第669話 帝国の黄昏
日が徐々に傾き、ヴェゼルは皇妃に求められるまま、学院で起きた試験の詳細を、プロフィアと共に順を追って説明していった。
魔法試験への不自然な介入。第三騎士団による威圧。そして、実戦同然となった剣技試験。
語るほどに、部屋の空気は重く沈んでいく。
話を聞き終えたエプシロン皇妃は、深く目を閉じ、改めて大きく息を吐いた。その横顔には、怒りよりも、むしろ疲弊に近い色が滲んでいる。
ヴェゼルは僅かに間を置いてから、静かに言った。
「……だから俺たちは、もしかしたら学院へ入学できないかもしれません」
その言葉に、真っ先に反応したのはエストレヤだった。
「えぇ……せっかく同級生になれると思ったのに……」露骨に肩を落とす。
カジャールも残念そうに眉を下げた。「僕も楽しみにしていたのだがな……」
すると、少し離れて聞いていたシェルパまで苦笑交じりに言う。「ゼルが後輩になってくれたら、学院生活も面白かっただろうになぁ」
その言葉に、部屋の空気がほんの僅かだけ和らぐ。だが、ベントレー公爵は静かに首を横へ振った。
「……この場では、取り繕うのはよそう」低く、重い声だった。
そして、そのまま孫たちへ視線を向ける。
「お前たちも聞いておくが良い。これは、今後のお前たち自身の人生にも関わる話なのだ」
部屋が静まり返る。ベントレー公爵は苦々しげに続けた。
「このままでは、帝国は他国からも見放されるやもしれん」
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
「あの学院だけは、何があっても長年に渡って中立を貫いてきた。たとえ戦争中の敵国であろうと、才能ある者なら公平に受け入れてきたのだ」
その声には、長い年月を誇ってきた帝国への自負と、それが崩れ始めていることへの痛みが滲んでいた。
「だからこそ各国は、帝国学院を特別視しておった。あれは単なる学校ではない。各国中枢へ繋がる“場”だったのだ」
すると、隣でアトラージュ夫人も静かに言葉を継ぐ。
「昔は、他国の王族ですら学院へ子を送りたがったものです。帝国学院へ入ること自体が、半ば“箔”でしたからね。……ですが今は、その名声すら揺らいでおります」
穏やかな声音だったが、その表情は沈んでいた。
「学院は学術、魔法研究、軍学、その全てで他国を先んじていました。各国の貴族や王族がここへ留学し、人脈を作り、そのまま帝国への影響力へ繋がっていったのです」
そして、小さく目を伏せる。
「最近は、他国の新式魔導の話も耳に入ります。以前なら帝国が先んじていた分野ですのに……」
誰も言葉を挟めなかった。かつて世界の中心だった帝国が、少しずつ崩れ始めている。その事実が、あまりにも重かったからだ。
やがて、おずおずとアプローズが口を開く。
「ですが……陛下は、以前お会いした時は英明な御方だったと記憶しておりますが」
全員の視線が向く。アプローズは少し緊張しながら続けた。
「私は以前、何度か陛下の護衛任務へ就いたことがあります。その際は、部下の進言にも耳を傾け、民への気配りも忘れぬお方でした」
その言葉に、エプシロン皇妃が苦い顔をした。しばらく沈黙したあと、ゆっくりと口を開く。声には、深い疲労が滲んでいた。
「……そうですね。数年前までは、確かにそのようなお方でした。ですが今は……」
そこで言葉が止まる。皇妃は僅かに俯いた。
「酒量が増え、政務にも顔を出されぬ日が増えました。私の声すら、以前ほど届かなくなっております」
それ以上は続かなかった。
沈黙を引き取るように、ベントレー公爵が低く言う。
「今、実質的に国を動かしておるのは、先ほども言ったかもしれぬが、エクストラ宰相とヘラルド侯爵だ」
その声音には、隠しようのない苦渋があった。
「わしの意見など、もはやほとんど通らぬ」
そして、公爵は一度周囲へ視線を巡らせると、声を潜めた。
「……なぜ、エプシロンと孫たちをこの屋敷へ引き取ったのか。本来なら、外へ漏らす話ではないのだが…」
