第651話 そして
街道は緩やかな丘陵を縫うように続き、心地よい風が草を揺らしていた。
ヴェゼルたちは道中、休憩のたびに馬車の乗員を入れ替えながら進んでいく。
長旅で空気が固まらぬようにと始めたものだったが、いつの間にか簡単なくじ引きまで用意され、誰がどの馬車へ乗るかで小さな騒ぎが起きるようになっていた。
もっとも、その旅路自体は驚くほど平穏だった。
理由は、誰の目にも明らかである。ルドルフがいるからだ。
森沿いを進んでいれば、本来なら魔物と遭遇しない方がおかしい。
だが実際には、気配を察した時点で魔物の方が逃げていくことすら多かった。
それでも運悪く飛び出してくるものがいれば、ルドルフが馬車からぴょんと降り、数秒後には終わっている。
巨大なオークの魔物が飛び出した時など、ルドルフは「ワフン」と小さく鳴いた次の瞬間には地を蹴っていた。
小柄な体が一瞬で懐へ潜り込み、銀色の軌跡が閃く。
次の瞬間には、魔物の首が地面へ落ちていた。返り血すら、ほとんど付いていない。
それを見ていたガヤルドの娘プロフィアと、弟のナーロは完全に目を輝かせていた。
「ルドルフさんすごい!」「かっこいい……!」
馬車へ戻ってきたルドルフへ、二人が一斉に駆け寄る。
ルドルフは澄ました顔で前足を組み、「まぁ、これくらい普通」とでも言いたげに顎を上げていたが、後ろでは尻尾がぶんぶんと左右へ揺れていた。
褒められて嬉しいのが隠し切れていない。
一方で、ヴェゼルとガヤルドが同じ馬車になると、空気は妙に固かった。
旅の途中から、補給や食料、水の管理などはガヤルドへ任せる形になっていた。
本人が「こういう雑務には慣れている」と言ったこともあり、実際、手際も良い。ボクスターも補佐へ入り、帳簿や在庫確認を一緒に進めていた。
だから会話自体はあるのだ。ただ、その内容が徹底して事務的なのだ。
「次の宿場まではどれくらいですかね」
「半日ほどだろう」
「補給は問題ありませんか」
「前の街で済ませてある」
そこで終わる。会話が続かない。
ヴェゼルとしては、かなり気まずかった。
別に仲が悪いわけではない。だが、根本的に互いの性格も考え方も違いすぎるのだろう。共通の話題も少なく、どう距離を測ればいいのか分からない。
しかし当のガヤルドは、まるで気にしていないらしい。
いつも通りの仏頂面で座り、淡々と書類を確認したり、補給計画を見直したりしている。
その様子を見ていると、ヴェゼルだけが勝手に気まずがっているような気分になってくるのだった。
逆に酷かったのはフィリーだった。
ヴェゼルと同じ馬車になるたび、背筋をぴんと伸ばし、まるで面接でも受けるかのように固まってしまう。言葉遣いまで妙によそよそしく、緊張が隠し切れていない。
「ヴェ、ヴェゼル様、お、お飲み物を……」
差し出された水筒を受け取りながら、ヴェゼルは苦笑する。
「普通でいいですよ?」
だがフィリーはぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ……! そんな失礼なこと……!」
そして最後には、なぜか自分で恐縮し始める。
どうやら、あの第三騎士団との戦闘を見てしまっていたらしい。百騎近い騎馬兵が、一瞬で崩れ落ちたあの光景。
兵も馬も、何が起きたか理解する暇すらなく絶命していった惨状を、間近で見て平然としていられる方が少ない。
ちなみに、プロフィアとナーロは見ていない。あの時、フィエスタが異変を察した瞬間、すぐに二人を抱き寄せていたのだという。
「外は危険ですから見てはいけません。目を閉じて、耳を塞いでいなさい」
穏やかな声だったが、有無を言わせぬ強さがあったらしい。
そのまま二人へ毛布を被せ、馬車の奥へ押し込める。さらに、自分はその前へ座り込むように位置取り、荷物の陰に隠してあった短剣を静かに握っていたという。
万が一、誰かが馬車へ踏み込んできた時は、自分が時間を稼ぐつもりだったのだろう。
プロフィアは戦える人間ではない。だが、それでも子供たちを守るために前へ出る覚悟だけは決めていた。
後でそれを聞いたヴェゼルは、内心かなり感心していた。
つくづく、よくできた人だと思う。
実際、プロフィアとナーロも本当に素直で良い子だった。
最初こそ少し距離があったものの、数日もすれば普通にヴェゼルへ話しかけてくるようになり、気づけば三人で笑いながら話している時間も増えていた。
