第694話 アビーの護衛体制
〈インスピラ司教視点〉
アビー教皇猊下の護衛体制は、一見すると大仰にも見える。だが、教団としては当然の措置だった。
まず助祭という肩書きを与えられている三人のテンプル騎士団員。騎士隊長カッパーヘッド(男)。騎士グレイス(女)。騎士キャラミ(女)。
彼らは名目上こそ助祭だが、実態は猊下の近衛騎士である。剣と槍による近接戦闘を担当し、有事の際には猊下の脱出を最優先とする。
敵を倒すことではない。猊下を生かすことだ。必要であれば自らが盾となり、肉壁となり、一秒でも長く時間を稼ぐ。そのための人員だった。
魔法戦力は司祭達が担当する。中心となるのはクーリア(女)だ。
聖魔法に長けており、防御結界や障壁魔法を得意とする。魔法班の実質的な指揮官でもある。
さらに収納魔法の使い手でもあり、その容量は相当なものだと聞いている。もっとも、その容量や技量には大きな差がある。
クーリアの収納量はその中でも群を抜いており、だからこそ今回の護衛隊の補給担当も兼ねていた。
今回猊下に同行している司祭、助祭は容量の差はあれど、全員が収納魔法を授かっている。
アトミカ教、とりわけアトゥミカ市国の中枢に近い者達にとって、収納魔法はもはや必須技能と言ってよい。
攻撃担当はセニック(女)。火・風・土の三属性を扱い、敵の牽制や排除を担う。
そしてクライダー(男)。聖魔法による身体強化を得意とし、突破口の確保や負傷者の離脱支援を担当する。
万一の場合は、騎士達が前線を維持し、クーリアが防壁を展開し、セニックが敵を牽制しながら、クライダーが猊下の撤退を補助する。
そうした体制が組まれていた。加えて帝国側の教会からも、身の回りの世話を担当する修道女達が派遣されている。
そのため猊下が外出する際には、常に十人を超える人員が周囲を固めることになる。
もっとも、これらの詳細な護衛計画は秘匿されていた。
猊下本人にも。オースター殿にも。ランツェにも。知るのはインスピラと司祭達、そして助祭達のみである。
情報を知る者は少ない方が良い。知らなければ漏れることもない。そういう判断だった。
ちなみにインスピラも魔法を扱えないわけではない。水魔法、風魔法、収納魔法。
一応は司教の名に恥じない程度には習得している。だが、正直なところその威力は戦闘向きではない。
攻撃魔法が得意なわけでもなく、体力があるわけでもない。
研究室に籠もる生活が長かった人間だ。
インスピラ私自身、戦力として期待されていないことくらい理解している。
周囲もそれを理解している。おそらく有事の際には、私は真っ先に後方へ押し込まれる側だろう。それで構わない。
私の仕事は戦うことではなく、生き残って状況を判断することなのだから。
そんなことを考えていると、騎士隊長カッパーヘッドが口を開いた。
相変わらず岩のような顔だった。
「明日からの警備はいかがいたしましょうか」
私は少し考えた。学院へ来てしばらく経つ。大まかな雰囲気も把握できていた。
幸い、今のところ危険な兆候も見当たらない。
「このままで構わないだろう」
そう答えると、今度は司祭のクーリアが手を挙げた。
「オースター殿から要望が来ております。猊下に他の学友との交流をもっと認めてほしいとのことです。今の護衛体制では周囲が近寄り難く、交友関係が広がらないと」
私は思わず苦笑した。それはそうだろう。教皇の周囲を十数人で囲んで歩けば、誰だって近付きにくい。
むしろ近付こうとする方が勇気がある。しばらく考えた末、私は結論を出した。
「ふむ……」
学院の環境も把握できた。護衛達の動きも安定している。少しくらい緩和しても問題ないだろう。
「では来週からは女性限定で交流を認めよう」
クーリアが頷く。
「承知いたしました」
「オースター殿にもそのように伝えてくれ」
会議はそれで終わった。
司祭達と助祭達は次々と部屋を出ていく。
静かになった執務室で、私は一人ため息を吐いた。教皇の安全を守ることも重要だ。
だが、十二歳の少女から普通の学生生活を奪うこともまた本意ではない。その均衡を取るのが、思った以上に難しいのである。
そこへ控えめなノックが響いた。
「入りたまえ」
扉が開き、一人の男と一柱の妖精が部屋へ入ってくる。
クライダー司祭と妖精のネリネだった。クライダーは一見すると若い男に見える。だが、実際の年齢を私は知らない。
