第684話 睨む男の子とキャシーとニーヴァ
そして試しの授業への出席も一通り終わり、ヴェゼルたちは履修する科目をほぼ決めていた。
この学院では必修科目の多くに初回試験が設けられており、そこで合格点を取れば授業そのものが免除され、その場で単位を取得できる。ただし単位を取得した後も、希望すれば授業へ出席することは可能だった。
必修科目は語学、算術学、帝国史、世界史、地理学、礼法学、自然学、法律学、帝国法。
さらに貴族籍取得を目指す者には、領地経営学、軍略学、魔法理論、貴族倫理学、帝国法、舞踏学、そして武術二科目が課される。武術は裁縫、魔法、騎乗、剣、槍、体術、弓の中から選択する仕組みだった。
選択科目も豊富である。
精霊学、商業学、錬金学、外交学、建築学、農政学、鉱山学、医療学、魔道具学、測量学、航海学、言語学、考古学、神学、家政学、教養学、社交学、児童教育学、被服学、音楽学、芸術学、茶会・宴席運営学など。
さらに三年次からは高等魔法理論、高等軍略学、国際外交論、大規模土木工学、精霊契約学、魔導工学といった上級課程も履修できるらしい。
そして貴族籍に必要な授業も、領地経営学や軍略学、魔法理論などは試験に合格すれば免除となる。
当然ながらヴェゼルとプロフィアは全科目受験を選択した。二人にとっては授業を受けるより試験を突破した方が早いのだ。
しかし全員がそうではない。
「終わった……私の学院生活、終わったわ……」
ダイナは初日の昼から机に突っ伏していた。
「ダイナ、まだ始まったばかりでしょう」トレディアが呆れたように言う。
「僕は法律と地理が駄目かも…」フルフェンスも肩を落とす。
「俺も法律も苦手だな」ラングラーも珍しく渋い顔をしていた。
それに対しコーティナは胸を張る。「私は全部合格を目指すわ!」
「私もです」エストレヤが静かに頷く。
カジャールも負けじと腕を組んだ。「当然だよ。僕も必修は全て合格したいな」
そんな具合に、この一週間は試験一色となった。
妖精たちも例外ではない。
ジャスティは妙に張り切っていたが、そもそも試験制度そのものが妖精を想定して作られていないため、受験方法の調整だけでも大騒ぎだった。大きな試験用紙に自分と同じ身長ほどの筆記用具。
それでもジャスティもルーミーも何科目か受験するつもりらしい。
昼食の話題も自然と試験結果になる。
あの問題は解けたのか。どの設問で躓いたのか。答えは合っていたか。
そんな話が飛び交う中、ダイナだけが机に向かって必死に復習していた。
「こんな問題を作った教師にいつか復讐してやるわ」
そう言って参考書を睨みつけている。もはや末期だった。
そんな賑やかな昼休みの最中、ふと視線を感じた。少し離れた席から、一人の少年がじっとこちらを見ている。
ヴェゼルは首を傾げた。初対面のはずだ。だが妙に見覚えがある。
「プロフィア、あの子、どこかで見たことない?」
「私もそう思っていました」
二人で考え込む。だが思い出せない。
すると、最後にまたヴェゼルをジロっと睨んで去っていった。
その時だった。
「あ、あのっ!」どこかから慌てた少女の声が聞こえた。
ヴェゼルが振り返ると、一人の少女がこちらへ向かって歩いてくるところだった。後ろには護衛らしい男女の学生が付き従っている。
少女はヴェゼルと目が合った瞬間、ぱっと花が咲いたように表情を明るくした。
見つけた。そんな声が聞こえてきそうなほど分かりやすい笑顔だった。
そして嬉しそうに足を速める。歩く速度では足りないと思ったのか、小走りになった。だが、その直後だった。
「あっ」
少女の体がぐらりと傾く。何もない場所だった。障害物も段差もない。
それなのに何故か自分の足に躓いたらしい。次の瞬間には盛大に前へ倒れていた。
べしゃっ。続いて、ごりっ、と嫌な音が響く。
顔面から突っ込んだのだろう。食堂が一瞬静まり返った。
周囲の学生たちも思わず目を丸くする。しかし意外なことに、後ろにいた護衛の男女はほとんど慌てなかった。
男性護衛が小さくため息を吐く。
「今日は派手ですね」女性護衛もどこか諦めたような顔をしていた。
その反応にヴェゼルは少し驚く。普通なら慌てて駆け寄る場面だ。だが二人の様子からは焦りよりも慣れが感じられた。