ヴェゼル自身、同世代の友人というものがほとんどいない。だからこそ、その空気は妙に新鮮だった。
そんなある日のこと。
フィリーは相変わらず、ヴェゼルと同じ馬車になるたびに背筋を固め、視線すら落ち着かないまま座っていた。
手元の荷物を必要以上に整えたり、意味もなく姿勢を正したりしているあたり、緊張はむしろ悪化している。
その様子を、ヴェゼルのポケットの中からサクラがじっと見ていた。
暇だった。正確には、何も起きない移動時間に、単純に退屈していた。
そっと、ポケットの縁から小さな顔だけを出す。毛の間から覗く瞳が、馬車の中を観察するように動いた。
フィリーは気づかない。目線はずっと正面、呼吸はやや浅く、完全に余裕がない。サクラはしばらくその様子を見てから、ゆっくりと顔を引っ込めた。
静寂。次の瞬間だった。
「わぁっ!!!」
ポケットから一気に飛び出し、目の前へ。完全に狙いすましたタイミングだった。
フィリーは「ひゃあっ!?」と短い悲鳴を上げ、その場で凍りつくように硬直する。肩が跳ね、目が見開かれ、呼吸だけが止まりかけていた。
サクラは満足げに宙で一回転し、そのまま得意げに鼻を鳴らした。
フィリーは目を見開き、肩を震わせる。次の瞬間には、じわりと涙が浮かんでいた。
本気で怖かったらしい。そのまま、しくしくと泣き始めてしまったのだ。
フィリーは真っ赤になった顔を隠すように俯いたまま、小さな声で「……馬車を、止めてください」と頼み、着替えの入った鞄を抱えて街道脇の草むらへ消えていった。
戻ってきた時にはスカートが替わっており、顔は耳まで赤い。
俯いたまま、一言も顔を上げなかった。
どうやら、本当に漏らしてしまったようだった。
さすがにヴェゼルもサクラを叱りつけ、半ば無理やり謝らせたのだが、フィリーはその後もしばらくまともに顔を上げられなかった。
ただ、旅が進むにつれ、少しずつ空気は変わっていく。
次のシャッフルで、アプローズとフィリー、そしてヴェゼルが同じ馬車になった時だった。
最初はぎこちなかった二人だったが、アプローズが昔と変わらない調子で明るく話しかけ続けるうち、フィリーも少しずつ返事を返すようになっていく。
ぎこちないながらも、笑顔が混じり始める。
昔の友人同士だった空気が、ゆっくりと戻り始めていた。
ヴェゼルはそれを眺めながら、どこかほっとしたように小さく息を吐くのだった。
また別の日。ヴェゼルはフィエスタと同じ馬車になっていた。
窓の外では、緩やかに流れる草原が夕陽に染まり始めている。馬車は一定の揺れを刻み、車輪の軋む音が静かに続いていた。
プロフィアとナーロは遊び疲れたのか、並んで眠っている。
ナーロは毛布を蹴り飛ばし、プロフィアはそれを半分ほど奪うように抱えていた。フィエスタが苦笑しながらそっと掛け直す。
その仕草があまりにも自然で、柔らかかった。静かな空気が流れる。
そこでヴェゼルは、ふと前から気になっていたことを口にした。
「フィエスタさんって、すごく穏やかで良い人ですよね」
「ええ?」
フィエスタが目を瞬かせる。
ヴェゼルは真顔のまま続けた。
「なんでガヤルドさんと結婚したんですか?」
フィエスタはぽかんとした後、耐えきれなくなったように吹き出した。
肩を震わせながら笑う。
「それを、本人の前では言わないでくださいね?」
ヴェゼルが頷いて返事をすると、フィエスタはまた小さく笑った。
聞けば、元々は許嫁同士だったらしい。
男爵家と騎士爵家。家格としても自然な縁談で、幼い頃から交流はあったのだという。
「若い頃のあの人は、もっと柔らかかったんですよ」
フィエスタは窓の外を見ながら静かに言った。
流れていく景色へ視線を向けたまま、どこか懐かしそうに続ける。
「頼りになりましたし、ちゃんと周りも見ていました。良い夫でしたし、良い父でもありました」
少し間を置き、穏やかに笑った。
「……今も、家族には十分尽くしてくれていますけどね」
ただ、魔法省へ入ってから徐々に変わっていったらしい。仕事に追われ、周囲との競争に晒され、気づけば顔つきが険しくなっていった。
「まぁ……元々、ああいうプライドの高いところはありましたから」
苦笑する。
「今の姿も、あの人自身なのでしょうね」
そこに責める響きはなかった。諦めにも似ているが、それだけでもない。長年連れ添った者だけが持つ静かな理解が滲んでいる。
