第697話 初めての友人
そして今日は一年一組の授業だった。午前の講義はいつもと変わらず進んでいく。
教室の一番後ろの席では、アビーが静かに教壇へ視線を向けていた。
教師の説明を聞き漏らすことなくノートへ書き留め、ときおり質問にも答える。だが、それ以外は必要以上に周囲と関わることはない。
それが学院へ入学してからのアビーの日常だった。
やがて授業終了の鐘が鳴る。教師が教室を出ていくと、生徒達は一斉に席を立ち始めた。
次の授業までのわずかな休憩時間。教室のあちこちで談笑する声が広がっていく。
そんな中、いつもなら席を立たないアビーが静かに椅子を引いた。
その瞬間だった。
「……え?」「教皇様が……」「席を……?」
小さなどよめきが教室を駆け抜ける。
これまでのアビーは授業が終わっても席で本を読んでいるか、教会関係者と話をしていることがほとんどだった。
自ら誰かのもとへ歩いていく姿を見た者はいない。だからこそ、生徒達は思わずその背中へ視線を向けていた。
アビーは周囲の視線を気にすることなく、教室の中央へ向かって歩き出す。
その先には、談笑している二人の少女がいた。エストレヤとコーティナである。
数歩後ろには女性司祭のクーリアが護衛として静かについてきていた。
距離を取り、会話の邪魔にならない位置を保ちながらも、周囲への警戒だけは決して緩めない。
アビーは一度だけ後ろを振り返り、クーリアとの距離を確認すると、そのまま二人の前で足を止めた。
声を掛けられたエストレヤが顔を上げる。その瞳がわずかに見開かれた。
まさかアビーの方から話しかけてくるとは思っていなかったのだろう。
コーティナも同じように驚いた表情を浮かべている。
アビーは穏やかに微笑み、小さく一礼した。
「お話し中のところ失礼いたします。教会より、ようやく他の生徒の皆様との交流について許可が下りました。もしご迷惑でなければ、少しお話しさせていただいてもよろしいでしょうか」
その言葉に、エストレヤは一瞬だけ目を丸くした。だがすぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「もちろんですわ。むしろ、お声を掛けていただけて嬉しく思います。同じクラスですもの、どうぞお気になさらないでくださいませ」
その隣でコーティナも静かに頷いた。
「私も構いません」
ようやく訪れた、ごく当たり前のクラスメイト同士の最初の会話だった。
「副担任のベルエア先生の魔道具研究会、とても興味深いと思いました。お二人は、どちらかの研究会へ所属されるご予定なのですか?」
しばらく学院生活や研究会について他愛ない話が続く。やがてアビーは、ふと思い出したように二人へ尋ねた。
「そういえば、エストレヤ様は同じクラスのあの男性の方と、コーティナ様は二組の方と親しくお話しされていますよね。幼馴染でいらっしゃるのでしょうか」
二人は顔を見合わせ、小さく頷く。
「ええ」
「幼い頃からです」
「そうなのですね……」
アビーはどこか懐かしそうに視線を落とした。
「私にも、昔からとても親しくしていた幼馴染がおりました」
静かな声だった。
「ですが、教皇の宣託を受けて教国へ向かうことになった時、その方とは満足にお話しする時間もなく、お別れになってしまいました」
ほんの少しだけ寂しそうに笑う。
「今でも、少しだけ心残りでございます」
そう言ってから、ほんの一瞬だけエストレヤとコーティナへ視線を向けた。
言葉にはしない。それでも十分だった。
二人はその一瞬の視線だけでアビーの意図を悟った。あえて何も尋ねることはしない。
エストレヤは穏やかに口を開いた。
――その幼馴染とはヴェゼルのこと。
――そして、その想いは今も変わっていない。
あえて何も尋ねることはしない。エストレヤは穏やかに口を開いた。
「私たち、きっと仲良くなれると思います。共通のお話も沢山ありそうですもの」
コーティナも嬉しそうに頷く。
「ええ。ぜひ、これから仲良くしてくださいませ」
三人はそのまま学院生活や授業のことなど、取り留めのない話をしばらく続けた。
そんな折、アビーはふと思い出したように首を傾げる。
「そういえば、皆様とご一緒にいらっしゃる金髪の可愛らしい方がおられましたよね」
