第668話 ベントレー公爵邸
日が徐々に傾き始める頃、帝都を走っていた馬車は、ほどなくしてベントレー公爵邸へ到着した。
帝都の中心部、その中でも限られた上級貴族のみが屋敷を構える区画に建てられた公爵邸は、威容を放っている。
高い鉄柵。重厚な正門。敷地内へ続く石畳の道の両脇には魔導灯が並び、淡い橙色の光が庭園を静かに照らしていた。
噴水の水音すらどこか静かで、先ほどまでいた学院の騒乱が嘘のようだった。
馬車が玄関前へ滑り込むと、既に使用人たちが整列して待機していた。
御者が手綱を引き、馬が低く鼻を鳴らす。直後、従者が素早く馬車の扉を開いた。まず最初に降りたのは、当然ながら屋敷の主であるベントレー公爵だった。
外套を翻しながら石畳へ降り立つと、そのまま軽く周囲へ視線を巡らせる。
その後ろで、護衛が一歩下がる。続いて、公爵家へ招かれた客人側が降りる番だった。
本来なら身分順や家格に応じた細かな降車順まで存在する。だが、急な来訪であっても礼式だけは崩さない辺りが、帝国上流貴族らしかった。
ヴェゼルが先に馬車を降りる。
石畳へ足をつけたあと、自然な動作で振り返り、まずプロフィアへ手を差し出した。
プロフィアは軽く礼を返し、その手を取って静かに馬車から降りる。
続いてアプローズ。こちらは慣れていないのか、少し緊張した顔だったが、ヴェゼルが支えるように手を添えると、ほっとしたように表情を緩めた。
最後にトレノだけは従者兼護衛の立場であるため、主人たちより半歩後ろへ下がり、そのまま自然にヴェゼルの背後へついた。
意外にも、その一連の動きだけでも、普段から礼式を叩き込まれているのが分かる。
そして一行が玄関ホールへ入ると、そこには既に数人の人物が待っていた。
最初に目へ入るのは、一人の女性。年齢を感じさせぬほど整った美貌。柔らかな金髪。気品ある薄紫のドレス。
ただ立っているだけで空気が張り詰める。バルカン帝国皇妃――エプシロンだった。
その隣には、落ち着いた雰囲気を纏う女性がいる。ベントレー公爵夫人、アトラージュ。そして、その後ろには三人の子供たち。
皇子シェルパ。皇女エストレヤ。さらに、ベントレー公爵の孫であるカジャール。
その姿を見た瞬間、ヴェゼルは僅かに違和感を覚えた。
――妙に、馴染みすぎている。遊びに来ている皇族の空気ではない。
シェルパもエストレヤも、この館の使用人たちに対する距離感が自然すぎた。
侍女たちの動きにも、皇族へ仕える時特有の張り詰めた硬さがない。
それに。ヴェゼルは玄関周囲へ視線を巡らせる。
本来なら、近衛騎士や皇宮側の護衛、専属侍女たちでもっと厳重になっていておかしくない。
だが、どこか違う。皇族が滞在している屋敷特有の、張り詰めた空気が薄かった。
三人ともヴェゼルの姿を見つけた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
ヴェゼルが正式な挨拶をしようと一歩進みかけた、その時だった。
「ゼル!!」「ゼル、ひさしぶり!!」「来たのか!」
シェルパ、エストレヤ、カジャールが揃って駆け寄ってくる。
年相応の無邪気さだった。三人とも満面の笑みで、完全に友人へ会う反応である。
だが次の瞬間。
「あなたたち」静かな声が飛ぶ。
しかし、それだけで三人の動きがぴたりと止まった。
エプシロン皇妃だった。
「そろそろ正式な挨拶を身体へ覚えさせなさい。礼式は知識ではなく習慣ですわよ」
声音は柔らかい。だが、有無を言わせぬ厳しさがあった。
「いつまでも“ゼル”では駄目です」
「う……」「は、はい……」三人が揃ってしゅんとする。
その様子を見たアプローズが、隣で感心したように呟いた。
「皇子様たちに愛称で呼ばれる関係なのですね……さすが私のヴェゼル様です!」
相変わらずアプローズの中で『さすゼル』評価が高い。もはや何を見ても感動する確変に入っていた。
ヴェゼルは苦笑する。
「いや、昔ちょっと遊んでただけだから……」
そして改めて姿勢を正し、エプシロン皇妃とアトラージュ夫人へ正式な貴族式礼を取った。
無駄のない動き。深すぎず浅すぎず、完璧な角度。そのまま流れるように名乗りまで繋げる。
アプローズやプロフィアも続こうとしたが、その前にベントレー公爵が軽く手を上げた。
「ここで立ち話もなんだ。先に応接間へ移ろう」
その一言で、一同は屋敷奥へ進み始める。
公爵邸の廊下は静かだった。厚い絨毯が足音を吸い込み、壁には古い肖像画や魔導照明が並んでいる。
やがて案内された応接間は、皇族が来訪していることもあってか、普段以上に格式ある空気が漂っていた。
重厚なソファ。磨き上げられた黒木の机。暖炉には火が入り、室内を柔らかく暖めている。
そこで席へ着く前だった。アトラージュ夫人が微笑みながら言う。
「ちょうど良い機会ですもの。あなたたち、ここで正式な挨拶の練習をなさいな」
「えぇ……」エストレヤが露骨に嫌そうな顔をした。
だがエプシロンの視線が向いた瞬間、即座に姿勢を正す。どうやら逆らえないらしい。
まずヴェゼルが見本として正式な礼を行う。続いて、シェルパ、エストレヤ、カジャール。
