第698話 グランチュラ
そして午前の授業が終わり、学院は昼休みを迎えた。
講義棟から続々と生徒達が大食堂へ向かい、広々とした食堂は瞬く間に賑わいを見せる。
大きな窓から差し込む柔らかな陽光が磨き上げられた木の床と長机を照らし、あちらこちらで談笑する声と食器が触れ合う軽やかな音が重なり合っていた。
学院生活にもすっかり慣れ始めたヴェゼル達は、いつものように食事を受け取ると、自然と決まった席へ集まっていく。
その光景は、入学当初とはずいぶん変わっていた。
妖精達も今では好き勝手に食堂の中を飛び回り、それぞれ思い思いの料理を選んでいる。
「今日はこれ!」「私はお魚!」「甘いのも!」
小さな体で忙しなく飛び回る妖精達を見て、最初こそ驚いていた食堂の職員達も、今ではすっかり慣れたものだった。
「今日は何にするんだい?」「こっちの焼きたてがおすすめだよ」
食堂のおばちゃん達は優しく声を掛けながら、小皿へ少しずつ料理を取り分けてくれる。
妖精達も嬉しそうに礼を言っては、料理を抱えて飛び去っていく。
その微笑ましい光景を見ていた他の生徒達も、思わず笑みを浮かべる者が少なくなかった。
やがて全員が料理を受け取り、いつもの席へ腰を下ろす。
ヴェゼルが椅子を引いた、その瞬間だった。
向かいに座るエストレヤとコーティナが、まるで悪戯を思いついた子供のように顔を見合わせる。
その目が妙に楽しそうだ。
「……何?」
ヴェゼルが怪訝そうに眉をひそめる。
「その顔」
するとコーティナは吹き出しそうになるのを必死で堪えながら肩を震わせた。
「ふふっ……実は今日ね、アビー様と少しお話しできたのよ」
エストレヤも穏やかに頷く。
「ようやく教会から女子生徒との交流が許されたそうですわ。最初は少し緊張なさっていましたけれど、とてもお優しい方でした」
「へぇ」ヴェゼルの表情も自然と和らぐ。
幼い頃から知るアビーが、ようやく普通の学院生活を送り始められたことが、自分のことのように嬉しかった。
そんなヴェゼルの反応を見て、コーティナはますます楽しそうに身を乗り出した。
「それでね、アビー様、魔道具研究会にも興味がおありなんですって」
「そうなの?」
ヴェゼルが少し意外そうに聞き返す。
「でもさ、まだ教会からは男性生徒との交流は許されていないでんしょ?」
コーティナが肩をすくめる。
「だから当然、誰か特定の男子生徒のお話なんて、一切なさらなかったわ」
エストレヤが小さく微笑む。
「ですが……あの方は何度も『幼い頃、幼馴染の方と一緒によく魔道具について考えていたのです』『学院へ参りましたら、また研究できればと思っておりました』と仰っておりましたわ」
「それでね」
コーティナが悪戯っぽく笑う。
「私が『その方も魔道具研究会へ興味をお持ちでしたら、ご一緒できると良いですね』って申し上げたの」
「するとアビー様、一瞬だけ嬉しそうなお顔をなさって……」
エストレヤが当時を思い出すように続ける。
「『そうなれば、とても嬉しく思います』とだけ仰いましたわ」
「もちろん、その"幼馴染の方"のお名前は最後まで出なかったわ」
コーティナは肩を竦めながら笑う。
「でも、あれだけ話を聞けば、誰のことを仰っていたのかくらい、私達にも分かるもの」
エストレヤも優しく頷く。
「教会の方がすぐ後ろに控えておられましたから、お名前を口になさらなかったのでしょう。あれが、アビー様なりの精一杯だったのだと思いますわ」
ヴェゼルは一瞬だけ考え込み、それから苦笑した。
「……そうか」
教会の監視下では、自分から話しかけることはできない。まして、自分の名を口にすることすら避けなければならない立場なのだろう。
だからこそ、誰のことか分かるようで分からない、そんな遠回しな言い方で二人へ語りかけたのだ。
そう考えれば、いかにもアビーらしい伝え方だと、ヴェゼルは小さく笑うのだった。
ヴェゼルは小さく考え込む。
魔道具研究会。入学してから何度か名前は耳にしていた。
新しい魔道具を考案し、実際に試作まで行う研究会だ。もともと魔道具には興味がある。
そんなことを考えていると、勢いよく会話へ飛び込んできた声があった。
「ヴェゼルさん!」
トレディアである。
「私はもう魔道具研究会へ入りました! 一緒に魔道具を極めましょう!」
元気いっぱいにそう言いながら、大きく口を開けて昼食を頬張る。
「もぐもぐ……絶対、楽しいですよ!」
