第695話 アビーの日常
ここはアビーの部屋。学院の寮の三階の最奥。
高位貴族用として用意された区画であり、その中でも特に広い部屋が三室割り当てられている。
そこの最奥にあるのがアビーの私室だ。
今日もようやく授業が終わった。授業そのものは他の生徒達と変わらない。
教室に座り、教師の話を聞き、課題をこなす。だが、周囲の環境はまるで違っていた。
アビーの周囲だけ、いつも席が空いているのだ。誰も隣に座ろうとしない。
休憩時間になれば何人かの生徒が勇気を出して近付いてくることもある。しかし、そのたびに従者達が先に対応してしまう。
何の御用でしょうか。お名前を伺ってもよろしいでしょうか。
猊下にどのようなご要件でしょうか。そう聞かれると、大半の生徒は気後れして引き返してしまう。
それでも話したいと言う者がいれば、今度は従者がアビーのところへ確認に来る。
そしてアビーが許可を出してから会話が始まる。
そんな有様だった。昼食も同じだ。帝都の教会から派遣された料理人が個室へ運んでくる。
そのため他の生徒達と食堂を利用する機会もない。気付けば入学してからほとんど同級生と交流できていなかった。
授業を終え、自室へ戻ったアビーは天井を見上げた。入学式の日のことを思い出していた。
ヴェゼルとは四年ぶりだった。本当に四年ぶりだったのだ。
だから思わず涙が出てしまった。教皇として人前で泣いてしまったことは恥ずかしい。
だが、あれは仕方がなかったと思う。ずっと会いたかったのだから。
そして思い出す。ヴェゼルを見付けた瞬間のランツェの行動を。
あれは本当に驚いた。何の躊躇もなく飛び付いたのだ。
その後、休憩室へ戻ったランツェは興奮した様子でアビーに抱き付いてきた。
「ヴェゼル様との間接抱きつきです! 私はこのために抱き付いたのです!」
などと言っていた。
アビーは思う。絶対に違う。あれは単純にランツェが抱き付きたかっただけだ。
今でもそう思っている。それでも。たった一分もなかった。
遠くから少し見ただけだった。それでも確かにヴェゼルだった。
懐かしいヴェゼルだった。四年前より背も伸びていた。
もう十二歳だ。きっともっと男らしくなっているのだろうと思っていた。
ところが実際は少し違った。むしろ以前より綺麗になっていた。
女の子みたいだな。そんな失礼な感想を抱いてしまったくらいだ。
噂では聞いていた。ヴェゼルの周囲にはサクラ以外にも妖精がいると。
実際、入学式でも見えた。ネリネに尋ねると、土の精霊の側に長く仕えていた妖精達だと教えてくれた。
サクラと合わせて何柱もの妖精がヴェゼルの周囲を飛び回っていた。
そして何より印象に残っているのは、金髪の少女だった。
大人しそうな雰囲気の少女。常にヴェゼルの傍にいた。
二人はとても自然に並んでいた。その姿を見るたび、胸の奥が少しだけもやもやした。理由はよく分からなかった。
誰なのだろう。聞いても従者達は答えてくれない。
ヴェゼルのこと。ビック家のこと。その話題になると皆どこか気まずそうな顔をする。
だからアビーはこっそりオースターとランツェに調査をお願いしているのだった。
そんなことを考えながら私室へ入ると、そのままベッドへ倒れ込む。
柔らかな布団が体を受け止めた。
「ああ……」
思わず声が漏れる。すると案の定、ランツェが呆れた顔をした。
「お嬢様、お着替えくださいませ」
アビーは動かない。ここだけは特別だった。
教皇ではなく、ただのアビーに戻れる場所。肩書きも責任も忘れられる場所。
だから少しくらいだらけても許されると思う。もっともランツェは許してくれないのだが。
この部屋に出入りできるのは限られた者だけだ。オースター。ランツェ。そして最近は妖精のネリネも許可している。
ネリネは光の妖精だ。光の精霊の使いでもある。なぜ自分の傍にいるのか。
その理由をアビーはまだ知らない。そういえば。火の精霊。水の精霊。風の精霊。聖の精霊。
その四柱とは何度も会っている。特に風の精霊は教会との窓口役のような存在で、頻繁に顔を合わせる。
だが精霊達を統べる光の精霊だけは、一度も姿を見せたことがなかった。
