第692話 盗聴と日常のあいだで
そして小型の録音魔道具は、嬉々としてベルエアがそのままの勢いで持ち帰っていった。
「これは私が持ち帰って詳しく調べますね!」
そう言うや否や、ヴェゼルがお礼を言う間もなく部屋を出ていく。あまりの早さに、残された面々は苦笑いするしかなかった。
ヴェゼルはフルフェンスにも礼を述べ、彼を見送る。こうして部屋に残ったのは、管理人のオルティアとヴェゼル、そして妖精たちだけになった。
ヴェゼルは一度、静かに考える。
三階という高位貴族の居住区。皇族や上位貴族も入る区画に、外部か内部かも分からない者が容易に侵入し、魔道具を設置していた。
オルティアやベルエアたちがヴェゼルの部屋へ立ち入った時点で、そこに魔道具が仕掛けられていた事実は、ヴェゼルに知られたと見てよい。
さらにこれだけの人数が出入りしたとなれば、仕掛けた側もまた、その異変から「設置が露見した」と察した可能性は高いだろう。
それは今後の抑止にはなるかもしれない。だが同時に、高位貴族の居住区に「侵入しようと思えばできる」と示してしまった事実は重い。
その考えを読んだように、オルティアが低い声で言った。
「今後は寮の管理を一度見直すよ。この階層は皇族やそれに準ずる者もいる。こんな簡単に入り込まれていい場所じゃないからね」
そして短く息を吐く。
「人員も含めて、洗い直す必要があるわね」
その言葉に、ヴェゼルは小さく頷いた。
――一件落着ではない。今回はただの“露見”だ。
そう理解しながらも、今夜の時点ではそれ以上の動きはないと判断し、その場は一度収束する形となった。
翌朝。
ヴェゼルが食事会場へ向かうと、すでにプロフィア、エストレヤ、カジャール、フルフェンスらが席についていた。ここ最近は自然と固定のような顔ぶれになりつつある。
今のところ、トレディアとダイナはまだ来ていない。恒例になりつつあるのだが、ダイナがなかなか起きないため、トレディアが世話をしているのかもしれなかった。
その輪にヴェゼルが加わると、肩にいたジャスティとルーミーもそれぞれ食卓へと移る。
遅れて、サクラだけが眠たげに胸元からもそもそと這い出てきた。服を伝って机に降りると、そのまま四つん這いでもぞもぞと自分の器へと向かう。
その姿を見て、エストレヤがぽつりと漏らす。
「なんか……芋虫みたい……」
言ってから慌てて口を押さえるが、誰も特に否定はしなかった。
サクラは気にする様子もなく、自分の器の前に座ると、ヴェゼルを見上げる。
「あーん」
「自分で食べなよ」
そう言いながらも、ヴェゼルはパンをちぎって差し出した。サクラはしぶしぶそれを受け取る。
周囲はいつものように、生温かい視線でその光景を眺めていた。
その空気の中で、フルフェンスが口を開く。
「で、昨日の件はみんなに話したのか?」
ヴェゼルは小さく首を振り、皆を見渡してから口を開いた。
「昨日、俺の部屋に録音用の魔道具が仕掛けられてた。ここだけの話にしてほしい。だから、みんなも気をつけてくれ」
カジャールが目を丸くする。
「ヴェゼルの部屋って三階だろ? そこにまで入れるのか」
エストレヤも続ける。
「どうやって気づいたの?」
ヴェゼルは視線をわずかに横へやった。
「サクラとジャスティとルーミーが気づいた」
その言葉に、場の空気がわずかに変わる。
トールが頷きながら言う。
「たぶん俺たちも分かると思うぞ。妖精ってのは魔力の揺らぎに敏感だからね。な、タンク?」
隣のタンクはパンをかじりながら、きょとんとした顔でトールを見る。
食事に夢中で、話はほとんど耳に入っていないようだった。
ヴェゼルは軽く息を吐き、まとめるように言った。
「なら、少なくともサクラ、ジャスティ、ルーミー、それにトールは察知できる可能性があるな。今日の授業が終わったら、念のため各自の部屋も見てもらった方がいいかもしれない」
その言葉に、皆は静かに頷いた。
そしてヴェゼルたちは朝食を終え、授業へ向かうため食堂を後にした。
多くの生徒も食事を終え、それぞれが教室へと向かい始めている。人の流れは徐々に食堂から廊下へと移り、建物全体が朝の喧騒から学びの空気へと切り替わりつつあった。ヴェゼルとプロフィアもその流れに自然と加わる。
ちょうど食堂の出口へ差し掛かったところで、遅れてトレディアとダイナが慌ただしく姿を現した。
案の定、ダイナは起きるのが遅かったらしく、トレディアに手を引かれたまま、目を閉じたまま引っ張られている。
「ダイナさん、自分で歩いてくださいよ。私は先に行きますからね」
トレディアが呆れたように言うが、ダイナはまるで聞いていない。手を離される気配もなく、むしろ当然のように体重を預けている。
「トレディア、私の分も取ってよぉ」
甘えるような声に、トレディアは一瞬言葉を失った。そもそも自分の分を運ぶだけでも手一杯な量を抱えているのだ。そこに追加でダイナの分までとなれば、余裕などあるはずもない。
ヴェゼルはその様子を見て小さく息を吐くと、軽く手を上げた。
「先に行ってるね」
そう告げて席を立つ。プロフィアもそれに続いた。
背後では、トレディアの深いため息がはっきりと聞こえた。
この日の授業は、貴族必修科目である領地経営学だった。
教室に入ると、すぐに周囲の視線が集まる。
「ベルエア先生がヴェゼルさんの部屋に……」「もう餌食にされたってことか……」「これで何人目だよ…」
そんなひそひそ声が、あちこちから漏れてくる。
プロフィアが小さく苦笑した。
「もう広まっているのですね。少し早すぎませんか?」
「まぁ、うちは敵も多いからね。誰かが広めてるのかもしれない」
ヴェゼルは淡々とそう返し、一番後方の端の席に腰を下ろした。
授業開始直前になって、ようやくダイナがトレディアを抱えたまま教室へ滑り込んできた。
「間に合った……」
そんな声が漏れたが、その当のダイナは椅子に座るなり、今にも机に突っ伏しそうな状態だった。
どうやらトレディアの歩く速さでは間に合わないと判断したダイナが、トレディアを抱え上げて強引にここまで運んできたらしい。
椅子に座ったのと同時に、トレディアがすぐさま声を上げる。
「ダイナさん、もう少し余裕を持って起きてくださいよ!」
しかしダイナは悪びれる様子もなく、ふらふらと机に突っ伏した。
そして授業が始まった。
この授業を担当するのはポルトフィーノという老教師で、元男爵として実際に領地経営を行っていた経歴を持つ人物だった。
声は小さいが内容は実践的で、一瞬でも聞き逃せば置いていかれる授業だった。生徒に頻繁に問いを投げかけるため、気を抜くこともできない。
本来であればヴェゼル、プロフィア、トレディアはこの授業を受ける必要はない立場だったが、シェルパから「将来を考えるなら受けておくべきだ」と助言され、参加している科目だった。
一方で、本来この授業に落ちているダイナは、当然のように舟を漕いでいる。トレディアが時折起こしているものの、あまり効果は見られない。
やがていくつかの講義が終わり、ヴェゼルたちが昼食へ向かおうと廊下へ出た、その時だった。
進路の先に、ひとりの男子生徒が立ちはだかっていた。その視線は、まっすぐヴェゼルだけを見ていた。