口いっぱいに料理を入れたまま喋るものだから、小さな何がぴょんぴょんと飛んでいる。
ちょうど向かいに座っていたタンクの頭へ、それがぽとりと落ちる。
タンクは無言のまま頭へ手をやり、指先についたそれを見て、小さくため息をついた。
「食べてから喋ってよ〜」
周囲から笑いが起こる。
トレディアは慌てて口を押さえ、「ご、ごめんなさい!」と頭を下げた。
ヴェゼルも思わず苦笑する。
魔道具研究会そのものには興味がある。
それは間違いない。ただ、一つだけ引っ掛かることがあった。
顧問教師の存在である。
魔道具研究会の顧問は、一年五組の副担任であり、自分の魔法実技も担当しているベルエアだった。
悪い人ではない。むしろ研究者としては間違いなく優秀なのだろう。だが、一度研究に没頭すると周囲がまるで見えなくなるようだ。
あの魔法実技での様子を思い返すだけで、ヴェゼルは少しだけ遠い目になった。
――研究そのものより、ベルエア先生に振り回される未来の方が容易に想像できるんだよな……。
そんな予感だけは、不思議なほど強く胸に残っていた。
コーティナは、わざと一度言葉を切ると、いたずらっぽくヴェゼルへ視線を向けた。
「ええ。それで色々お話ししていたら――」
コーティナは口元を緩めたまま、アビーの穏やかな口調を真似て語り始めた。
「『私にも、昔からとても親しくしていた幼馴染がおりました。ですが、教皇の宣託を受けて教国へ向かうことになった時、その方とは満足にお話しする時間もなく、お別れになってしまいました。今でも、少しだけ心残りでございます』――ですって」
その言葉が終わると同時に、卓上が一瞬だけ静まり返る。
次の瞬間、まるで打ち合わせでもしていたかのように、その場にいた全員の視線が一斉にヴェゼルへ集まった。
コーティナは堪えきれず肩を震わせる。
「ねぇ、それってヴェゼルさんのことでしょう?」
エストレヤも上品に口元を隠しながら微笑んだ。
「私もそう思いましたわ」
「…………」
普段なら軽く受け流すところだった。だが、不意打ちだった。
ヴェゼルは珍しく言葉に詰まり、困ったように頬をかく。耳が少しだけ熱い。
皆の期待に満ちた視線を受け、観念したように苦笑すると、小さく肩をすくめた。
「……まぁ、その」
一度だけ視線を逸らし、小さく頷く。
「そう……かもね」
その一言で十分だった。
「きゃーーっ!」
真っ先に歓声を上げたのはニーヴァだった。
勢いよく椅子から立ち上がる。
「やっぱりでしたのね!」
エストレヤとコーティナも顔を見合わせて笑い、ダイナも「おぉー!」と嬉しそうに声を上げる。
そしてニーヴァは、今にも机へ身を乗り出しそうな勢いで両手を胸の前で組み、瞳を宝石のように輝かせた。
「ヴェ、ヴェゼル様っ! そのお話、ぜひ詳しく聞かせてくださいませ! 幼い頃から想い合っていたお二人が、突然離れ離れになってしまい、それでも互いを忘れず、再び同じ学院で巡り会うなんて……!」
「え?」
興奮で頬を真っ赤に染めながら、うっとりと両手を握りしめる。
「なんて美しいのでしょう……!」
さらに天井を見上げ、
「純愛ですわ……! 尊いですわ……!」
一拍置いて、胸に手を当てる。そのあまりの熱量に、ヴェゼルは苦笑しながら首を振った。
「いや、そこまで大袈裟な話じゃ――」
「ございます! 絶対にございます!」
食い気味に断言された。
「いや、だからさ……」
「運命ですわ!」
「話を聞いてくれる?」
「聞きません!」
「聞いてよ……」
ヴェゼルが肩を落とくと、その様子が余計に可笑しくなり、周囲から笑いが漏れる。
その隣でキャシュカイは額へ手を当て、大きくため息をついた。
「ニーヴァ」
穏やかな声だった。
「昼食中ですよ。少し落ち着いてください」
「ですが!」
「落ち着いてください」
少しだけ語気を強められる。
「…………はい」
ニーヴァはしゅんと肩を落とし、不満そうに頬を膨らませながら席へ座り直した。
そのあまりに分かりやすい落ち込みように、一同から自然と笑みがこぼれる。
穏やかな笑い声が昼の食堂へ溶け込み、学院へ入学してから幾度となく繰り返されてきた、いつもの賑やかな昼食の時間が流れていくのだった。
その時だった。
ふと、キャシュカイの表情から笑みが消えた。
先ほどまでニーヴァをたしなめ、皆と穏やかに談笑していたとは思えないほど、その瞳から感情が静かに引いていく。
その変化に真っ先に気付いたのはヴェゼルだった。
