第660話 試験日01
そして、今日は試験日だった。
朝の帝都はまだ少し冷える。
石畳には昨夜の雨の名残が薄く残り、朝靄の向こうを馬車や人々が絶え間なく行き交っていた。焼き立てのパンの匂いと、石炭を焚く煙の匂いが混ざり合い、帝都特有の朝の空気を作っている。
そんな中、ヴェゼルたちも帝都学院へ向かう準備を整えていた。
試験会場となる学院は、バネット商会から歩いて三十分もかからない距離にあるらしい。だが今日は、ベンティガがわざわざ馬車を出してくれている。
「試験日に疲れてどうする。こういう時くらい、爺を頼るのですぞ」
そう言って笑うベンティガは、朝から妙に機嫌が良かった。
もっとも、学院の正門前まで乗り付けるわけではない。
今日は帝都中の貴族子弟が集まる日だ。門前は各家の紋章入り馬車で大混雑するらしく、少し手前で降りる予定になっていた。
なお――今日は流石に妖精たちは留守番である。特にジャスティは最後まで未練たらしかった。
「本当に駄目ですか……?」「学院、見てみたいです……」
朝から何度も訴えていたが、試験会場へ妖精五人を連れて行けば、確実に騒ぎになる。
流石に今回は諦めてもらった。
ルドルフも「ワフ……」と不満そうに鼻を鳴らしていたが、学院内には魔法具や結界もあるらしい。
影の中へ潜ったまま入れば、余計な問題になる可能性もある。結局、今日は商会で大人しく待機となった。
馬車の揺れの中、ヴェゼルは改めて今日の試験内容を思い返していた。
受験者数が多いため、試験自体は数日に分けて行われる。
午前は筆記試験。午後は魔法実技。さらに剣術、もしくは槍術の実技。
その総合成績によって、一組から五組まで振り分けられる。
一組が最上位。そこから順に、二組、三組、四組。
そして五組。
もっとも、五組だけはかなり特殊な扱いだった。一組から四組は各五十人ほどの完全少人数制。
対して五組だけは、一定の基準を超えていれば入学自体は許可され、毎年五百人近い学生が所属するらしい。
形式上は“クラス”と呼ばれている。だが、実態はかなり違う。
決まった教室も希薄で、横の繋がりも薄い。どちらかと言えば、大学に近い形式なのだという。
そのため帝都では半ば皮肉混じりに、
――名無し組。などと呼ばれているらしい。
逆に、一〜四組は完全な選抜階級だった。
特に一組。
そこを優秀な成績で卒業すれば、騎士団、魔法省、中央官庁、高位貴族家への推薦など、ほぼ将来が約束されるとも言われている。
もっとも、ヴェゼル自身、そこまで強い出世欲があるわけではない。
だが――。「学費免除はありがたいですよね」隣で、プロフィアが小声で言った。
今日は少し緊張しているらしい。膝の上で手を揃え、普段より大人しい。
「まぁ、それはそうだね」ヴェゼルも苦笑した。
上位クラスには学費免除制度が存在する。
もっとも、実際に利用する貴族は少ないらしい。見栄。体裁。あるいは、“貴族が金を気にするのはみっともない”という、よく分からない価値観。
そういうものがあるのだという。だが、ヴェゼルもプロフィアも、その辺りは割と現実的だった。
無駄な出費はない方が良い。
剣術と筆記については、それほど不安はない。問題は魔法実技だった。
ヴェゼルは窓の外へ視線を向け、小さく息を吐く。
――どこまでやるべきかな。以前のヴェゼルなら、間違いなく抑えていた。
目立たないように。警戒されないように。そう考えていたはずだ。
だが。
「ヴェゼルさん。もう、自重はしないって決めたんじゃないですか?」
そう言ったあと、プロフィアは少しだけ悪戯っぽく笑った。
「それに……ビック家の嫡男が侮られれば、当然、その周囲にいる私たちまで侮られるということです。どうか、その辺りはご理解くださいね?」
冗談めかした口調だった。
だが、ヴェゼルはすぐに、その言葉の意味を理解した。これまでは、自分がどう思われようと大して気にしていなかった。
侮られようが、警戒されようが、どうでもよかったのだ。だが今は違う。ビック家には家族がいる。領民がいる。守るべき土地がある。
ならば、自分たちの力を示し、“軽く扱ってはいけない相手だ”と周囲へ認識させておくこと自体が、余計な干渉や火種を遠ざけることにも繋がる。
ヴェゼルは小さく息を吐き、苦笑した。
「……本当に、よく見てるよね。プロフィアは」
そして――。ふっと、肩の力が抜けたように笑った。
今さら何を気にしているのだろう。帝都でビック家が起こした騒動は、もう十分広まっているはずだ。
それが悪名なのか。あるいは勇名なのか。正直、ヴェゼルにも分からない。だが、今さら普通の辺境貴族を演じたところで意味などないのだろう。
「ありがとう、プロフィア」
「はい」プロフィアも、少しだけ嬉しそうに笑った。
ヴェゼルは、こういう時いつも思う。プロフィアは本当に視野が広い。
決して前へ出過ぎない。だが、常に一歩引いた位置から周囲を見ている。
感情だけで動かず、冷静に状況を俯瞰し、その上で必要な言葉を自然に差し出してくれる。
