第678話 入学式03
2026年6月6日午前10時過〜10時30分までの間、
お読みいただいた方、申し訳ありません。
第678話〜第700話の順番が前後しておりました。
ヴェゼルはちらりと演台へ視線を向けた。
まだ学長の姿はない。教師たちも全員が揃っているわけではなく、講堂のあちこちでは新入生たちの話し声が絶えず響いている。
入学式の開始までは、まだ少し時間がありそうだった。
ヴェゼルは静かに席を立つ。
「ヴェゼルさん?」
隣のプロフィアが不思議そうに声を掛ける。
だがヴェゼルは小さく頷いただけだった。向かう先は決まっている。
青い法衣を纏う少女。アビーだった。
講堂へ入ったアビーたちは、右後方に設けられた特別席へ向かっている。その周囲には助祭や高位聖職者たちが付き従い、まるで彼女を守る壁のように人垣を作っていた。
それでもヴェゼルは歩みを止めない。
せめて一言。せめて一度だけでも話したい。そう思いながら歩を進めた、その時だった。
別の方向から一団が近付いていく。先頭を歩くのはメガーヌだった。取り巻きを従え、大股で真っ直ぐアビーの前へ向かう。
そして当然のようにその進路へ割って入った。その瞬間、オースターが一歩前へ出る。
後方に控えていた助祭たちも同時に動いた。
「何用でしょうか」穏やかな声音だった。だが、その立ち位置は明確だった。
これ以上は近付かせない。そう告げている。
メガーヌは気分を害した様子もなく、皮肉げな笑みを浮かべた。
「なに、尊き教皇猊下へご挨拶をと思ってな」
わざとらしく胸へ手を当てる。
「私はバルカン帝国第二皇子、メガーヌ・ラエモンス・バルカン。同じ学院へ通うことになるのだ。一言くらい言葉を交わしても良かろう?」
周囲の視線が集まる。皇子と教皇。
それだけでも十分に注目を集める組み合わせだった。
だが――。アビーは見ていなかった。メガーヌを。オースターを。助祭たちを。周囲の誰一人を。
その青い瞳はただ一人だけを見つめていた。ヴェゼルだった。ヴェゼルもまた同じだった。
周囲の声は耳に入らない。講堂の喧騒も。人々のざわめきも。まるで遠くへ消えていた。
二人の間には数メートルの距離しかない。手を伸ばせば届きそうなほど近い。それなのに、あまりにも遠かった。
四年という歳月。教皇と貴族。それぞれの立場。無数の人々の思惑。その全てが、たった数歩の距離を埋められないほど重くしているようだった。
アビーの瞳が小さく揺れる。唇がかすかに震える。
何かを言おうとしているのかもしれない。けれど言葉にはならない。
代わりに。ぽろり、と。一粒の涙が頬を伝った。それは静かな涙だった。
声もない。嗚咽もない。ただ、堪えきれず零れ落ちた涙。
その瞬間。ヴェゼルの胸が強く締め付けられた。けれど同時に、どこか安堵している自分もいた。
もう十分だった。あの涙だけで分かった。
手紙は届いていなかったのだろう。忘れられていたわけではない。拒絶されていたわけでもない。
四年間。自分だけが会いたかったわけではなかった。その答えが、たった一粒の涙に込められていた。
言葉はいらない。そして、ヴェゼルは思わず一歩踏み出した。
アビーの頬を伝った涙が、どうしても頭から離れなかった。
だからこそ、今だけは。せめて一言だけでも。そう思って足を速めた、その瞬間だった。
何かが横から飛んできた。
「――っ!?」
周囲がどよめく。殺気はない。敵意もない。だからこそ反応が遅れた。
頭の上にいたサクラまで驚いて飛び上がる。「ひゃっ!?」
次の瞬間。
どんっ!!勢いよく飛びつかれたヴェゼルは、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
講堂中の視線が一斉に集まる。
「なっ!?」
ヴェゼルが状況を理解するより早く、細い腕が首へ回された。ぎゅううううう。思い切り締め付けられる。
そして。聞き覚えのある声が講堂中へ響き渡った。
「ヴェゼル様ぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ざわめきが止まる。講堂が静まり返った。
「ようやく会えましたぁぁぁぁぁ!!」
誰もが呆然とする。そしてその声の主は、ヴェゼルの首筋へ頬を押し付けながら、必死に匂いを嗅ぎ始めた。
くんくん。くんくんくん。
「間違いありません! この匂いです!」
「え?」
くんくん。「私のヴェゼル様です!!」
「何が!?」
周囲は完全に思考停止していた。何人かは口を開けたまま固まっている。
アビーも同じだった。涙を浮かべたまま、ただ呆然とその光景を見ている。
あまりにも予想外だったのだ。ヴェゼルへ抱きついていた人物。
