第670話 意外な人の来訪01
ヴェゼルたちはベントレー公爵から夕食へ誘われた。だが、流石に今日はその場へ残る気力がなかった。
ヴェゼルとプロフィアが丁重に辞退すると、公爵は無理には引き留めず、「ならばせめて馬車を使いなさい」とだけ告げ、屋敷の紋章入りの馬車を用意させた。
帰路の馬車内は、驚くほど静かだった。
車輪が石畳を叩く音だけが、一定のリズムを刻んでいる。窓の外では帝都の街灯が流れていくが、その灯りすらどこか遠く感じられた。
誰も口を開かない。今回、公爵邸で聞かされた話は、あまりにも重かったのである。
だが同時に、ヴェゼルには否定しきれないものもあった。
今日の試験。あれは、どう考えても異常だった。
試験官による露骨な誘導。第三騎士団による威圧。そして、プロフィアへ向けられた明確な害意。
さらに、自分の剣技試験。本来なら学院教官が担当するはずの場へ、わざわざ騎士団長が出てきた。しかも、試験であるにも関わらず、家族を侮辱し、本気で殺しに来ていたのである。
普通なら、あり得ない。学院試験という建前すら投げ捨てていた。
あれが個人の暴走だけで済むのかと言われれば、ヴェゼルにはどうしてもそう思えなかった。
帝国そのものが、既にどこか歪み始めている。そう考えると、公爵や皇妃の言葉が妙に現実味を帯びて思い返されるのだ。
ヴェゼルは膝の上で手を組み、ぼんやりと揺れる馬車の床を見つめた。
――このまま帝都へ残る意味はあるのだろうか。
自分一人ならまだ良い。だが、プロフィアがいる。トレノもいる。妖精たちもいる。
そして、バネット商会の祖父や従業員たちまで巻き込まれる可能性を考えれば、軽率な判断はできなかった。
何が正解なのか。それが、分からなかったのである。
やがて馬車はバネット商会へ到着した。
夜の冷えた空気が流れ込み、御者が静かに扉を開ける。ヴェゼルたちは礼を述べて馬車を降り、そのまま商会の奥にある応接室へ向かった。
室内では、ベンティガが暖炉の前で待っていた。
老商人はヴェゼルたちの顔を見るなり、何かを察したように目を細める。
「……さて、どうなりましたかな」
落ち着いた声だった。ヴェゼルは椅子へ腰掛けると、今日起きた試験の顛末を順を追って説明した。
話を聞き終えたベンティガは、しばらく黙っていたが、やがて大きく息を吐く。
「……これはまた、随分と面倒なことになりましたなぁ」
額を軽く押さえ、それからわざとらしく肩を竦めた。
「ですが、とりあえずは腹を膨らませましょう。ここで暗い顔ばかりしていても仕方ありません」
その言葉に、真っ先に反応したのは妖精たちだった。
サクラがぱっと飛び上がり、タンクが「飯!」と嬉しそうに叫ぶ。ジャスティとルーミーも空中を飛び回り始め、重かった空気が少しだけ緩む。
ヴェゼルも、小さく息を吐いた。
「……そうですね」
気持ちを切り替えるように立ち上がる。
その日の夕食は、妖精たちが気を利かせたのか、いつも以上に賑やかだった。
サクラは途中から人の大きさへ変化し、ヴェゼルの隣に早くも座り料理を待ち構えている。
ジャスティは小さいのにも拘らずに、侍女たちと一緒になって料理を運び始めようとする。タンクは肉へ一直線で、ルーミーに頭を叩かれていた。
プロフィアも途中から笑っていた。笑わなければ、押し潰されそうだったのかもしれない。
そうして騒がしく食卓を囲んでいる間だけは、帝都の重苦しさを忘れられたのである。
翌日。
ヴェゼルたちは結局、試験結果がどう処理されたのか知らされていなかった。だが、今更という気持ちも強かった。
朝の応接室には、旅支度へ向けた荷物が少しずつ運び込まれている。
帝都は、残念だが潮時かもしれない。そんな空気が自然と漂っていた。
ヴェゼルとプロフィアは顔を見合わせ、苦笑する。
「……ホーネット村を出る時、あれだけ盛大に見送られたのにね」
「『入学できませんでしたので帰ってきました』は、ちょっと言いづらいですね……」
二人とも思わず笑ってしまう。
ヴェゼルの隣では、アプローズが当然のようにぴたりと寄り添って座っていた。そのさらに横では、ルドルフが完全にヴェゼルへ体重を預けている。
サクラはヴェゼルの頭の上。ジャスティは肩。ルーミーは胸ポケット。
わちゃわちゃと小競り合いまで始めていた。対照的に、タンクとトールはプロフィアの肩で妙に大人しくしている。
その光景は、帝都の陰鬱さとは無縁の、穏やかな日常そのものだった。
その時だった。
こんこん、と扉が叩かれる。
応接室へ入ってきたのは、護衛兼執事兼使用人頭のトラビックだった。
「ヴェゼル様、プロフィアさん。お客様がお見えですよ」
「お客様?」
ヴェゼルが首を傾げる。この二人に客とは誰なのだろうかと考える。
トラビックは一礼した。
「はい。お名前は、イグニス・エスクード子爵閣下と」
その瞬間、ヴェゼルが目を見開く。
「……イグニスさん?」
思わず立ち上がる。
四年前。帝都の大図書館で出会った、あの図書館長の名だった。
ベンティガも僅かに驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「お通しししてください」
「かしこまりました」
トラビックは再び一礼すると、一度退室する。少しして、廊下側の扉が静かに開かれた。
先にトラビックが入り、「イグニス・エスクード子爵閣下です」と丁寧に告げる。
その後ろから、ゆっくりと老人が姿を現した。
灰色混じりの髪を後ろへ流し、落ち着いた濃紺の外套を羽織っている。年齢はかなり重ねているはずだが、背筋は真っ直ぐだった。
学者らしい細身の体躯。だが、その眼差しだけは妙に鋭い。
長年、本と知識の海へ潜り続けてきた者特有の光が宿っていた。老人は室内を見渡し、ヴェゼルへ視線を止める。
その瞬間、穏やかに目を細めた。
ヴェゼルは思わず声を上げる。
「イグニスさん!」
老人はゆっくり頷いた。
「ご無沙汰しておりましたな、ヴェゼル殿」
どこか懐かしさを感じさせる、落ち着いた声だった。
ベンティガが立ち上がり、ソファへ手を向ける。
「これはこれは、エスクード子爵閣下。どうぞお掛けください」
「突然の訪問、失礼します」
イグニスは礼儀正しく一礼してから腰を下ろす。
そして、ふと周囲を飛び回る妖精たちへ目を向けた。サクラたちも興味津々で老人を見ている。
イグニスは僅かに目を見開いた。
「……ほう」
感心したように呟く。
「妖精が、これほどおるんですな」
その声音には、警戒ではなく、純粋な知的好奇心が滲んでいた。