まだ幼さは残るが、皇族教育を受けているだけあり、動き自体はかなり洗練されていた。
そのあと、プロフィアも前へ出る。
静かに裾を摘み、流れるように礼を取る。余計な力みがない。呼吸まで整っているような、美しい所作だった。
それを見たエプシロンが、ふっと微笑む。
「まぁ……とても綺麗な挨拶ですこと」
そのまま視線を横へ向ける。
「エストレヤ、あなたも見習いなさい」
「う……」エストレヤが少し膨れる。
そして、そのままプロフィアを見ながら首を傾げた。
「ゼルの婚約者なの?」
その言葉に、プロフィアは少し驚いた顔をしたあと、柔らかく微笑む。
「いえ。父がフリード様の部下なのです。私はヴェゼルさんとは学友ですわ」
「そうなの?」エストレヤは少しだけ残念そうだった。
その空気を見ながら、ベントレー公爵は一瞬だけ考え込むように沈黙した。
そして、やがて静かに口を開く。
「……お前たちも聞いておきなさい」
その声音に、部屋の空気が変わった。先ほどまでの和やかさが薄れ、重苦しい静けさが落ちる。
ベントレー公爵は、既に馬車の中で学院の件をヴェゼルから聞いていた。
だからこそ、孫たち皇子皇女にも隠さなかったのだろう。
「お前たちは明日、筆記、魔法、剣、槍の試験を受ける予定だったな。だが、延期になるやもしれん」
三人が揃って目を丸くする。
「なぜですか?」
ベントレー公爵は苦々しく答えた。
「……ここまで愚かとは思わなんだが、今回の試験には帝国軍部の介入があったようだ」
そして静かに説明を始める。
「魔法試験では、あのベラーノ・ヘラルド副学長が強引に試験官へ割り込んだそうだ。さらに剣と槍の試験では、第三騎士団が介入したらしい」
シェルパたちの顔色が変わる。
ベントレーは続けた。
「プロフィア殿には、試験中に殺意を伴って槍が向けられたそうだ。故に危険を察知し、棄権」
プロフィアが静かに視線を伏せる。
「そしてヴェゼル殿には、第三騎士団長が本気の剣を向け、挑発した」
そこで、少し間を置いた。
「……その場で殺された」
空気が凍る。エストレヤが息を呑み、カジャールも硬直する。
ベントレーはさらに続ける。
「その後、周囲を包囲していた第三騎士団の騎士たち数十がヴェゼル殿へ襲いかかろうとし、その場で全員戦闘不能となったそうだ」
その報告を聞いた瞬間だった。エプシロン皇妃が、深く目を閉じる。
片手で額を押さえ、小さく息を吐いた。苦悩の滲む顔だった。
そして次の瞬間。
エプシロンは立ち上がり、ヴェゼルとプロフィアへ向かって深々と頭を下げた。
「……このバルカン帝国の皇妃として、ビック家のお二人へ謝罪いたします」
静かな声だった。だが、その場にいる誰より重い言葉だった。
「我が国の者が、理不尽を働きました」
ヴェゼルが慌てて口を開く。
「こ、皇妃様のせいではありません」
だが、エプシロンは首を横へ振った。
「いいえ。この国の国母である以上、無関係では済みません」
そこにいたのは、権威で押し通す皇妃ではなかった。国の責を背負う者として、頭を下げる一人の女性だった。
そこでベントレー公爵が静かに口を開いた。
「……どうやら、ヴェゼル殿は既に察しておるようだがな」
ヴェゼルが視線を向ける。
ベントレー公爵は、苦く笑った。
「皇妃様と皇子皇女が、この屋敷にいることへ違和感を覚えておったのだろう?」
図星だった。ヴェゼルは静かに頷く。
「……はい。皇族の滞在にしては、館の空気が自然すぎます」
ベントレー公爵は小さく息を吐いた。
「警備も侍女も、“客人扱い”ではなかったはずだ」
「……はい」
「あれはもう、“客人”ではないからだ」
そして。ベントレー公爵は重い声で告げる。
「皇妃様、皇子、皇女の三人は……かれこれ一年、この屋敷で生活しておられる」
その言葉で、ようやく腑に落ちた。だから、あの空気だったのか。
シェルパとエストレヤが俯いた。エプシロンは静かに続ける。
「現在、表向きの皇妃は私です。ですが、実質的に皇室を動かしているのは、ムルティプラ側妃と、その長男メガーヌ皇子です」
空気が重くなる。ベントレー公爵が苦渋に満ちた顔で言葉を継いだ。
「今は、マウンテニア・フォン・ヘラルド侯爵が権勢を振るっておる。側妃派が宮廷を掌握し、皇妃様は実質的に皇宮から遠ざけられている」
そして低く言った。
「……近いうち、皇籍を離れることになるやもしれん」
部屋が静まり返る。暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
ベントレー公爵は、重く息を吐く。
「今の帝国は、もはや統制が取れておらぬのだ」
ヴェゼルは静かに考えていた。
バネット商会経由で、エプシロン皇妃が数年前、皇帝へ直言して不興を買ったらしいとは聞いていた。だが、ここまで悪化していたとは思っていなかった。
ビック家としては、帝国側が直接害を及ぼさぬ限り、積極的に関わるつもりはなかった。
だから帝国内部の権力闘争へも、深く踏み込まなかった。
だが――ここまで崩れていたのか。
ヴェゼルは、帝国が思っていた以上に崩壊に向かっていることを、ようやく実感していた。