少女はむくりと起き上がった。案の定、鼻から血が出ている。胸元にも赤い飛沫が散っていた。
すると女性護衛が手際よく布を取り出し、顔と胸元の血を拭う。
男性護衛はポケットから綿を取り出し、慣れた手つきで丸めると少女の鼻へそっと詰めた。あまりにも自然な流れだった。
「ありがとうございます」少女は恥ずかしそうに笑いながら礼を言う。
護衛たちも特に気にした様子はない。どうやら本当に日常茶飯事らしい。
ヴェゼルは思わずプロフィアへ視線を向けた。プロフィアも同じことを考えていたのだろう。
なんとも言えない顔で少女を見ている。
大丈夫なのだろうか。
そう思って眺めていると、突然、すぐ横から声を掛けられた。
「ちょっと、あなた」
ヴェゼルはそちらへ振り返る。そして思わず吹き出しそうになった。
そこに立っていたのは、自分たちと同年代と思われる少女だった。だが、その姿があまりにも目立つ。
長い睫毛。かなり濃い化粧。豪華な衣装。宝飾品まで身につけている。
周囲の学生が普段着に近い学院指定の服装をしている中、その少女だけが今から舞踏会へ向かうと言われても納得できる格好だった。
少女はそんな周囲の視線など意に介さない。
腰に手を当てる。胸を張る。顎を少し上げる。そして高らかに笑った。
「おほほほほ!」
食堂中の視線が集まった。だが本人はむしろ満足そうだった。
「私はベルザ公国大公家長女、ニーヴァ・パッセ・キャノピー・コモドアですわ!」
見事な名乗りだった。声量も姿勢も無駄に良い。
ヴェゼルは一瞬だけ、この子は登場の練習でもしてきたのだろうかと思った。
「あなたがヴェゼルさんですわね!」ニーヴァはびしりと指を向ける。
「そうだけど?」ヴェゼルが答えると、ニーヴァは得意げに微笑んだ。
まるでここから先の展開が全て決まっているかのような自信に満ちた顔だった。
「私があなたとお友達になって差し上げてもよろしくてよ!」
その場にいた学生たちが何人か目を瞬かせる。
おそらくニーヴァ本人は、ここでヴェゼルに感謝される未来を想像しているのだろう。
ヴェゼルは少しだけ考えた。そして率直に答える。
「あ、俺そういうの間に合ってるんで」
即答だった。ニーヴァの笑顔が固まった。まるで時間が止まったかのようだった。
せっかく勇気を出して声をかけたのだ。本人の中では、多少驚かれたとしても、最終的には喜ばれる未来しか存在していなかったのだろう。
だからこそ、ヴェゼルの返答は完全に予想外だった。数秒ほど口を半開きにしたまま停止した後、食堂中に響く声で叫んだ。
「な、なんですってぇ!? わたくしがせっかく声をかけて差し上げたのですわよ!」
頬がみるみる赤くなっていく。
そんなニーヴァを見上げながら、ヴェゼルの上着のポケットから小さな顔がひょこりと現れた。
サクラである。ニーヴァをじっと見つめると、遠慮も容赦もなく言った。
「あんた、顔ケバすぎ!」
一瞬だった。食堂が静まり返る。そして次の瞬間。
「きゃはははは!」「確かにですわ!」「顔真っ白です!」「目が怖い!」
周囲にいた妖精たちが一斉に笑い転げた。
テーブルの上をタンクは転げ回っている。
ニーヴァの肩がわなわなと震えた。
「な、なんですってぇぇぇぇぇ!!」
絶叫が食堂に響き渡る。
その頃になってようやく、先ほど派手に転倒した少女がヴェゼルたちのところへ辿り着いた。
鼻には綿が詰められている。胸元にはうっすらと血痕が残っている。
それなのに歩き方も仕草も驚くほど上品だった。むしろ、転倒して鼻血を出した直後とは思えないほど落ち着いている。
少女はヴェゼルの前で立ち止まると、優雅にスカートの裾を摘み、丁寧に礼をした。
「少しよろしいでしょうか」
柔らかな声だった。ヴェゼルが頷くと、少女は微笑む。
「私はキャシュカイ・ディオン・キャノピーと申します」
その笑顔は穏やかで、人を安心させる不思議な雰囲気があった。
「あなたがヴェゼル様ですわね」
「うん」
「よろしくおね――」だが挨拶は最後まで続かなかった。
「またあなたですの!」甲高い声が横から飛んできた。
ニーヴァである。彼女はずかずかと二人の間へ割り込んできた。
「キャシー! 今わたくしが話をしておりますのよ!」
どうやら二人は知り合いらしい。それもかなり以前からの。