どんな方なのだろう。そんなことを考えながら布団の上を転がっていると、ランツェの声が飛んできた。
「お嬢様。先にお風呂へ入ってくださいませ。その後で夕食です」
アビーは布団へ顔を埋めた。もう少しだけ、このままでいたかった。
思い返せば、バルカン帝国の一男爵家の娘だった頃、自分の人生はもっと単純なものだと思っていた。
父と母がいて、弟がいて。領地の人々がいて。そして将来はヴェゼルと結婚する。
幼いながらに、そんな未来を当たり前のように思い描いていた。
だが、教皇の宣託はその全てを変えた。アトミカ教の教皇に選ばれたのだ。
その場で断ることなどできなかった。後になって知ったことだが、教皇の宣託を拒否した前例は存在しないらしい。
神殿も。司祭達も。バルカン帝国も、貴族達も。皆が当然のように受け入れていた。
そして父も母も、アビーの決断を尊重してくれた。だからアビーも頑張ろうと思った。
教皇になれば、もっと多くの人を救える。もっと多くの人の力になれる。
自分の考えを教会を通じて広められる。そうすれば救われる命も増えるのかもしれない。
そう思ったのだ。実際に教皇になってみて、その考え自体は間違っていなかったと思う。
だが。失ったものもあった。父と母には滅多に会えない。弟とも離れて暮らしている。
そして何より。ヴェゼルとの婚約は、いつの間にか曖昧なものにされてしまった。
誰も破棄とは言わない。誰も継続とも言わない。ただ話題にされなくなった。
それだけだった。最近では教会上層部も露骨だった。アビーがヴェゼルに関心を示すたび、周囲の反応が悪くなる。
特に原理派の者達は隠そうともしない。話を逸らされる。話題を変えられる。
酷い時には露骨に顔をしかめられる。だから最近は表立って聞くことをやめた。
それでも。一度でいい。ちゃんと話がしたい。
四年分の話をしたい。元気だったのか。何をしていたのか。どうしていたのか。
聞きたいことは山ほどある。
幸い最近になって、ネリネの光魔法を介した細い連絡手段だけはできた。本当に細いものだ。いつ途切れてもおかしくない。
それでも何もないよりはずっと良かった。まだネリネを全面的に信用したわけではない。光の精霊の使いである以上、露骨な裏切りはしないだろう。
今は頼るしかない。そんなことを考えながら、アビーはベッドの上でごろりと寝返りを打った。
すると案の定、ランツェの呆れた声が飛んでくる。
「お嬢様、何度も言いましたよね? お風呂のお時間です。お食事が遅れてしまいますよ!」
アビーは返事をしない。枕へ顔を埋める。動きたくない。今日は授業もあった。会議もあった。覚えることも多かった。
教皇という仕事は想像以上に疲れる。
「お嬢様! お風呂です!」
「むぅ……疲れたから服、脱がせてよー」
半ば本気でそう言うと、ランツェが苦笑しながらベッドへ腰掛けた。
柔らかな手が頭を撫でる。その感触にアビーは目を細めた。
「私に甘えてくださるのは嬉しいです」
優しい声だった。その言葉を聞くだけで胸の力が抜ける。教皇になってからも、この学院へ来てから、気を張る時間ばかりだった。
教皇として振る舞い。周囲に気を配り。失言しないよう注意し。誰かの期待に応え続ける。
だからこそ、こうしてランツェの前だけは少しだけ子供に戻れた。
「ランツェェ……もう少しだけ……」
「はい」
アビーが甘えるように身を寄せた、その次の瞬間だった。
ランツェの指が脇腹へ伸びる。
「ひゃっ!?」
「お風呂と食事は別です」
「ま、待って! やめてぇ!」
「駄目です」
脇をくすぐられ、アビーは思わず身をよじった。だがランツェは容赦しない。
「お嬢様、このままだと、また寝てしまいますよ。睡眠時間が減ってしまいます」
「やー! ランツェぇぇ!」
部屋に少女の悲鳴と笑い声が響く。教皇としての重責も。学院での窮屈な日々も。
そのひとときだけは忘れられた。
今のアビーにとって、奥の私室でランツェとこうしてじゃれ合う時間だけが、何者でもないただの少女に戻れる、かけがえのない安らぎだった。




