラーラだ」
それだけ言うと、無言のまま腰を下ろした。
教室に微妙な沈黙が流れる。
「ニーヴァ・パッセ・キャノピー・コモドアです。一年間よろしくお願いします」
「ヴェゼル・パロ・ビックです。皆さん、よろしくお願いします」
最後にナディアも静かに立ち上がった。
「ナディア・ヴァンガードです。よろしくお願いいたします」
こうして、どこか不穏な空気を含んだ五人の班が、静かに動き始めた。
しばらく誰も口を開かない空気が流れた。その沈黙を破ったのはビアンテだった。
彼は自然な笑みを浮かべながら立ち上がり、四人を見渡す。
「では、全員初対面だし、最初だけ僕が進行役を務めよう。他にやりたい人がいれば、もちろん代わってくれていいよ」
穏やかな口調だったが、不思議と場をまとめる力がある。
異論を唱える者はいなかった。全員が小さく頷いたのを確認すると、ビアンテは話を続ける。
「それでは始めよう。授業の説明にもあったが、この金貨一枚を元手に実際に商売を始めても構わないし、新しい商業政策や施策を考えて提案する形でも評価される。まずは何をやるか、その案を自由に出してみようか」
そう促される。しかし、教室には静かな時間だけが流れた。
一年かけて取り組む課題というだけあって、誰も軽々しく思いつきを口にはできない。
そんな中、隣に座るニーヴァがそっとヴェゼルの袖を引いた。
「ヴェゼル様……私は、その……頭は、それなりなので……」
小さな声だった。少し恥ずかしそうに俯きながら続ける。
「こういう話し合いでは、あまり良い意見を出せないかもしれません……。私にも何かできることはありますか?」
その言葉には、自信のなさがそのまま滲んでいた。
ヴェゼルは少しだけ考え、柔らかく微笑む。
「それなら、ニーヴァさんは記録係を担当してみたら?」
「記録係……ですか?」
「うん。議論の内容を最初から整理して残しておく役目だよ。こういう作業は地味に見えるけれど、とても大切なんだよ」
ニーヴァの表情が少しだけ明るくなる。
「……私にもできますか?」
「もちろん」
その一言で背中を押されたのだろう。ニーヴァは勢いよく手を挙げた。
「あ、あの! 私、こういう議論では皆さんのお役に立てないかもしれません。なので、記録を残す係をやりたいです!」
その申し出に、ビアンテは周囲へ視線を向けた。
「皆はどう思うかな?」
ヴェゼルが静かに口を開く。全員の視線が集まる。
「僕は賛成。これは授業だから、おそらく最後には成果をまとめた報告書や資料を先生へ提出することになる。その時、その場の記憶だけでまとめるのと、最初から議論の流れや決定事項を記録しているのとでは、完成度がまったく違ってきくると思う」
少し間を置いて続けた。
「後から『あの時どういう理由で決めたんだっけ』となることもあるし、記録が残っていれば、その経緯まで説明できる。そういう意味でも、記録係は重要な役割だと思う」
ビアンテも納得したように頷く。「私も同じ考えだね。皆はどうかな?」
「私も賛成です」ナディアは迷いなく頷いた。
ソラーラは腕を組んだまましばらく黙っていたが、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「……別に反対はしない」
それだけ言って小さく頷いた。
「それでは決まりだね」
ビアンテが笑顔でまとめると、ニーヴァはほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます!」
嬉しそうに頭を下げると、早速ノートを開き、日付と班員の名前を書き始める。
その横顔には、先ほどまでの不安はもうほとんど残っていなかった。
ニーヴァが記録を取り始めたのを確認すると、ヴェゼルは机の上で軽く指を組み、皆を見回した。
「一つ提案があるんですが。最初から具体的な事業を決めようとしても難しいと思うんだ。だからまずは、皆さんが『やってみたいこと』を自由に挙げて、それとは別に『商売や商人について不便だと思っていること』や『こうなればもっと良いのにと思うこと』を出し合ってみませんか」
思いついた案を否定せず、一度すべて机の上へ並べる。
そこから共通点を探した方が、議論もしやすい。
ナディアもその提案に頷いた。
「そうですわね。今のままでは漠然としすぎていますもの。最初から結論を求めるより、まずは皆の考えを整理した方が良さそうです」
「では、その方針でいってみようか」
ビアンテが進行を続ける。
「まずは、やってみたいことからお願いね」
順番に意見が出始めた。
「実際に商売をやってみたいです」「飲食店を開いてみるというのはどうでしょう」「貴族の方々から不要になった品を譲っていただいて、それを販売するのも面白そうです」
どれも決して悪い案ではない。しかし、どれもまだ漠然としていた。
一通り意見が出たところで、それまで黙っていたソラーラが口を開いた。
「……どれも曖昧だな」
その一言で教室が静かになる。ソラーラは淡々と続けた。
「仕入れはどうする。誰に売る。どこで売る。店は借りるのか、屋台なのか。販売する人間はどうするんだ?」
視線をゆっくり全員へ向ける。
一拍置いて言い切った。
「それに、一番大事なことを忘れている。資金は金貨一枚"も"あるんじゃない。"しか"ないんだ」
現実を突きつけるような言葉だった。誰も反論できない。ヴェゼルも小さく頷いた。
「ソラーラさんの言うことにも一理ある」
全員の視線が集まる。
「商売って、思っているほど簡単じゃない。ソラーラさんの言うように、僕たちのような素人でも、一日だけの模擬店を開いて商品を売るくらいなら何とかできるかもしれない」
そこで言葉を区切る。
「もちろん、それでも十分経験にはなると思う。でも、模擬店を一度開いて終わりでは、一か月もあれば完結してしまう」
一年という期間を考えれば、それでは短すぎる。
「この授業は一年間を通して成果を出すことが目的だと思うよ。そう考えると、一度やって終わりではなく、継続して取り組める内容であることも重要になるんじゃないかな」
さらに続ける。
「それに、金貨一枚という金額も決して大きくない。平民の半月分ほどの賃金だから、何か事業を始めようとしても元手としてはかなり限られている」
利益を出す前に資金が尽きる可能性すらある。
「だからこそ、最初に資金のかからない方法や、継続できる仕組みを考える必要があると思う」
説明を聞き終えたビアンテは、感心したように頷いた。
「なるほど。いきなり商売を始めることを考えるんじゃなくて、まずは『何が不便なのか』を見つけるところから始めた方が良さそうだね。それじゃあ、今度は商売や商人、それから物の売り買いについて、不満や『こうなればもっと良くなる』と思うことを、自由に挙げてみようか」
ビアンテの言葉に、全員がそれぞれ考え込む。
今度は"何をやるか"ではない。
"何を変えるべきか"を探す時間が始まろうとしていた。




