第659話 ただの散策
帝都へ到着してからの数日は、学院へ入る前の束の間の自由時間だった。
そのため今日は、ヴェゼル、プロフィア、アプローズ、そして護衛役のトレノという面子で、帝都の街を散策することになっていた。
春の帝都は人で溢れている。
石畳の大通りには馬車が絶え間なく行き交い、商人たちの呼び声が重なり合うように響いていた。
露店からは、肉を焼く香ばしい匂いや、焼き菓子の甘い香り、香辛料の刺激的な匂いまで漂ってくる。
地方では見かけない色鮮やかな衣装を纏った人々も多い。様々な階層の人間が混ざり合って歩く光景は、やはり帝都特有のものだった。
やがて一行は、それほど時間もかからず大広場へ辿り着く。
中央には巨大な噴水があった。白い石で造られた円形の噴水。
幾段にも分かれた水盤から透明な水が絶えず流れ落ち、陽光を受けた飛沫が宝石のように輝いている。
その周囲を囲むように、無数の屋台や露店が並んでいた。野菜。干し肉。香草。古着。工芸品。串肉。怪しい骨董品。
さらには、どこから持ってきたのか分からない魔物素材まで並んでいる。
どうやらここは、金さえ払えば誰でも出店できる広場らしい。
近郊の農民や旅商人まで集まるため、帝都でもかなり活気のある場所なのだと、プロフィアが教えてくれた。
「昔、お父様たちと来たことがあるんです」
そう言いながら、プロフィアが少し誇らしげに先導していく。
ヴェゼルの左胸ポケットからはサクラ。
右胸ポケットからはルーミーとジャスティ。ぴょこ、と顔だけ出して、きょろきょろと周囲を見回している。
しかもサクラは途中から顔すら出していない。その代わり、ポケットの中からずっと「しゃりしゃり」と音がしていた。
「……サクラ、またクッキー食べてるでしょ」
「んー?」返事が妙に曖昧だった。どうやら口いっぱいに詰め込んでいるらしい。
一方、プロフィアの肩掛けバッグからは、タンクとトールが顔を出している。
タンクは「すごぉ……」とぽやぽやした顔で景色を眺め、トールは興味津々であちこちへ視線を飛ばしていた。
当然、周囲の人々も気付く。
「あっ……妖精様……?」「おい、今ポケットから……」「本物か……?」
目敏い者たちが足を止め、驚いたように目を丸くする。もっともヴェゼルとしては、そこまで隠す気もなかった。
もちろん妖精たちには「目立ちすぎないように」とは言ってある。だが、今さら多少見られたところでどうということもない、という感覚もある。
それに――。妖精たちがあまりにも楽しそうなので、止める気にもなれなかった。
「ヴェゼルさん! あれ見てください!」
プロフィアが指差した先には、小さな雑貨屋があった。
装飾品。色鮮やかな布。小さな髪飾り。帝都らしい洒落た店である。
すると、ルーミーとジャスティの目が同時に輝いた。
「あれ可愛い!」「リボンです!」
二人は勢いよく飛び出しかけ、慌ててヴェゼルに捕まる。
「勝手に飛び回らないでね」
「「はーい……」」返事だけは素直だった。
結局、その店で二人は色違いでお揃いのリボンを買ってもらい、すっかり上機嫌になっていた。
ルーミーは赤髪へ結び、ジャスティも嬉しそうに何度も触っている。
「おそろいです!」
その横では、タンクが食べ歩きに完全敗北していた。串焼き。焼き菓子。果実水。揚げパン。タンクの目が欲しがるままに、トレノが買ってくれて食べ続けた結果、今では完全に満腹のようだ。
「……もうむりぃ……」
プロフィアのバッグの中でぐったりしていた。
「食べすぎですよ……」プロフィアが苦笑する。
トールだけは相変わらず元気だった。
今はプロフィアの肩へ乗り、忙しなく周囲を見回している。
「あっち面白そう!」「お、あれ何だ?」「なんか変な像ある!」
とにかく落ち着きがない。
そして――。アプローズは終始ヴェゼルへ、べったりだった。
自然に腕を組み。気付けば肩を寄せ。人混みでは当然のように手を握ってくる。
「ヴェゼルさん、あっち行きましょう!」やたら距離が近い。本人は完全にご満悦だった。
ヴェゼルも途中から抵抗を諦めている。
そんな風に広場を一通り見て回った後、一行は大通り沿いの喫茶店へ入ることにした。
木製の扉を開けると、店内には香ばしい茶葉の匂いと甘い焼き菓子の香りが広がっている。
落ち着いた雰囲気の店だった。
「個室は空いてますか?」
ヴェゼルが尋ねると、店員は少し驚いた顔をした後、「ちょうど一部屋空いております」と案内してくれた。
奥の小部屋へ入ると、ようやく妖精たちも一斉に寛ぎ始める。
一応、プロフィアが大きめのハンカチを敷くと、ルーミーとジャスティはその上へ。トールは椅子の背もたれへ飛び移り。タンクはプロフィアのバッグから這い出た瞬間、そのまま机へ突っ伏した。
「うごけなぁい……」「だから食べすぎなんですよ……」
人数分の紅茶。クッキー。それに厚く焼かれたホットケーキを注文する。
しばらくして店員が運んできた。焼きたての甘い香りが部屋へ広がる。
妖精たちの目が一斉に輝いた。
店員が退出したところで、ヴェゼルはふと足元へ視線を落とす。
「ルドルフ、出ておいで」
そう声をかけると、影がゆらりと揺れた。
次の瞬間。黒い影の中から、巨大な狼? 犬?――ルドルフが姿を現す。
「ワフ」当然のような顔で現れ、空いている場所へ座った。もう誰も驚かない。