ヴェゼルは少し考えてから口を開いた。
「でも、魔法省でそれなりの立場だったなら、他の貴族家とか騎士団とか……転職先はあったんじゃ?」
フィエスタはわずかに苦い顔をした。
「今なら、あると思います」
「今なら?」
「帝都の噂が広まる前なら、です」
静かな声だった。
「たとえ雇ってくれる家があったとしても、悪い噂が帝都で広まれば、すぐ立場は危うくなります。あの人も、それは分かっていたと思います」
帝都の貴族は噂に敏感だ。
そう聞いて、ヴェゼルは小さく首を傾げた。
「でも、その割には帝都の貴族はビック家の悪い噂ばっかり信じてたよなぁ」
その言葉に、フィエスタは少しだけ目を伏せる。
「帝都では……良い噂は、あまり広がらないんです」
揺れる馬車の中で、静かな声が落ちた。
「悪い噂の方が、皆好きですから」
サマーセットでの戦い。クルセイダーの殲滅。教国との戦争。
そうした話も、帝都では正確な形では伝わっていなかったらしい。
誇張され、歪められ、あるいは都合よく削られていた。
「誰かが意図的に流れを作っていたのかもしれませんね」
フィエスタは小さくそう呟いた。
ヴェゼルは返事をせず、しばらく窓の外を眺める。
吹き抜ける風は穏やかだった。
その頃、別の馬車ではアプローズが延々とボクスターへ話しかけていた。
「それでですね、最近ヴェゼルさんが――」
「ほう」
「あとですね、この前――」
止まらない。母を亡くしてから、ボクスターとは月に一度会えるかどうか程度だったらしい。
後見人のような立場ではあったが、互いに忙しく、ゆっくり話す時間などほとんどなかった。
だからこそ、今こうして同じ馬車で長く話せることが嬉しくて仕方ないのだろう。
アプローズは終始にこにこしていた。
ボクスターもまた、そんな彼女を穏やかな目で見ている。時折相槌を打ちながら、その顔には自然な笑みが浮かんでいた。
まるで孫を見る老人のようだった。
ヴェゼルは、揺れる馬車の窓から流れていく景色を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
ほんの数年前まで、ビック領は辺境の貧乏な小領地に過ぎなかった。
痩せた土地、少ない人口、帝国でも名を知る者などほとんどいない弱小騎士爵家――それが、今ではどうだ。
領都は拡張を続け、街道には荷馬車が絶えず行き交う。
領民は急増し、新たな村と畑が次々に生まれ、商業ギルドには毎日のように新顔の商人が現れるようになった。
知育玩具、ホーネットシロップ・酒、白磁、ガラス製品。
気づけば、ビック領の名産は片手では数えきれないほど増えている。
さらに、精霊と妖精の存在。加えて、神獣ルドルフとシャノン。
そして今回――教国との戦争にも勝利した。
表向きは、今もなおバルカン帝国に属する一騎士爵家。だが実際には、帝国との距離はもはや限界寸前にまで開いている。
あの帝都での一件を経て、ヴェゼルにもそれは痛いほど理解できていた。
恐らく、もう後戻りは難しい。
今後どう転ぶのか。帝国と完全に袂を分かつ未来すら、決して冗談ではなくなっている。
だからこそ――今回の件で魔法省の人員が増えたことは、ビック家にとって大きかった。
ガヤルドは性格に難はありそうだが、管理能力そのものは高い。
魔法使いであり、物資管理、補給、人員整理、書類処理――そういった裏方仕事に慣れている。
そして何より、長年ベントレー公爵の傍で動いていたボクスターの存在も大きい。
あの老執事は、ただの執事ではない。
貴族社会、外交、商談、情報整理、人心掌握――その全てに精通しているかんじがする。
帝都では嫌な目にも遭った。言われなき誹謗中傷を押し付けられ、騎士団と衝突し、帝国中枢の腐敗まで見せつけられた。
だが、それでも結果だけを見れば、ビック家にとって得るものも決して少なくはなかったのだろう。
ヴェゼルは小さく息を吐く。
あとは――。サマーセットに残してきたアクティ。
あのエリクサーで、無事に治っていてくれればいい。
それだけを、今は願うしかなかった。
馬車が緩やかに揺れる。
窓の向こうには、見慣れ始めたサマーセットの景色が広がっていた。
長かった旅も、ようやく終わりを迎えようとしている。
そして――。
ヴェゼルたちは、大きな問題に遭遇することもなく、無事にサマーセット領へと帰還したのだった。
ちょっと、長文になりました。