それは――ランツェだった。
四年前はまだ幼さの残る少女だった。
だが今は違う。身長は完全にヴェゼルを追い越している。猫耳も尻尾も健在だが、その身体つきは立派な女性へ成長していた。
しかし。中身だけは何も変わっていなかったらしい。
「会いたかったです!!」
頬を擦り寄せる。猫耳がぴこぴこ動く。
「この匂いなのです!」
「だから何が!?」
「ヴェゼル様です!」
「それはもう分かったよ!」
思わず叫ぶ。するとランツェは真顔で頷いた。
「やはり本物でした」
「だから何の確認をしてるの!?」
周囲から笑いを堪えるような声まで聞こえ始める。
その時だった。ヴェゼルの手が反射的に動いた。
目の前に猫耳がある。ふわふわしている。それはもう仕方のないことだった。
無意識だった。ぽん。猫耳を撫でる。ぴくっ。ランツェの耳が跳ねた。
さらに首元を軽く撫でる。すると。ごろごろごろごろごろ。喉が鳴り始めた。
「にゃぁ……」
完全に猫化している。周囲がさらに静まり返る。何とも言えない空気が広がった。
そして。
「ランツェ」
苦笑混じりの声が響く。オースターだった。彼はゆっくり近付くと、ランツェの襟首を掴む。
「まだです」
「十分です」
「まだ三割です」
「十分です」
「あと少しだけ!」
「十分です」
そのまま容赦なく引き剥がした。
「にゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」悲鳴が響く。猫耳がばたばた暴れる。尻尾までぶんぶん振り回している。
だがオースターは慣れたものだった。ずるずると引き剥がしに罹ろうとする。
その途中。オースターはヴェゼルの横を通り過ぎる。そして誰にも聞こえない声で囁いた。
「私もランツェも、アトミカ教に仕えているわけではありません」
ヴェゼルの目が細くなる。オースターは前を向いたまま続けた。
「私たちはアビー様個人に雇われた従者です。私たちは教団の味方ではありません」
一瞬だけ視線が交わる。その言葉には重みがあった。
「私たちは――アビー様の味方です」
それだけ言うとオースターは離れていった。
その後ろでは。
「離してくださいぃぃぃぃ!!」
「駄目です」
「まだ会話してません!」
「十分です」
「まだ抱きついてません!」
「抱きついていました」
「足りません!」
「十分です」
ランツェがずるずる引きずられていく。講堂中の視線を浴びながら。
その途中。ランツェは一瞬だけアビーを振り返った。そして。誰にも気付かれないほど小さく耳を伏せる。
どこか安堵したようにも見えた。次の瞬間にはまた暴れ始めたが。
「ヴェゼル様ぁぁぁぁぁ!!」
「静かにしなさい」
「嫌です!!」
やがて声は講堂の外へ消えていった。残されたヴェゼルは額を押さえる。
四年ぶりだった。本当なら。もっと感動的な再会になるはずだった。聞きたいこともあった。話したいこともあった。アビーへ伝えたいこともあった。
だが。全部ランツェに持っていかれた。
ふと視線を上げる。その先にアビーがいた。高位助祭たちに囲まれている。もう直接言葉を交わすことはできない。
それでも。アビーは見ていた。先ほどまでの涙は消えていた。だがその瞳には、少しだけ笑みが浮かんでいる。
ほんの僅かに。ヴェゼルは小さく肩を竦めた。
そして席へ戻ろうと振り返る。その途中。メガーヌと目が合った。忌々しそうな視線だった。どうやら先ほどから何一つ思い通りになっていないらしい。
ヴェゼルは何も言わない。そのまま視線を外して歩く。
歩きながら考える。もしかすると。あれはランツェなりの助け舟だったのかもしれない。
もし自分とアビーがあの場で言葉を交わせば。周囲は必ず騒ぐ。教皇と(元)婚約者。それだけで十分な話題になる。
アトミカ教の頂点は公平でなければならない。だからこそ。あの騒動で全てを有耶無耶にした。
あの猫娘は案外そこまで考えていたのかもしれない。
――いや。
考えてない気もする。そこは何とも言えなかった。席へ戻るとプロフィアが苦笑していた。
「大変でしたね」
頭の上ではサクラが呆れた顔で足を組んでいる。
「相変わらずモテモテね」
「違うと思うよ」
「本人だけ気付いてないやつね」サクラは鼻で笑った。
その時だった。講堂の外から微かに声が聞こえてくる。
「せっかくヴェゼル様に会えたのにぃーーー!!」
猫耳娘の悲痛な叫びが遠ざかっていく。それを聞きながら、ヴェゼルは思わず苦笑した。
四年ぶりの再会。きっと忘れられない日になるだろう。
少なくとも。
講堂にいた誰一人として、今日の出来事を忘れることはないはずだった。
意外?にも、、ランツェ回でした。
感動は訪れない仕様なんですかね?