おそらく教団内でも知る者は少ないだろう。それどころか、今見えている顔ですら本当の顔なのか怪しい。
彼は司祭でありながら、諜報任務も担う特殊な立場にある。
形式上はクーリア司祭の配下だが、実際には教団上層部から直接指示を受けて動くこともある人物だった。
特徴のない顔。人混みに紛れれば二度と見つけられないような容姿。
それこそが彼の特徴だった。
一方、ネリネは相変わらずだった。
整った顔立ち。感情の読めない無表情。必要最低限のことしか話さない。
光の妖精でありながら、その振る舞いはどこか冷ややかですらある。だが、与えられた任務だけは完璧にこなす。
そういう妖精だった。
部屋へ入るなり、クライダーが声を潜めて言った。
「どうやら、あの者の部屋へ設置した魔道具が発見されたようです」
私は小さく息を吐いた。
「そうか」
驚きはなかった。むしろ予想通りだった。
「まあ仕方あるまい。ネリネ殿も言っていたからな。妖精は魔力の流れに敏感だと」
ネリネは無言のまま立っている。否定もしない。肯定もしない。ただ沈黙だけが返ってきた。
それを了承と受け取ることにした。
私は机の上の報告書へ視線を落とす。
ヴェゼル・パロ・ビック。
最近、私の机に最も多く名前が載る人物だった。
「観察報告を見る限りでは、噂と本人の印象は随分違うようだな」
私はそう呟いた。
「入学式で少しだけ容姿を見たが、噂ほど凶悪な人物には見えなかった。どちらかと言えば少女のような顔立ちをしていたくらいだ」
するとクライダーが静かに答える。
「ですが、教国のクルセイダーを壊滅に追い込んだ件は事実の可能性が高いかと」
私は顔を上げた。クライダーは続ける。
「先日の入学試験でも第三師団長を瞬時に殺害し、数十名の兵士を無力化しております。詳細は現在も調査中ですが、少なくとも常識的な戦力ではありません」
私はしばらく考えた。
そして率直な疑問を口にする。
「本人達には聞けない話だがな。カッパーヘッド殿達三人が同時に戦った場合、どうなると思う?」
「彼らでは、数秒も持たないと思われます」クライダーは即答した。迷いがなかった。
私は眉をひそめた。
「そこまでなのか」
「はい」
短く答えた後、珍しくクライダーが自ら言葉を続ける。
「あの戦闘能力は異常です」
その声には僅かな熱が混じっていた。
「個人戦闘でも集団戦闘でも結果は変わりません。相手が何人であろうと瞬時に制圧されるでしょう」
そして一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙した。
「私が申し上げるべきことではありませんが――あの戦闘能力は国家戦略級です。一個人として扱うには危険すぎるかと」
部屋が静まり返る。言った本人も気付いたのだろう。
すぐに頭を下げた。
「失言でした」
だが私は首を振った。
「いや」
研究者として、むしろ興味深かった。
「そういう感情の乗った情報こそ価値がある。数値では測れない現場の評価だからな」
私は椅子にもたれた。
そして天井を見上げる。
「しかし……そこまでなのか」
クライダーは黙ったままだった。
私は独り言のように続ける。
「本来なら猊下との縁を利用して、こちら側へ引き込めれば理想なのだろうな」
だがすぐに首を横へ振る。
「…だが……余計なことはすべきではないか」
今の私は研究者ではない。教皇猊下の護衛責任者だ。
立場を履き違えるわけにはいかない。そう自分に言い聞かせる。
だが――。
どうしても気になる。彼の収納魔法。そして戦闘能力。
集めれば集めるほど、ヴェゼルという少年は異質だった。あまりにも異質だ。
初代教皇カミア様が残した研究資料。
改革派が何百年も追い続けてきた理論。
私自身が生涯をかけて研究してきた転移・空間魔法。
もし。本当にもし。あのヴェゼル殿が研究に協力してくれるなら。
これまで誰も到達できなかった領域へ踏み込めるかもしれない。
カミア様が夢見た事。
その完成形へ近付けるかもしれない。
そんな考えが脳裏をよぎる。
私は慌ててその思考を追い払った。
違うな。
今の私は研究者ではない。護衛責任者だ。
猊下の安全が最優先である。そう何度も自分へ言い聞かせる。
だが皮肉なことに、噂や報告書を読むほど、その少年の危険性ではなく、研究対象としての価値ばかりが目についてしまうのだった。




