第677話 入学式02
そして、皆で連れ立って大講堂へと入っていった。
扉をくぐった瞬間、空気が変わる。
高い天井を支える白い大理石の柱。階段状に広がる観客席。正面の壇上には学院の紋章が掲げられ、その下には来賓や教員のための席が並んでいる。
新入生たちの期待と緊張、保護者たちの誇らしさ、上級生たちの好奇の視線。それらが入り混じり、独特の熱気を生み出していた。
入口付近でシェルパが足を止める。
「それじゃあ、また後でね」
エストレヤへ穏やかに告げると、一度だけヴェゼルへ視線を向け、小さく微笑んだ。
そのまま壇上脇の関係者席へと歩いていく。
それを見送ったエストレヤが誇らしげに胸を張った。
「お兄様ね、この学院の生徒会長なの! だから今日は新入生への挨拶をするはずよ」
なるほど、とヴェゼルは思う。
短い付き合いではあるが、シェルパは聡明で、公平で、人の話を最後まで聞くことのできる人物だった。
力だけでも、知恵だけでも、人は付いてこない。だが彼には、そのどちらとも違う何かがある。
ああいう人が上に立つと、組織は自然とまとまるのだろう。
やがて学院の係員が声を張り上げた。
「新入生の皆様は自由にお座りください」
それを聞き、ヴェゼルたちは周囲を見回す。今更な感じだが、なるべく目立たない場所がいい。
結果、一番後ろの端の席へ向かうことになった。
もっとも。本人たちの思惑とは裏腹に、目立たないという選択肢は最初から存在しなかった。
ヴェゼルの肩には妖精。頭の上にも妖精。プロフィアの肩にも妖精。
その周囲にはエストレヤ、カジャール、ダイナ、トレディア、フルフェンス。
皇女。公爵家の嫡孫。二人の王女。五柱の妖精。そして…自称ヴェゼル唯一の親友。
周囲の視線が集まらない方がおかしかった。だが、その注目も長くは続かない。
入口付近が再びざわついたからだ。
メガーヌが現れたのである。十数人の取り巻きを従え、悠然と歩いてくる。
どうやら付き人たちが事前に席を確保していたらしい。最前列中央。誰の目にも入る場所だった。
メガーヌはゆっくりと講堂全体を見渡した。そして後方のヴェゼルたちを見つける。
吊り上がった目が僅かに細められた。露骨な敵意。だが、それ以上は何も言わない。
鼻を鳴らし、そのまま席へ腰を下ろした。
やがて講堂は徐々に埋まっていく。
新入生。上級生。教師たち。そして後方の保護者席。
人が増えるたびに話し声も大きくなり、会場全体がざわめきに包まれていった。
そんな中だった。
再び入口が騒がしくなる。だが、今度は先ほどとは違う。
驚き。緊張。そして敬意。その三つが入り混じったざわめきだった。
人々が自然と道を開けていく。先頭を歩いていたのは二人の神官。純白の法衣。胸元にはアトミカ教の紋章。
世界最大の宗教勢力。その威光を知らぬ者はいない。
そして、その後ろから現れた人物を見た瞬間――。
ヴェゼルは息を呑んだ。気付けば立ち上がっていた。
考えるよりも先に身体が動いていた。見間違えるはずがない。
白衣姿の男性。オースター。
そしてその隣。猫耳をぴこぴこと揺らしながら周囲を見回している少女。
ランツェだった。懐かしい顔だった。
だが。ヴェゼルの視線は、その二人のさらに奥へ吸い寄せられる。
青い法衣を纏った少女。
いや。もう少女というより、一人の女性へ近付きつつあった。
アビー。現アトミカ教教皇。かつての婚約者。四年ぶりだった。
あの日。突然下された神託。
その日を境に、すべてが変わった。
婚約は有耶無耶にされた。立場も変わった。
生きる世界さえ変わった。それでもヴェゼルは手紙を書いた。
一通。二通。三通。何度も。何度も。
だが返事は一度も来なかった。だから届いていないのだろうと思った。
あるいは。届いていても返せないのだろうと思うことにした。
だが。アビーの瞳を見た瞬間。ヴェゼルは理解した。
届いていない。おそらく一通も。
彼女の瞳がすべてを語っていた。驚き。喜び。戸惑い。
そして。今すぐ駆け寄りたいのに、それが許されない苦しさ。
それはヴェゼル自身が、この四年間抱き続けてきた感情そのものだった。
アビーも足を止めていた。瞳が真っ直ぐにヴェゼルを見つめている。
四年という歳月が、一瞬で消えたような気がした。
言葉はない。距離も遠い。だが。それでも。
互いの想いだけは確かに伝わっていた。
アビーの唇が僅かに動く。何かを言おうとしたのだろう。
その瞬間だった。助祭の一人がさりげなく前へ出る。
まるで壁のように。視線を遮るように。護るように。そして警戒するように。
アトミカ教の高位聖職者たちはヴェゼルの存在を知っている。
かつて教皇の婚約者だった少年。今なおアビーの心を揺らしかねない存在。
彼らにとって歓迎すべき人物ではないのだろう。だが、オースターだけは違った。
彼はヴェゼルを見つけると、どこか困ったような苦笑を浮かべ、小さく会釈した。
敵意はない。警戒もない。
彼はアトミカ教に仕える者ではなく、アビー個人に仕える従者なのだから。
二人の事情も。二人が失った時間も。知っている。
だからこそ余計なことはしなかった。
一方でランツェは分かりやすかった。猫耳がぴんと立つ。
ぱっと顔が明るくなる。そして嬉しそうに小さく手を振った。
だが。「ランツェ」助祭の声が飛ぶ。猫耳がしゅんと垂れた。
それでも諦めきれないのか、ちらちらと何度もヴェゼルの方を見ている。
ヴェゼルは思わず笑った。
変わっていないな。そう思った。
そして。アビーもまた変わっていなかった。
教皇の法衣を纏っていても。周囲に大勢の聖職者を従えていても。
その瞳だけは、昔のままだった。
やがてアビーはゆっくりと前を向く。
教皇として。アトミカ教の頂点として。
背負うべきものを思い出したかのように。
ヴェゼルも静かに席へ腰を下ろした。
二人を隔てる距離は遠い。立場も違う。
周囲は二人を近付けまいとしている。まるで運命そのものが引き離そうとしているかのようだった。
それでも。四年ぶりに見たアビーは確かにそこにいた。
生きていた。笑っていた。
それだけで十分だった。
ヴェゼルは胸の奥に残り続けていた空白が、ほんの少しだけ埋まった気がした。