その言葉に、エストレヤとコーティナはすぐに誰のことか察した。
プロフィアのことだ。
「皆様、とても親しくされているご様子でしたので、特別なお付き合いがおありなのかと思いまして」
何気ない質問だった。少なくとも周囲にはそう聞こえる。だが、先ほどの話もあったからだろう。
エストレヤとコーティナは、アビーが本当に知りたいことは別にあるのだろうと何となく理解していた。
エストレヤが穏やかに答える。
「プロフィアさんのお父様は、辺境の騎士爵家に仕えておられる方だそうです」
「今は領地の政務にも関わっておられるとか」
コーティナも補足する。
「ですので、お付き合いが長いのですよ。ご家族ぐるみのお付き合いだったと伺っております」
アビーは静かに耳を傾けていた。
「まあ、そうなのですね」
「ええ」
エストレヤは微笑む。
「プロフィアさんご自身も優秀な方ですから、将来は領地の文官として働かれるのではないか、と皆で話しております」
「今も補佐役のような立場ですものね」
コーティナも頷いた。
「お二人とも、とても信頼し合っていらっしゃいます」
そこまで言ってから、エストレヤは少しだけ意味ありげに微笑む。
「ですが、それ以上のお話は聞いたことがございませんね」
「ええ。本当に主家と家臣のような関係、と申しますか」
コーティナも自然に続けた。
「むしろお互いに遠慮なく意見を言い合える、よいお仕事仲間という印象です」
アビーは一瞬だけ目を瞬かせた。それから小さく微笑む。
「そうなのですね」
その声は先ほどよりわずかに柔らかかった。
胸の奥に引っ掛かっていた小さな棘が抜けたような、そんな安堵が滲んでいる。
もっとも、本人はそれを悟られまいとしていたのだろう。だがエストレヤとコーティナには十分伝わっていた。
二人は顔を見合わせる。そして何も言わず、小さく微笑むのだった。
コーティナは目の前の少女を静かに見つめていた。
教皇。この大陸最大の宗教、アトミカ教の頂点に立つ少女。
本来なら、自分達とは住む世界が違う存在のはずだった。もっと近寄りがたい人物なのだと思っていた。
けれど実際に話してみれば、幼馴染を想い、その人のことが気になって仕方がなく、それを悟られまいと遠回しに尋ねる、ごく普通の少女だった。
その姿が何だか微笑ましく思えた。コーティナがふっと微笑む。
「アビー様って……本当にお可愛らしい方なのですね」
突然の言葉に、アビーはきょとんと目を瞬かせた。
「え……?」
「申し訳ございません。でも、何となく分かってしまいましたので」
それだけだった。それだけで十分だった。
アビーは何を悟られたのか理解し、頬がみるみる朱に染まる。
「わ、私は……」
言葉を探すように唇を動かすが、続きは出てこない。
エストレヤはくすりと笑った。
「ご安心くださいませ」
その一言だけで十分だった。アビーは照れ隠しのように小さく微笑む。
「……ありがとうございます」
三人は自然と顔を見合わせ、穏やかに笑みを交わした。
その空気は、後ろに立つクーリアにはただ少女同士が打ち解けたようにしか見えない。
だが三人だけは、その笑みの意味を理解していた。そのひとときで確かに三人の距離は縮まっていた。
アビーにとっても、この学院で教皇ではなく、一人の少女として笑い合えた相手は初めてだった。
少し離れた場所で控えていたクーリアは、一定の距離を保ちながら周囲へ鋭い視線を巡らせていた。
その一方で、護衛として必要な範囲で三人の会話にも耳を傾けている。
主の私的な会話へ踏み込みたいわけではない。だが、誰とどのような話を交わしたのかを把握し、後に教会へ報告することもまた護衛としての務めだった。
幸い、耳に届く限りでは学院生活や研究会、友人についての他愛ない話ばかりである。
クーリアは問題ないと判断した。
少なくとも、あの少年の名が口にされることはなかった。
問題はない。
クーリアは再び周囲への警戒へ意識を戻した。
その間にも、三人の少女達の笑い声は静かな教室へ溶け込んでいく。
教皇でも聖女でもない。
アビーはこの日初めて、一人の少女として学院で友人を得たのだった。
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