ヴェゼルにとって、それは何度も助けられてきた部分だった。
つくづく――ガヤルドの娘とは思えない。もちろん、ガヤルド自身を”今は”嫌っているわけではない。
むしろ”今は”頼れる男だ。だが、あの一見シニカルを絵で描いたような父親から、どうしてこんな落ち着いた娘が育ったのかは未だによく分からない。
もっとも、その答えを考えるたび、ヴェゼルの脳裏には自然とフィエスタの顔が浮かぶ。
ガヤルドの妻であり、今では領政においても欠かせない存在。
柔らかく微笑みながら、実際には領内の金勘定も、人員整理も、商人との交渉も淡々とこなしていく女性だ。
最近では、ガヤルド本人ですら、
「うちの本体は妻だからな……」などと、半ば諦めた顔で言うようになっていた。
やがて馬車は学院近くへ到着した。そこから先は徒歩になる。
学院周辺は、すでに帝都中の貴族子弟で溢れ返っていた。石畳の街路には豪奢な馬車が何重にも並び、各家の紋章旗が春風にはためいている。
金縁で飾られた馬車。魔導灯付きの大型車両。騎士を従えた家もあれば、魔法使いらしき者を護衛に連れた一団もいた。
帝国中の名家が集まっている。それだけで、この学院が持つ格の高さが分かった。
「すごい人ですね……」プロフィアが小さく呟く。
普段は落ち着いている彼女も、さすがに周囲の空気に少し圧倒されているらしい。ヴェゼルも周囲を見回しながら歩く。高価な衣服。磨き上げられた装飾剣。貴族特有の空気。
四年前、帝都へ来た時とはまた違う感覚だった。今は、自分たちも間違いなく“見られる側”なのだ。
そのまま石畳の坂道を上がっていくと、やがて学院の巨大な正門が見え始めた。
白亜の外壁。巨大な鉄門。門の上には帝国紋章が掲げられ、その左右には鎧姿の騎士像まで立っている。
まるで城だった。すると、その時だった。
「あれ……?」
後ろから、どこか聞き覚えのある声が飛んでくる。
「ヴェゼルじゃないの?」
ヴェゼルが振り返る。そこに立っていたのは、懐かしい顔だった。
カスケーダ子爵家の娘――コーティナ。そして、アーバンクルーザー伯爵家次男――ラングラー。
「やっぱりヴェゼルだわ!」
真っ先に飛び込んできたのはコーティナだった。勢いそのままに抱きつかれ、ヴェゼルが少したたらを踏む。
「四年ぶりじゃない! もう、本当にびっくりしたわ!」
「コーティナさん、お久しぶりです」
「っていうか、なによその顔! 前より背も伸びてるのに、なんでさらに綺麗になってるのよ! 女の私より肌綺麗じゃない!」
コーティナはヴェゼルの顔をまじまじと見上げた。
「いや……」ヴェゼルは苦笑いするしかない。
すると、その横からラングラーが慌てて割って入った。
「お、おいコーティナ! いきなり抱きつくな!」
そこまで言ってから、改めてヴェゼルを見る。
そして。「…………」固まった。
視線が止まる。頬がほんのり赤い。
それを見逃すコーティナではない。
「あらあら?」にやり、と笑う。
「ラングラー、もしかしてヴェゼルみたいなのが好みなの?」
「なっ!? ち、違う! ヴェゼルは男だぞ!」ラングラーが露骨に動揺した。
「今どきそんなの関係ないわよ。愛があれば越えられる時代なんだから」
「お前は何を言ってるんだ!?」
完全に遊ばれている。
ヴェゼルは頭を抱えたくなった。
そして今度は、コーティナの視線がプロフィアへ向いた。じーっと見る。
「あら? ヴェゼル。また新しいフィアンセ?」
「違います」ヴェゼルが即答した。
だが、プロフィアは慌てない。静かに一歩前へ出て、綺麗に一礼する。
「ビック家に仕えております、プロフィア・モンデアリと申します。本日はよろしくお願いいたします」
その落ち着いた所作に、コーティナもラングラーも少し感心したような顔になる。
「カスケーダ子爵家のコーティナよ」
「アーバンクルーザー伯爵家のラングラーだ。よろしく」
自然と互いに挨拶を交わし、そのまま会話が続いていく。
「そういえばヴェゼル、お前も魔法実技受けるのか?」
ラングラーが尋ねた。
「うん。一応は」ヴェゼルが頷く。
すると、コーティナが楽しそうに笑う。
「みんなで同じ組になれるといいわね」
そんな話をしながら、一行は学院の門を潜った。
そして――。中へ入った瞬間。
誰もが一瞬、言葉を失った。
広い。とにかく広かった。
白亜の校舎群は何棟も連なり、高い尖塔が空へ突き抜けている。回廊は幾重にも伸び、中庭には巨大な噴水。
さらに奥には剣術訓練場らしき施設や、魔法演習場と思われる巨大な塔まで見えた。
そこかしこを、制服姿の上級生たちが歩いている。
まるでひとつの都市だった。帝国の威信。その全てを形にしたような光景である。
近隣諸国からも入学希望者が来る、という話も納得だった。
ヴェゼルは、静かにその景色を見上げる。
胸の奥が少しだけ高鳴っていた。
――できれば。
――一組に入りたい。
そんな期待が、自然と湧いていた。




