第671話 意外な人の来訪02
ソファへ腰を下ろしたイグニスは、ゆっくりと背凭れへ身を預けた。
年齢を感じさせる皺は増えていたが、その眼差しの奥にある静かな知性は、四年前に図書館で出会った時と変わらない。
応接室へ運ばれてきた茶から細く湯気が立ち昇る中、老人はどこか感慨深げに呟いた。
「……もう、あれから四年か」
その声音には、時の流れを惜しむような響きがあった。
ヴェゼルも自然と当時を思い出していた。皇帝との謁見で帝都へ来た時の広大な図書館。
積み上げられたさまざまな文献。そして、静かな書架の奥で出会った、一人の穏やかな老人。
あの時は、まさか再びこのような形で顔を合わせるとは思ってもいなかった。だが、イグニスはそこでふっと表情を切り替えた。
柔らかかった空気が、わずかに引き締まる。老人は静かに姿勢を正し、ヴェゼルたちへ向き直った。
「まず、今の私の立場を話しておかねばなるまい」
その一言に、部屋の空気が少し変わる。
「私は現在――ヴァルカン帝国国立学院の学長を務めておる」
ヴェゼルが思わず目を見開いた。プロフィアも小さく息を呑む。ベンティガですら、わずかに眉を上げていた。
イグニスはそんな反応を見ながら、静かに続ける。
「こたびの件……副学長、そして学院試験へ軍部が介在した件については、私の監督不足でもある。まずは謝罪しよう」
そう言って、老人は深々と頭を下げた。
学長という立場の人間が、年若いヴェゼルたちへ頭を下げる。その光景に、部屋が静まり返った。
「本来、学院とは公平中立でなければならん。身分も、国家も、思想も超え、学問を修める場であるべきなのだ」
静かな声だった。だが、その言葉には、長年学問と向き合ってきた者だからこその信念が滲んでいる。
「私は今年から学長へ就任したばかりでな。入試関連については、例年通り副学長へ一任しておった。……だが、流石に今回は私の耳にも届いた」
そこでイグニスは、一度目を伏せた。
「正直に言えば、耳を疑ったよ。学院で、しかも試験で、このような真似が行われるとは思いたくなかった」
暖炉が、ぱちり、と小さく鳴る。
「ゆえに、学長権限と、一部教員たちの支持のもと、正式に決定した」
老人は真っ直ぐヴェゼルを見る。
「ヴェゼル殿。そしてプロフィア殿。両名の入学を認めたいと思っておる」
応接室が静まり返った。だが、その言葉を聞いても、ヴェゼルはすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落とし、それから静かに口を開く。
「……実は、今日ちょうど話していたんです」
「ほう?」
「別にもう、あの学院へ未練はないなって」
イグニスの眉がわずかに動いた。
ヴェゼルは苦笑気味に続ける。
「今回の件で、正直かなり冷めました。だから、もう学院へ入る必要もないかなって、プロフィアさんとも話していたところです」
その言葉に、イグニスは露骨に残念そうな顔をした。
「……それは、学院側としては非常に痛いな」
ぽつりと零してから、老人は何かを考えるように顎へ手を当てた。
そして、不意に言う。
「ちなみに今年は、各国からかなりの人数が入学予定でな」
ヴェゼルが顔を上げる。
「ビート・ドワーフ王国、キャノピー王国、アクティバ王国、グロム獣王国、ベルザ公国、フォルツァ商業連合国……加えて、アトゥミカ市国からも留学生が来る」
そこでイグニスは、少し意味深に笑った。
「どうやら、その中にはヴェゼル殿へ興味を持っておる者も、かなり多いようでな」
空気が止まる。
「……は?」
思わずヴェゼルの口から間抜けな声が漏れた。
イグニスは平然と続ける。
「もはや君の名は、帝国の外でも広く知られておるようだ。特に最近は、あの武勇伝、ここにいる妖精や精霊、君の収納魔法、魔法理論、ガラスに鏡……様々な話が各国へ流れておる。この数年でまた新たな魔法具などがビック領から発表されたとも聞く。その結果、君の名もまた各国へ広まっていったのだろうな」
そして。
「それに、今回ヴェゼル殿の入学もそうなのだが、最も大きいのは、アトゥミカ市国の教皇猊下の入学だな」
その瞬間、ヴェゼルの表情が固まった。
「……アトゥミカ市国が?」
「うむ」
「名前は……まさか、アビー……アヴェニス・ヴェクスターですか?」
今度はイグニスが意外そうな顔をした。
「おや、知り合いだったか。確かに、その名だったな」
次の瞬間。ヴェゼルは勢いよく立ち上がりかけた。ソファが軋む。だが、途中でなんとか踏み止まる。
その様子を見て、プロフィアが目を丸くした。
「……確か、その方はビック領の隣、ヴェクスター家の……今は伯爵家でしたでしょうか?」
「ああ」
ヴェゼルは真顔で頷く。
「俺の婚約者だよ」
「元、ではなく?」
「破棄した覚えはないから、俺としては今も婚約者のつもりだ」
あまりにも自然に言い切るものだから、プロフィアが少し慌てた。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、別に気にしないよ。そこはあまり家族も触れようとしなかったしね」
だがヴェゼルはそこで腕を組み、真剣な顔で考え始める。
アビーが来る。しかも、教皇として。数年ぶりの再会になる。
色々と言いたいことはある。いや、むしろ聞きたいことの方が山ほどあった。
やがてヴェゼルは、ふっとプロフィアを見る。
「……プロフィアさん」
「はい?」
「やっぱり、入学しても良いかな?」
すると、プロフィアは少しだけ笑った。
「そうですねぇ。今更、“落ちたので帰ってきました”と領のみなさんへ説明するのも、少々気まずいですしね」
ヴェゼルも思わず苦笑する。
ホーネット村を出る時の、あの盛大な見送りを思い出したのだろう。
ヴェゼルは少し考え込んでから、改めてイグニスへ向き直った。そして静かに言う。
「……分かりました。入学を許可していただけるなら、俺は入学したいと思います」
イグニスの顔に安堵が浮かぶ。だが、ヴェゼルはそこで続けた。空気が少しだけ強張った。
「ただし、今後また理不尽なことがあった場合、俺は相手へ相応の対処を今後もするつもりです。それでも良ければ入学します。相手が礼を尽くす限り、俺も礼を尽くします。ですが、害意を向けられるなら、話は別です」
穏やかな声音だった。だが、その場の誰もが理解している。
“相応の対処”で済まない可能性があることを。
その場の誰もが理解していた。ヴェゼルは、脅しで口にしているわけではない。
イグニスはしばらく黙っていた。やがて、静かに頷く。
「……法に則り、それが正当なものであるならば、その軽重によっては、学院としても認めよう」
老人の声音は穏やかだった。だがその実、これは極めて異例の返答だった。
つまりイグニスは、“理不尽に対する反撃”そのものを否定しなかったのである。
暖炉の火が、静かに揺れる。
その赤い光の中で、ヴェゼルはようやく小さく息を吐いた。
どうやら――まだ少しだけ、この帝国に留まる理由は残っているらしかった。