その瞬間、部屋の空気がさらに冷える。
「正妃と、その子供たちであるにも関わらず――後宮で、何度も命を狙われたのだ」
プロフィアが小さく息を呑む。アプローズの表情も強張った。ヴェゼルも、流石に言葉を失っていた。
宮廷内の権力争いが激化しているとは思っていた。だが、正妃と皇子皇女が命を狙われ、皇宮を追われるほどとは、想像していなかったのである。
その時だった。エプシロン皇妃が、ぽつりと呟くように言った。
「……きっかけを作ったのは、私なのです」
全員の視線が集まる。皇妃は悲しげに微笑んだ。
「以前、フリード殿とヴェゼル殿が陛下へ謁見された後……私は陛下へ、少々厳しい言葉を申し上げたことがありました」
その時の記憶を辿るように、目を細める。
「あれ以来、陛下は少しずつ変わられてしまいました。……私には、そう思えてならないのです」
誰も口を開かなかった。それが本当に原因なのかは分からない。
だが、少なくともエプシロン自身は、そう思い続けているのだろう。だからこそ、その表情には消えぬ自責が張り付いていた。
重苦しい沈黙の中、最後にベントレー公爵が静かに言った。
「……これから先の時代がどうなるのか。正直、わしにももう分からぬ」
公爵の声音には、長く国を支えてきた者だからこその疲労が滲んでいた。
「だからこそ、お前たちは――自分たちの命を最優先に考えて動きなさい」
「そして願わくば、ここにいる孫たちと、ヴェゼル殿、そしてフリード殿には……対立ではなく、共に歩む道を選んでほしいのだ」
それは、公爵としての命令ではなかった。一人の祖父として。そして、この国の行く末を案じる者としての、切実な願いだった。
「もう、この流れは止められぬ。もはや、一人の正論で国が立ち直る段階ではないのだよ。これからは、自らの身をどう処していくか……それぞれの才覚と覚悟が問われる時代になる」
そこでベントレー公爵は、ゆっくりとヴェゼルへ視線を向けた。
老いたはずの瞳には、なお鋭い光が残っている。
「そして――はっきり言おう。これから先、帝国の渦へ最も深く関わることになるのは……おそらくビック家だ」
静かな断言だった。だが、それは予言ではない。長年、帝国の中枢を見続けてきた公爵だからこそ辿り着いた、一つの現実だった。
「そして……その中心にいるのは、ヴェゼル殿。君だろう」
真正面から告げられたその言葉に、ヴェゼルは一瞬だけ目を細める。だが、返す言葉は出なかった。
その中で、エプシロン皇妃が静かに目を伏せた。
「……本来なら」小さな声だった。
「子供たちには、もっと穏やかな時代を生きてほしかったのです」
皇妃は、シェルパ、エストレヤ、カジャールへ順に視線を向け、最後にヴェゼルを見る。
「争いも、政争も、命の駆け引きも知らず……学院で友を作り、学び、笑って過ごせる。そんな当たり前を、私は守りたかった」
その声音には、皇妃ではなく、一人の母としての願いが滲んでいた。
「ですが……どうやら時代は、それを許してはくれないようですね」
自嘲気味に微笑む。
「ヴェゼル殿。あなたは恐らく、ご自身が思っている以上に、多くの者を動かしてしまうお方です」
ヴェゼルは答えられなかった。
皇妃は静かに続ける。
「……国も、人も、時代そのものも、少しずつ歪み始めているのでしょう」
そして、ゆっくりとヴェゼルを見た。
「だからこそ――あなたのようなお方が、時代に求められてしまうのかもしれません」
部屋が静まり返る。やがて皇妃は、今度は自らの子供たちへ視線を向けた。
「……あなたたちも、覚えておきなさい」
穏やかな声だった。
「これから先、お前たちは、もう“守られるだけの子供”ではいられなくなります」
シェルパたちが、静かに母を見る。
「ならばせめて――何を守り、誰を信じ、どう生きるのか。それだけは、自分で選びなさい」
誰も答えなかった。
ただ、揺れる火の音だけが、静かに部屋へ響いていた。




