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りんご一個分の収納。マジでどう使えと!? 〜辺境騎士爵に転生したので、なんとか無難な人生を…歩みたいなぁ〜  作者: 大童好嬉


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第696話 アビーの日常02

朝食の席で、アビーは今日もインスピラ司教と向かい合っていた。


学院の寮でありながら、この一室だけはどこか教会の応接室を思わせる空気がある。朝の柔らかな陽光が窓から差し込み、白いテーブルクロスの上に並べられた朝食を照らしていた。


天井からはアトミカ教の紋章の旗が垂れ下がり、香木を焚いた名残の香りがかすかに漂っていた。豪奢というよりは厳粛。贅沢を誇るのではなく、秩序と信仰を示すための部屋である。


アビーの背後にはランツェが給仕として静かに控えている。


窓際と扉の前には護衛の助祭達。その全員がテンプル騎士団所属であり、微動だにせず立つ姿はまるで彫像のようだった。


少し離れた席にはオースターと二人の司祭が座っている。


彼らは基本的に会話へ割って入ることはない。ただアビーとインスピラ司教の話に耳を傾け、必要な時だけオースターが助言や質問を挟む。それがこの朝食のいつもの光景だった。


食器の触れ合う小さな音だけが響く中、インスピラ司教がふと口を開く。


その声音は驚くほど事務的だった。


「本日より、女性生徒との交流制限を解除いたします」


それだけだった。まるで定例報告の一つを読み上げるような口調である。


アビーは思わず瞬きをした。


昨日まで散々警戒していたというのに、まるで最初から予定されていたことのような言い方だった。


喉元まで言葉が込み上げる。それなら最初から制限など必要なかったのではないか。


そう言いたくなる気持ちは確かにあった。


しかし、その言葉をアビーは飲み込む。


感情で動くわけにはいかない。教会の内部事情も理解している。


自分が今どのような立場に置かれているのかも理解している。学院内で自分がどのように見られているのかも把握していた。


だからこそ必要なのは感情ではない。結果だ。アビーはナイフとフォークを静かに置き、顔を上げる。


「承知しました」


短く答える。それ以上は何も言わなかった。言ったところで意味がないことを知っているからだ。


やがて朝食を終えたアビーは、誰にも気付かれないよう小さく息を吐いた。


ほんのわずかな吐息だった。


けれど、それだけで胸の内に溜まっていた重苦しさが少しだけ薄れる気がした。


今日もまた忙しい一日が始まる。


アビーは静かに気持ちを切り替えるのだった。


インスピラ司教もそれ以上その話題には触れなかった。


交流制限の解除は決定事項であり、伝えるべきことは伝えたということなのだろう。


司教は手元の書類へ視線を落とし、一枚を取り上げる。


朝食の席には焼きたてのパンの香りがまだ残っていた。窓から差し込む朝の日差しが白い食器を照らし、銀器に淡い光を反射させている。だが、この席に流れる空気は食事の場というより執務室そのものだった。


「次ですが、孤児院についてです」


その言葉に、アビーの意識は自然と切り替わる。


孤児院。それは今のアビーにとって、もっとも重要な課題の一つだった。


アトミカ教には複数の派閥が存在する。


原理派。アトゥミカ市国派。巡礼派。改革派。聖霊派。そして聖職派。


その中で孤児院や学校の運営を長年担ってきたのが聖職派だった。聖職派は不思議な立場にある。


原理派からは人員と施設を確保し、アトゥミカ市国派からは資金援助を受ける。巡礼派は各地を巡ることで情報を集め、改革派は運営方法や魔道具の活用について知恵を貸す。さらに聖霊派とも協調関係を築いていた。


