第663話 試験日04
「――次。四四四番。ヴェゼル・パロ・ビック」
その名が響いた瞬間だった。ざわついていた訓練場の空気が、すう、と静まっていく。
そこにいた受験生も、試験官も、周囲で補助をしていた学院職員たちまでもが、一斉にヴェゼルへ目を向けていた。
――ビック家。その名前は、今や帝都で知らぬ者の方が少ない。
サマーセットとの戦にはじまり、クルセイダーとの争乱、教国との戦。そしてヴァンガード辺境伯との諍い、さらには皇族との一件まで。
辺境の騎士爵家にしては、あまりにも噂が大きすぎた。だからこそ、その視線には好奇心、警戒、嫉妬、恐怖――様々な感情が混ざっている。
ヴェゼルは、その空気をゆっくり見回した。すると、その視線に合わせるように、周囲のざわめきが次第に消えていく。
小さく苦笑した。まるで、腫れ物でも見るような空気だ。
その時だった。試験官スピリアが、じろりとヴェゼルを見る。そして頭を掻きながら、疲れ切った顔でぼやいた。
「……お手柔らかにな。もう的の替えがねぇんだよ」
低い声だった。その言葉に、周囲から小さな笑いが漏れる。
先ほどのプロフィアの一撃は、それほど衝撃的だったのだ。だが、その空気を切り裂くように、別方向から冷えた声が飛んできた。
「壊せるはずがなかろう」
訓練場の入口側。そこから、一人の男がゆっくり歩いてくる。
年齢は五十前後。細身。妙に高価そうな深紺のローブを纏い、胸元には過剰なほど勲章をぶら下げている。
歩き方には妙な尊大さがあり、鼻先だけで周囲を見下しているような男だった。
受験生たちがざわめく。
「あれ……副学長だ」「本当に来たのか……」
スピリアが露骨に眉を顰めた。
「……副学長」
その呼び方にも、微妙に棘が混ざっている。
副学長は、それに気づいてもいないのか、壊れた的を一瞥し、鼻で笑った。
「的が壊れたと聞いて来てみれば……なるほど」
その目が、プロフィアへ向く。
「ガヤルド殿の娘、だったか?」
スピリアが肩をすくめる。
「名字がモンデアリでしたからな。おそらくは」
「ふん」
副学長が口元を歪めた。
「鳶が鷹でも産んだのか。やつの血にしては、少しはやるようだな」
その言い方には、露骨な侮蔑が混ざっていた。
周囲の空気が、わずかに冷える。もっとも。この男は元々そういう人物だった。
帝都でも有名な、典型的な“権力だけの貴族”。伯爵家の三男。魔法の才は平凡。研究実績も大したことはない。
それでも家の力と派閥政治だけで魔法省へ入り込み、その後はアヴァンタイム派へ取り入って出世した男だった。
そして今は、学院副学長。半ば追い出されるような形の天下り先である。
現場の教師たちからは嫌われていた。だが本人は、それを理解していない。いや、理解する気すらない。
自分は選ばれた側だと、本気で思っている男だった。今回ここへ来たのも、アヴァンタイムからの指示だった。
――ビック家の小僧を見てこい。
そう言われていたのだ。
だが、副学長自身は最初から決めつけていた。辺境の騎士爵風情が。しかも子供が。
教国軍の精鋭クルセイダーを壊滅させただの、妖精や神獣を従えているだの――そんなもの、どうせ誇張だ。
あるいは、帝国貴族社会へ食い込むための虚飾。そう思っていた。だから今も、その目には最初から露骨な侮蔑が浮かんでいる。
「……ふん」
副学長はヴェゼルを頭から爪先まで舐めるように見たあと、鼻で笑った。
「なるほど。これが辺境で“英雄ごっこ”をしている子供か」
周囲が静まり返る。
スピリアが眉をひそめた。だが、副学長は止まらない。
「私はな、実際に戦場を見てきた人間だ。魔法省で本物を見てきた。だから分かる」
薄く笑いながら、見下すように続ける。
「子供一人がクルセイダー三百を殲滅した? 笑わせるな。そんなもの、酒場の吟遊詩人ですら、もう少し現実味のある嘘をつく」
周囲の受験生たちの顔が強張る。
ヴェゼルは黙ったままだった。
すると副学長は、さらに愉快そうに口角を歪めた。
「父親も父親だ。フリード・フォン・ビック……だったか? 武勲を盛り、皇族へ取り入り、辺境で英雄気取り。実に浅ましい成り上がりだ。脳筋の蛮族が、運良く教国の混乱へ乗じただけだろうに」
空気が、ぴり、と軋む。
それでも副学長は気づかない。いや、気づいていて愉しんでいた。