「……?」
何気なくキャシュカイの視線を追う。
すると、その先を見たニーヴァの肩がびくりと震えた。
先ほどまで恋愛話に目を輝かせていた少女は、途端に俯き、小さく両手を握り締める。
食堂の賑わいは変わらない。
笑い声も、食器の触れ合う音も、そのまま流れ続けている。だが、この一角だけは空気が一変していた。
通路の向こうから、一人の少年が数人の生徒を従えながら歩いてくる。
年齢はヴェゼル達と同じくらい。
明るい茶色の髪を整え、整った顔立ちには人当たりの良さそうな笑みを浮かべている。立ち居振る舞いにも品があり、威圧感よりも親しみやすさを感じさせる少年だった。
しかし、その姿を見つめるニーヴァとキャシュカイの表情だけは、まるで別人のように硬い。
少年もまた二人に気付いたらしい。
歩みを止めると、困ったように眉尻を下げ、小さく苦笑する。
隣を歩く取り巻きへ何事か耳打ちすると、自分だけが静かにヴェゼル達の席へ歩み寄ってきた。
「ニーヴァ殿、キャシュカイ殿。そんなに警戒しないでくれないかな」
穏やかな笑みを浮かべたまま声を掛ける。
その声音には敵意も威圧もない。
むしろ申し訳なさそうですらあった。だが、ニーヴァは俯いたまま返事をしない。
小さく唇を結び、視線を合わせようともしなかった。
代わりにキャシュカイがゆっくりと席を立つ。
その所作はどこまでも優雅だった。
「これはこれは、アクティバ王国第二王子殿下」
礼節を欠くことなく、一礼する。
しかし、その声音だけは冷え切っていた。
「殿下ほどのお立場の方が、わざわざ私どもの席までお越しになるとは思っておりませんでした」
丁寧な言葉。だが、その裏に込められた意味は誰の耳にも明らかだった。
――どうか、お近付きにならないでいただきたい。
少年は苦笑を浮かべたまま肩をすくめる。
「いや、本当に偶然なんだよ」
困ったように笑いながら首を横へ振った。
「君達に警戒されているのは分かっていたからね。だから僕の方から近付くことは、できるだけ避けていたつもりなんだ」
そう言うと、今度はヴェゼル達一人ひとりへ穏やかに視線を向けた。
「挨拶が遅れたね」
軽く胸へ手を添え、一礼する。
「改めまして。僕はアクティバ王国第二王子、グランチュラ・ウィル・アクティバ」
その笑みは柔らかい。
どこか人懐っこさすら感じられた。
「同じ学年なんだから、本当なら皆と仲良くしたいと言いたいところなんだけど……」
そこで少しだけ寂しそうに笑う。
「まぁ、今は難しそうだね」
それ以上は何も言わなかった。
深追いすることもなく、静かに踵を返す。
待っていた取り巻き達のもとへ戻ると、そのまま歩き始める。
すれ違いざま、その取り巻きの一人がニーヴァとキャシュカイへ冷ややかな視線を向け、小さく鼻で笑った。
侮蔑を隠そうともしない態度だった。
その音にグランチュラも気付いたのだろう。
足が一瞬だけ止まる。
振り返ろうとした。
しかし結局、何も言わない。
ただ小さく目を伏せると、そのまま静かに歩き去っていく。
賑やかな食堂の中、その背中だけがどこかひどく寂しげに見えた。
その少し離れた席では、カジャール、ラングラー、フルフェンスの三人が、昼食を口に運びながら小声で話していた。
賑やかに笑い合うヴェゼル達の輪を眺め、フルフェンスがぽつりと漏らす。
「……ヴェゼルの周りって、いつも賑やかでいいよなぁ」
その言葉に、ラングラーとカジャールは視線だけを向け、小さく頷いた。
確かにそうだった。気が付けば誰かが集まり、気が付けば笑い声が響いている。
あれだけ身分も国も違う面々が、自然と同じ卓を囲んでいる光景は、学院の中でも珍しいものだった。
フルフェンスは羨ましそうにため息をつく。
「それにさ、ラングラー君もカジャール君もいいじゃないか。あんな可愛い幼馴染がいるんだから。僕なんて、そういう相手、一人もいないんだよ……」
そう言って、少し肩を落とした。
ラングラーとカジャールは顔を見合わせる。
「まぁ……な」
どちらからともなく返事をする。
しかし、その声にはどこか複雑な響きが混じっていた。
二人は揃って苦笑いを浮かべる。
その表情を見たフルフェンスは首を傾げた。
「……何その反応」
だが二人は何も答えない。
ただ、もう一度だけ顔を見合わせ、小さく肩をすくめるのだった。
幼馴染というものは、案外、傍から見ているほど気楽なものではないのである。