「ルドルフも食べる?」
「ワフ」尻尾が少し揺れる。
そのまま皆で紅茶を飲み、クッキーを摘まみながら、取り留めのない話を続けていく。帝都の店。面白かった露店。変な像。
妖精たちも好き勝手に喋り続け、部屋の中は終始賑やかだった。
窓の外では、夕暮れへ向かう帝都の喧騒が続いている。だが、この小さな個室の中だけは、不思議と穏やかだった。
楽しいひと時だった。
もっとも――そんな賑やかな一行が、特に大きな揉め事もなく帝都を歩き回れているのは、間違いなくトレノの存在が大きかった。
少し後ろを歩く青年。それが今のトレノだった。
四年前、まだ少年らしさの残っていた頃とは、もはや別人である。背丈は大きく伸び、肩幅も広がった。
無駄のない筋肉が自然と服越しにも分かる。歩き方ひとつ取っても隙がない。視線は常に周囲へ向けられ、人の流れ、路地、屋根の上、馬車の動きまで無意識に確認している。
それは、日々を“安全な場所”で過ごしてきた者の目ではない。
そして、フリードやビック家兵士たちとの鍛錬。辺境で積み重ねてきた現実が、そのままトレノという青年の空気を作っていた。
腰に下げた剣も、もはや飾りではない。握れば斬る者の剣だった。
実際、帝都の雑踏の中でも、その雰囲気は明確に浮いている。最初こそ、人混みの中には、田舎貴族の子供連れと見て近寄ろうとする者もいた。
だが、少しでもトレノの視線を受けると、皆、何も言わずに離れていく。妖精に目をつけた者、ごろつき。客引き。胡散臭い商人。
そういった者ほど敏感だった。
「あれは駄目だ」と、本能で理解するのだろう。
実際、一度だけ、露店近くで強引に割り込もうとしてきた男がいたが、トレノが一歩前へ出ただけで、顔を青くして消えていった。
本人は特に何もしていない。ただ、立っていただけだ。
その様子を見ながら、アプローズが小さく笑う。
「トレノさん、完全に護衛の顔になりましたねぇ」
「まぁな」短く返す声も、以前よりずっと低くなっている。
もっとも、その直後。
「トレノーさん! これ食べますかー!?」
串焼きを両手に持ったルーミーが元気よく飛んできた。
「……飛びながら食べるなよ」
「えへへー!」
結局、トレノは苦笑しながら串を受け取る。
そんなやり取りを見ながら、ヴェゼルは少しだけ肩の力を抜いた。
帝都は相変わらず油断できない場所だ。
人も多い。視線も多い。何を考えているのか分からない高貴な雰囲気の者もいる。
だが――。少なくとも今は、こうして皆で笑いながら歩けている。
それだけで、十分悪くない時間だった。
そして翌日。
今日は、ジャスティの強い要望もあって、あの図書館へ向かうことになっていた。
「どうしても、もう一回行きたいです! いえ、何回でも行きます!」
朝からずっと言い続けていたのである。
帝都の図書館は、帝都でも屈指の巨大建築だった。
白い石造りの外壁に、何本もの巨大な柱。高い尖塔。正面階段を上がるだけでも、自然と背筋が伸びるような威圧感がある。
地方の領民なら、一生に一度も入る機会がない者の方が多い場所だ。
もっとも――。ジャスティにとっては、そんな格式などどうでも良かったらしい。
料金を払い、館内へ足を踏み入れた瞬間だった。
「わぁぁぁぁ……!」
金色の髪を揺らしながら、ジャスティがふわりと浮き上がる。
高い天井。どこまでも並ぶ本棚。紙と革の匂い。静まり返った空気。
まるで別世界だった。
図書館は、吹き抜け構造になっており、巨大な円柱型の空間を取り囲むように本棚が並んでいる。上層階へ続く回廊まで本で埋め尽くされており、見上げれば果てが見えない。
古代史。魔法理論。精霊学。帝国法。地理。薬学。神学。
ありとあらゆる知識が、この場所には集められていた。ジャスティは完全に目を輝かせていた。
「相変わらず本がいっぱいですね……!」
そのまま、吸い寄せられるように本棚の奥へ飛んでいく。
「ジャスティ、静かにね」
ヴェゼルが小声で注意すると、「はっ……!」ようやく周囲の静けさに気付いたらしい。
慌てて両手で口を押さえ、「しーっ……」と自分でやっていた。
もっとも、騒がしいのはジャスティだけではない。
「これ見て! 服の本!」「おっ、こっちは魔物図鑑だ!」
ルーミーとトールも完全に楽しみ始めていた。
ルーミーは装飾や服飾関係の本へ興味津々で、鮮やかな挿絵が載っているページを見つけるたびに目を輝かせている。
トールは逆に、冒険譚や魔物、生物図鑑の棚を渡り歩いていた。
小声ではあるが、ずっと楽しそうだ。逆に、タンクは最初から完全にやる気がなかった。
「むずかしそぉ……」
そう呟いたあと、早々にプロフィアのバッグの中へ戻り、そのまま丸くなる。
「タンクさん、本当に興味ないんですね……」
プロフィアが苦笑する。
「んぅ……僕、本より食べ物の方が好き……」
半分眠っていた。
そんな様子を見ながら、ヴェゼルも静かに本棚を眺める。
これから始まる新しい生活を思えば、決して気楽な状況ではない。だが――。今だけは、こうして皆で穏やかに笑っていられる。
静かな図書館の空気の中で、ヴェゼルはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
騒がしく。賑やかで。
けれど、どこか穏やかな時間だった。