「母親も笑えるな。オデッセイ・ビックだったか? 魔法省から逃げ帰った女だろう。研究にもついて来られず、結局は辺境へ逃亡。敗北者としては実に見苦しい末路だ」
そこで、流石にスピリアが低く唸る。
「……副学長。その辺でやめとけ」
「何故だ? 事実を言っているだけであろう?」
副学長は肩をすくめた。そして。決定的な言葉を吐いた。
「妹の件もそうだな。たしか、見るも無惨な怪我を負ったのだったか? 可哀想にな。二度と人前へ出られぬほど顔を潰したと聞いたぞ。まったく、呪われた家系だ」
――その瞬間だった。
空気が、沈んだ。本当に。まるで訓練場全体が深海へ沈み込んだかのように、誰も声を出せない。
スピリアですら、ぞくりと背筋を震わせる。
ヴェゼルは怒鳴らなかった。叫びもしない。
ただ。静かに。あまりにも静かに。副学長を見た。その瞳から、感情だけが消えていた。
「……あの、そろそろ始めてもいいですか?」
穏やかな声だった。逆に、その声が恐ろしい。だが副学長は気づかない。あるいは、認められない。
「勝手にしろ」
苛立ったように吐き捨てる。
スピリアが慌てて声を張った。
「……では、始め!!」
だが、ヴェゼルは動かなかった。静かに訓練場を見回す。壁。柱。天井。結界柱。魔法陣。
それら全てを視界へ収めてから、ゆっくり口を開いた。
「あの。この訓練場全体、結界が張られてるんですよね?」
副学長が鼻で笑う。
「帝国最高峰の設備だ。貴様程度の魔法で傷一つ付かん」
ヴェゼルは確認するように続けた。
「つまり、壊しても問題ないんですね?」
「……は?」
「後から請求されたり、怒られたりしません?」
副学長の眉が吊り上がる。そして、嘲笑した。
「御託はいいかげんにしろ。できるものならやってみたまえ。父親に似て、口だけは達者らしいな」
そこで。ヴェゼルは小さく息を吐いた。
そしてスピリアを見る。
「ああ、そこの先生。今、副学長さん、確かに言いましたよね?」
スピリアは嫌そうに顔をしかめながらも答える。
「ああ……まぁ、聞いた」
「ありがとうございます」ヴェゼルはそう言って、静かに歩き出した。
訓練場中央。その中心部へ。そして、バッグから小さな収納箱を取り出す。
受験生たちは息を呑む。副学長だけが、まだ薄ら笑いを浮かべていた。
ヴェゼルが壁に視線を合わせた――次の瞬間。
「収納」
左端の壁が、消えた。ずるり、と。
世界そのものを切り抜いたように。防御結界ごと。分厚い石壁ごと。音もなく、収納箱へ吸い込まれていく。
「――なっ」
副学長の顔色が変わる。
スピリアが叫んだ。
「馬鹿な!? 壁が消えてる!?」
止まらない。左から右へ。縦一メートル幅ごとに、壁が連続して消滅していく。数秒。本当に、それだけだった。
そして。支えを失った天井が――。
――どどどどどどどどどどどッ!!!!!! 崩落した。轟音。粉塵。悲鳴。
石材が雨のように降り注ぎ、訓練場は一瞬で地獄絵図へ変わる。
受験生たちが逃げ惑う。教師たちが防御魔法を張る。結界柱が火花を散らして砕け飛ぶ。
その中心で。ヴェゼルだけが静かに立っていた。
そして、思い出したように呟く。
「あ、そうだ。的に当てないと」
そのまま、残っていたミスリル製の的を一瞥する。
「収納」
ぼごっ。全ての的の中心が、綺麗に消えた。だが、そんなものを見ている余裕のある者は、ほとんどいなかった。
副学長は尻餅をつき、顔面蒼白で震えていた。
「ひっ……」
腰が抜けている。先ほどまでの尊大さは、跡形もない。
ヴェゼルは、その横を何も言わず通り過ぎた。ただ一度だけ。冷え切った視線を落としただけだった。
その視線に、副学長は本気で怯えた。
そして。土煙の中を戻ってきたヴェゼルへ、プロフィアがじとりとした目を向ける。
「……ヴェゼルさん、やりすぎです」
「はい」
「いくら煽られたからって、訓練場を半壊……いえ、全壊させる人がいますか?」
ヴェゼルは視線を逸らした。
「だって、アクティのことまで……」
「それは私も怒っています」
ぴしゃり、と言う。
「でも、副学長、泡吹いて倒れてましたよ?」
「……はい」
「この事はしっかりと、オデッセイ様に報告しますからね」
「……はい」
結局。
ヴェゼルは、プロフィアにだけは逆らえないのだった。
ヴェゼルさん、やりすぎっすよ!