キャシュカイは呆れたように小さくため息をついた。その反応を見る限り、このやり取りも日常なのだろう。
ヴェゼルも早々に理解した。
――この子の相手をしていると話が進まない。そう判断した結果、ヴェゼルはニーヴァを綺麗に無視する。
「あの、キャシュカイさん。何か用?」
話を振られたキャシュカイは少し驚いたように目を瞬かせた。そして頬をほんのり赤く染める。
「その……ぜひ、お友達になっていただきたくて」
少し恥ずかしそうに視線を下げる。
横ではニーヴァが何か抗議している。だがヴェゼルの耳には入らない。
ヴェゼルは苦笑する。「まあ友達の定義はよく分からないけど」
そう言いながら肩を竦めた。「同級生なんだから仲良くしよう」
その言葉を聞いた瞬間、キャシュカイの顔がぱっと明るくなった。
「はい!」とても嬉しそうだった。まるで試験に合格した子供のように笑っている。
そしてその隣で。とうとうニーヴァが爆発した。
「あなた! なぜわたくしを無視しますの!」
食堂中に再び声が響く。ヴェゼルもさすがに眉をひそめた。少しだけ声が低くなる。
「あのさ、お前、さっきからうるさいんだけど、結局何がしたいんだ?」
その瞬間だった。ニーヴァの後ろに控えていた男子学生が反射的に一歩前へ出る。
腰の剣へ手を伸ばした。周囲の空気がぴたりと止まる。
ヴェゼルの表情から笑みが消えた。
「へぇ」
静かな声だった。だが、それまでとは温度が違う。
「やる? 別にいいけど」
護衛の男子学生の肩がぴくりと震えた。ヴェゼルは冷めた目で相手を見る。
声は穏やかだった。だからこそ余計に怖い。
「俺は剣を抜いた相手には手加減しないよ。試験の騒動、知ってるよね?」
男子学生の顔色が一瞬で青くなった。知らないはずがない。
入学試験で起きた騒動は、すでに学院中へ広まっている。
第三騎士団長を討ち取り、さらに大勢の騎士を無力化した少年。
それが目の前のヴェゼルだ。まともに戦う相手ではない。男子学生の手がゆっくりと剣から離れようとした、その時だった。
「下がりなさい」
キャシュカイが一歩前へ出た。穏やかな声だった。しかし不思議と逆らえない響きがある。
「ここは学院です。刃傷沙汰は誰のためにもなりません」
男子学生は小さく頭を下げると、素直に後ろへ下がった。それを確認してから、キャシュカイはニーヴァへ向き直る。
「ニーヴァさんここは公国ではありません」
優しい声だった。まるで妹を諭す姉のようでもある。
ニーヴァが肩を竦める。
「お友達になりたいのでしたら、まず礼節を示さなければ駄目です」
「うっ……」ニーヴァが言葉に詰まった。
図星だったのだろう。実際、彼女は朝から気合いが入っていた。
ヴェゼルに挨拶するのだと意気込み、侍女や護衛たちの助言も聞かず、念入りに化粧を施した。
服も選びに選び抜いた。完璧な登場を演出するつもりだったのである。
その結果が今だった。目元にはうっすら涙まで浮かんでいる。
キャシュカイは困ったように笑った。そしてヴェゼルへ向き直る。
「ヴェゼル様、申し訳ありません」
「いや、別に」
「ニーヴァさんは、その……」
言葉を探す。しばらく考える。
「かなり自意識過剰なのですが」
ニーヴァが嫌そうな顔をする。
キャシュカイはさらに悩んだ。
「根は……」
また止まる。そして正直に言った。
「それほど良くもありませんが」
「キャシー!」
ニーヴァが叫ぶ。周囲から笑いが漏れる。
キャシュカイは真顔のままだった。少し首を傾げる。
「でも悪い方ではないのです。多分」
「キャシー! 全然褒めてませんわよ!?」食堂に笑いが広がった。
プロフィアはその様子を眺めながら苦笑する。
まただ。ヴェゼルの周囲では本当に何もしなくても騒動の方からやって来る。
コーティナも。エストレヤも。カジャールも。そしてフルフェンスやラングラーも。
入学してまだ間もないにもかかわらず、一つの事実を理解し始めていた。
――ヴェゼル・パロ・ビックは、自ら問題を起こす人間ではない。
むしろ本人は面倒事を避けたがっている。
だが何故か。本当に何故か。問題の方から勝手に飛び込んで来るのだ。
それだけは間違いなかった。
急に新しい人が増えて、、、、、、
今週末あたり、、一度登場人物整理をした方がよいかな。。