どの派閥とも一定の関係を持つ。教会内部では極めて珍しい存在だった。


だからこそ長年にわたり孤児院や学校を維持し続けることができたのである。


しかし皮肉なことに、その聖職派こそが改革への最大の障害でもあった。


孤児院、学校、炊き出し、救護院。


それらは聖職派が何十年、何百年とかけて築き上げてきた事業だ。


当然ながら誇りもある。自負もある。救ってきた人々の数も知っている。だからこそ外部から新しい制度を持ち込まれることを警戒する者は少なくなかった。


ましてや改革を主導しているのはアビーである。教皇に就いてまだ数年。


若く、前例に囚われない発想を次々と持ち込む存在。警戒されるのも無理はない。悪意ではない。


それは理解していた。だが理解できることと納得できることは別だった。


「救える子供がいるのに……」


喉元まで出かかった言葉を飲み込む。アビーは何度も似たような報告を見てきた。


世界には教会以外にも孤児院を運営している国や領主達がいる。


立派な慈善事業として機能している場所も確かに存在した。


だが全てではない。寄付された金や物資が途中で消える場所もある。


送られた食料が管理者の懐へ入る場所もある。孤児を安価な労働力として扱う施設もある。


借金の担保同然に子供が売買されることもある。記録に残らない人身売買へ繋がったという報告すらあった。


アビーは窓の外へ一瞬だけ視線を向ける。


学院の中庭では生徒達が行き交っている。笑い声も聞こえる。


だが世界の全ての子供があのように笑えるわけではない。だからこそ教会全体で取り組まなければならない。


そう考えている。だが現実は簡単ではなかった。


教会内部の改革ですら難しい。


それなのに各国の王侯貴族や地方領主が運営する孤児院まで巻き込むとなれば話は別だ。


既に孤児院が存在する地域へ教会が乗り込めばどうなるか。


善意であっても介入と受け取られる。縄張り争いと見なされることもある。


下手をすれば救済事業そのものが政治問題へ変わる。余計な軋轢しか生まない場合もあるのだ。


それでもアビーは諦める気にはなれなかった。


今の世界は歪んでいる。貴族と平民の格差は大きい。生まれた瞬間に人生の大半が決まってしまう者もいる。


地域によっては身分制度が厳格に固定されており、奴隷の子は一生奴隷として生きる。


本人の意思など関係ない。生まれが全てなのだ。


そして医療も未発達だった。大都市には優秀な治療師や神官がいる。高度な治癒魔法を扱う者もいる。しかし地方へ行けば事情はまるで違う。


経験だけを頼りに病を診る者もいる。土着の呪術や伝承が医療として信じられている地域も少なくない。


さらに厄介なのは、一部の聖職者がそうした慣習と結びつき、それを後押ししていることだった。


改革しようとすれば反発が起きる。放置すれば人が死ぬ。


その現実がアビーには重かった。


孤児院を視察するたびに思う。子供が死にすぎる。本当に些細なことで命を落とす。


熱を出した。下痢をした。咳が続いた。傷が化膿した。それだけで死ぬ。


アビーの脳裏には、これまで訪れた孤児院の光景が浮かんでいた。


痩せ細った小さな手。熱に浮かされながら寝台に横たわる子供。泣き疲れて声も出なくなった幼児。必死に看病する修道女達。


誰も怠けているわけではない。誰も見捨てたいわけではない。それでも助けられない。


それが現実だった。


大人になれる者は半数を超えるのだろうか。アビーには、そう思えるほどだった。




そして、そのたびに幼い頃の記憶が蘇る。ヴェゼルである。


孤児院の報告書に目を通している時も、視察先で熱に浮かされた子供を見た時も、あるいは修道女達から死亡報告を受けた時も、不思議と最後にはあの少年の顔が思い浮かぶのだった。


幼い頃から共に遊び、共に学び、時には何時間も語り合った。


今になって思えば、あの頃のヴェゼルは少し変わっていたのかもしれない。


貴族の子供達が剣や魔法や領地経営の話をしている中で、ヴェゼルは時折まるで別の世界の話をすることがあった。


「病気を減らしたいなら、まず手を洗うことだよ」


当時のアビーには意味が分からなかった。まだ幼かったアビーは首を傾げたものだ。


しかしヴェゼルは冗談を言っている様子ではなかった。真面目な顔で続ける。


「食事の前、排泄の後、病人の世話をした後は手を洗う。水だけでも違うし、石鹸があればもっと良い」


その時の光景を今でも覚えている。ビック家の庭だった。


暖かな陽射しの中、ヴェゼルは当たり前のことを説明するように話していた。


だが当時のアビーには、その内容の方が理解できなかった。


手を洗うだけで病気が減る。そんな話は聞いたことがなかったからだ。


他にも多くのことを教わった。飲み水はなるべく煮沸すること。食べ物は十分に火を通すこと。


汚物を生活用水の近くへ捨てないこと。傷はまず清潔な水で洗い、汚れを落としてから処置すること。


出産の際には布や道具を清潔に保つこと。刃物や針はできる限り清潔なものを使うこと。


産後の母親には十分な休息と栄養を与えること。乳児には母乳を優先し、蜂蜜は与えないこと。


病人を世話する者は口や鼻を布で覆い、咳や痰に直接触れないこと。


そして食事も大切だと言った。


穀物だけではなく、野菜や果物、豆類、肉や魚をできる限り満遍なく食べること。


肉や魚が不足する地域では豆や乳製品も重要になること。どれも当時のアビーには難しかった。


難しいというより、常識から外れた話に聞こえた。


なぜそれで病気が減るのか。なぜそれが体に良いのか。


理由までは分からなかった。だがヴェゼルは迷いなく語っていた。


だから不思議と記憶に残っている。


そして今になって思う。あれは知識だったのだ。


ただの思いつきではない。実際に孤児院で手洗いを徹底した時、流行り病が広がりにくくなった。


寝具を定期的に洗わせた時も結果は良かった。


食事の前に手を洗う習慣を根付かせた施設では、腹を下す子供が減ったという報告もある。


出産時の衛生管理を意識した修道女達の間では、母子の生存率が高いという報告も上がっていた。


もちろん十分な統計があるわけではない。厳密に証明できたわけでもない。


だが効果は確かに見えている。少なくともアビーにはそう思えた。しかし同時に、この世界には聖魔法が存在する。


それが問題でもあった。重い怪我を負っても治療できる。


高熱に苦しんでも神官に診てもらえる。金さえ払えば治せる病も少なくない。


だから人々は病気を防ぐことより、病気になった後の治療に意識を向ける。


ヴェゼルの言っていた医師という専門職も未発達だ。衛生管理という概念も十分に広まっていない。


結果として、多くの者は病気になる前に防ぐという発想そのものを持たなかった。


だからこそ歯痒い。アビーは茶杯に映る自分の姿を見つめる。


「ヴェゼルがそう教えてくれた」


そんな理由で教会が動くはずがない。インスピラ司教が慎重になるのも当然だった。


教会が民衆へ教えを広める以上、その内容には責任が伴う。


正しいと証明できない知識を教義のように流布するわけにはいかない。


もし間違っていたらどうするのか。誰が責任を取るのか。


その判断は理解できた。むしろ当然ですらある。だからアビーも無理に押し通そうとは思わない。だが、だからと言って何もしない理由にはならない。


アビーは知っている。


この知識が広まれば救われる命があることを。今日もどこかで亡くなっている子供がいることを。


今日もどこかで出産に命を落とす母親がいることを。そして、その中には本来なら救えた命もあっただろうことを。


だから教皇になりたい。権力が欲しいからではない。名誉が欲しいからでもない。


教会を変えるためだ。より多くの人を救うためだ。


もちろん、それだけではない。教会改革もある。孤児院改革もある。医療知識の普及もある。


どれも一朝一夕で成し遂げられるものではない。


今のアビーにできることは限られている。それでも前へ進むしかなかった。


焦ってはならない。だが立ち止まることもできない。


窓の外では学院の鐘が遠く鳴っている。朝の日差しはすっかり高くなり、机の上へ長く光を落としていた。


朝食を終えた後も、アビーはインスピラ司教との話し合いを続ける。


孤児院の運営。各派閥との調整。人員の確保。予算の問題。


課題は山ほどあった。それでもアビーの瞳に迷いはない。


いつの日か、この知見を当たり前のものにする。誰もが知り、誰もが実践し、多くの命が救われる世界を作る。


それはまだ遠い未来の話だ。だが、その未来へ至る最初の一歩を踏み出すために。


アビーは今日も机に向かい続けるのだった。




明日から日曜日まで出張ですので、

更新が滞るかもしれませんので、

ここに記載しておきます。

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